046:名前
「素直な疑問があるのよ」
そう言って彼女は唐突に切り出した。
いつだっての言動は突然だが、今回もまたそれに違わず前後の話題関係なしに話し始める。
「前々から気にはなっていたんだけど、何でイチイチ”糞”なんてつけるの?」
バンっ、と勢いよく片手をテーブルに叩きつけ、真剣な眼差しでは目の前にいる人物を睨みつけた。
視線の先の鋭さを感じさせる金髪の男――ヒル魔はそれを気にした風でもなく、ぷぅとシュガーレスのガムを膨らませる。
「あたしには親からつけてもらったって言う名前があるし、他の人たちだってそう。個体を識別するのに、最も適切な名前をわざわざ湾曲して使いたがるのが納得いかないわ」
「だが、その名前以上に体を表してんだろ?」
「――そうかもしれないけどッ!」
にや、と人の悪い笑みを浮かべながらの彼の言葉に、思わずは言葉に詰まった。確かに彼のつけるあだ名にはある種の説得力が備わっている。時としてそれは輝くほどに。
しかしここで引き下がっては女が廃る。は負けん気を目一杯込めて反論した。
「そもそも失礼だとは思わないわけ?」
「思わないな」
「…じゃあ、誰かを名前で呼びたいって思った事は?」
この問いかけに対して、ヒル魔ははじめて回答に間を置いた。フム、とばかりに手にその特徴的な細長い指を添える。
だが、時間にして数秒もたたないうちにヒル魔は思考を終えたらしく、一際立ちの悪い笑みを目と口の端に浮かべた。
「――つまり、お前はそう呼ばれたいって事か、糞後輩」
はて、そうなのだろうか。
一瞬投げ返されたその揶揄にも似た言葉に、はぱちくりと目を瞬かせた。
ただ自分は不愉快にも取られるかの先輩の二人称に不満があるだけである。その――筈だ。
だがヒル魔の問いかけに、即座に”否”と答えられないとなると…少なからず無意識下でそう思っているのかもしれない。正直、認めたくは無いが。
「…よくわかんない」
結局、曖昧な言葉でお茶を濁す。眉を盛大に顰め、苦々しい表情の奈津美とは対照的に、悪魔の二つ名を欲しい侭にしている男はいたって上機嫌だった。
「ま、呼ばれたきゃ呼ばせるくらいになるこった」
「具体的には?」
「マネとして有能になる」
「……果てしなく道は遠そうだわ」
のマネージャーとしての能力は平均して良くも悪くもなく――といったところが現状だ。掃除だとかの分野では並以上だが、如何せんデータ方面でのスキルが不足している。
それを自覚しているのか、彼女はあっさりと肩を竦ませた。言われずともやるからには現状より上を目指す事はするが、彼の基準で”有能”というレベルになるまでには如何程の時と労力を要するのか、はっきり言ってには見当もつかなかった。
そんなの思考でも読み取ったのか、ヒル魔は次の条件を口にする。
「――もしくは、俺が惚れるような女になるかだな」
その発言に、今度こそは呆気に取られた。脳内の強制再始動から情報の再構築までに、かなりの時間を要する。酸素補給の為か無意識下の神経が呼吸を促し、パクパクと口が動いた。
たっぷり一分間場は沈黙に守られ、その後ようやっとの思考回路は通常営業を始める。乾いた口内に僅かな不快感を覚えつつ、どうにか台詞を搾り出した。
「えーっと…… それはどんな天変地異とか地殻変動とか起こればそーなるんで?」
ごきん、と音を立てそうなほどに首を傾げてはそう訊ねる。それはからすれば心底本心から来た疑問であった。
ヒル魔はそんな彼女の様子を、実に面白そうにくつくつと咽喉の奥で笑いながら答える。
「そういう馬鹿正直なところは――悪くねェな、」
不意打ちかつカウンターのその呼びかけに、は本日二度目のフリーズ現象を味わうこととなった。
END
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