012:ガードレール
「待てぇーーーーーーーッ!!」
そんな女の絶叫にも似た声が街に響き渡る。
ギャリギャリと酷く軋んだチェーンの音をお供に、風と化した自転車が素晴らしいスピードで道路を疾走して行く。
凄い剣幕の彼女の前には――違法改造でもされているのか、二人乗りの原付にしては速いスピードで逃げてゆく者等の背中があった。後方の男が後ろを確認しては嫌な顔をしている。まだついてくるのか、とその目は言っていた。
「ひったくりなんてセコイ小悪党、絶対逃がさないわよッ!!」
どういう鍛え方か、あるいはこちらも改造車か。自転車は立派にバイクに食らい付いていた。ただし、その代償として通り過ぎる人々からは大変な奇異の目を向けられてしまっていたが。
幸いこの先は下りの坂道、加速がつけばあるいは捕らえられるやも知れない。そんな事を考えながら彼女はより一層ペダルを漕ぐ脚に力を入れる。
まるでB級――否、C級映画のチェイスを繰り広げながら彼らは走って行く。流れる景色はスピードを増し、どんどんと距離が縮まっていく。流石下り坂。
流石にブレーキをかけねばマズイか――そう感じ、グイとハンドルに備えられたそれを引いた。
が、手に伝わるのはスカスカとした無常な感覚。
…何度やってもそれは変わらず、ただ空気をかき寄せるだけだった。
全身から血の気が引き、背中が総毛立つ。視線を前方に戻せば目の前にあるのは引ったくりの連中と――さらにその先にはガードレール。
一か八か。スニーカーの底がなくなっても構わない、という覚悟の元で無理矢理ブレーキの代用とする。幾分か勢いは収まったもののそれでもぶつかる事は避けられそうにもない。
反射的にハンドルを切って――
――次の瞬間、彼女の視界に飛び込んできたのはよく晴れた蒼い空だった。
あ、こりゃ空舞ってるなー
そんな呑気な感想が湧いてくる。感覚は酷く鈍間で、まるでビデオのコマ送り映像を見ているように感じた。どこか遠くでガシャンッ!という音が聴こえる。きっと自転車がガードレールにぶつかって破損した音だろう。さらば、我が愛車。
恐らくはそれがぶつかる瞬間、反射的にペダルを蹴って跳躍した。だから今こうして空を見上げている。どうやら思いのほか高々と舞い上がってしまったらしく――まァスピードがスピードだったし仕方ないだろう――落下の時間が長い。否、それは恐らく間違いでただ単に体感スピードが極端に低下しているだけだ。
多分、このままロクな受身も取らずに地に叩きつけられれば、間違いなく怪我をする。よくて捻挫や打撲、わるけりゃ骨折。更にヘマを打てば死亡フラグか。
生憎と武道の心得はないので、受身の取り方など知りうるはずもない。そうなると運任せという事になるのだが――
…まぁ、何とかなるか。
早々に見切りをつけ、成り行きに身を任せる決断をする。運については悪くなかったように思う。ここで人生の終幕となるならまァそこまでの運だと言う事で。瞳を閉じ、目蓋の裏に焼き付けた先程の一面の蒼に思いを馳せ、来るべき衝撃への覚悟を固める。
しかし、痛みや衝撃の類はいつまでたってもやってくる事はなかった。それを感じないほどのショックだったのかというとそうではなく、伝わってきたのは意外にもそれを和らげるようなものだった。
頭と膝の裏。多分その辺に少々かための何かが当たった、と思うと大きく体が沈み、そして反動で撥ねる。ふわり、とした感覚に近い。
予想だにせぬ事態に、止まった思考が更に凍る。目を開いてみれば、一面の蒼ではなく眩い白色が見えた。
「…カッ! とんだ落下物だな、オイ」
男の声だ。どこかで聞いた覚えがある。
「――大丈夫ッスか?!」
ばたばたと二対の足音が近付いてきた。ぼやけた視界には入って来ていないので、どんなヤツなのかは判別できないが、こちらも声で男だろうと推測する。
「テメェら、またやってたのか?」
「…へへ」
「懐具合がちょっと、でして」
引っ手繰り犯だ。捕まえねば――
そう思うも、体がまともに動かない。指も、足も、そして頭も。痺れたように、僅かしか動かせなかった。
彼女が身じろいだのが判ったのか、白い男の体が僅かに動く。肩口に少し強い力がかかり、肩を抱かれているのに気付いた。
「…開けてみろ」
男の言葉に促されて、気配が何かを漁る音がする。
ダメ… 止めて――ッ!
そう言いたかったが言えなかった。
取られたバッグの中には金目の物は入ってはいない。だけど、それは彼女にとっては大切な物だ。捨てられてはかなわない、そう思ったからこそ必死で追いかけたのだ。
「ちっ、ロクなもん入ってねぇや」
「何でこいつこんなんで追いかけてきたんだか…」
「――テメェら追いかけてきて、派手に事故って、空舞ったわけか」
白男が笑っているような音がする。クラクラとした眩暈は時に酷くなったり、時に軽減されたりと波があるようだ。今は多分、谷間の周期らしく殆どまわりの音が拾えない。チカチカと、光る何かが視界で踊っている。覚えているのはそこまでだった。
次に彼女――が気がついたのは、恐らくは数瞬後だったのだろう。いまだ首と膝の後ろには何かの感触があったし、視界は大部分が白に覆われていた。
指先には少し熱が戻っていた。動かしてみるとわりにスムーズに動く。
「く…っ」
「――気付いたか」
先程と同じ男の声がした。低音だが、冷たいものは含まれ低ない。は靄のかかっている頭を軽く振り、自分の置かれた状況を把握する。
引ったくりを追いかけて、自転車のブレーキが壊れてて、空に放り出されて…ああ、そして今か。なんか見覚えのある顔が凄い近くで――って!?
「は、葉柱さんっ??!」
がばりと身を起こすと、いきなり世界が斜めになった。
あれ、と思う間もなくそのまま重力に導かれ、どさりとアスファルトにダイブした。結構痛い。
突っ伏したままの混乱した頭で情報を整理する。落ちた、という事はちょっとした高さがあったということだ。頭と膝の裏にあった程よい感触、そして先程の距離。もしかしなくても、派手に舞った自分を受け止めてくれたのは――
「…折角助けてやったってのに、自分からまた怪我をしてどーするんだお前」
「あ、いや、その…状況把握に失敗しました」
身を起こしながら、とりあえず片手を上げてその声に応えた。バイクにまたがっている人物をざっと観察する。
白の長ラン、長い手、どこか爬虫類を連想させる人相。やはり間違いない。族学の葉柱ルイだ。
一応一方的ではあるが面識めいたものはある。以前の練習試合で悪魔に弱みを握られ、その関連で練習につき合わされたりもしていたのだし。秋大会に向けて解放されたとは聞き及んでいたが…よもやこういう再会の仕方をするとは夢にも思わなかった。
ふと顔面の違和感に気付く。少し顔がひりひりした。先程の落下の際に擦り剥きでもしたのだろう。一応手で隠し、ぺこりと頭を下げる。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「ああ、なんか見覚えあると思ったら…泥門のマネか」
「はい。お勤めごくろー様です」
「――喧嘩売ってんのか、テメー」
「いえ、ちっとも。私のほうはまだまだ刑期がありそうなので、単純に羨ましいだけです」
殺気を発するルイに対して、ふっと遠い目をしながらは言う。事情を何となく察したのか、あァ…とうめいて納得したようだった。
妙な心の一体感を共有しているに、ぽんとバックが投げ渡される。先程引っ手繰られたものだ。
「あ、あたしのバッグ!」
「あんまり無茶するんじゃねェぞ」
「ハハハ… 善処します」
「まあ、あそこまでの曲芸はなかなかの見物だったが」
くつくつと咽喉で笑うルイ。改めて言われると恥ずかしさが戻ってくる。血流が一気に顔に集中し、発熱してきた。夢中だったとはいえ、今更考えるとどうしようもなく顔が赤くなる。
「――テメェの名は?」
「、です」
「…そうか。、あの悪魔に伝えとけ。秋大会で借りは返すってな」
一転して空気が冷え渡り、その獣じみた獰猛な笑みに一瞬息が止まる。
しかし次の瞬間には、もニヤリと口の端を持ち上げて言い切った。
「望むところです。返り討ちにしてくれます」
「カッ! 上等だ」
その言葉と同時に、ドルゥン! とバイクのエンジン音が響く。このバイクも改造しまくっているようで、マフラーから景気のよい音が出ている。
「ああ、それと――」
「何でしょう?」
「スカートで自転車の暴走はやめとけ」
「〜〜〜〜っ!!」
その一言に再び顔から火が出た。
発言した当人は、の反応など見るまでもないとばかりに、さっさとバイクエンジンを勢いよく噴かしてその場を去っていった。
END
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