050:葡萄の葉
「あと一片が散れば…きっとあたしは、もうここにはいないと思うの」
場所は教室、時は休み時間。
隣席の友人に何とはなしに声をかけてみると、帰ってきたのはそんなトンチンカンな言葉だった。の眼差しは窓の外へと向けられ、その瞳はマンボウの如く茫洋としている。
「…お前、何黄昏てるんだよ。似合わねえぞ」
「ふふっ、木の葉散る秋の空…木枯らしが私の中には吹き荒れているわ」
冷や汗たらしながらの突っ込みの言葉にも、は遥か彼方に意識を吹っ飛ばしたまま帰ってこようとしない。ちなみに季節はもうすぐ夏休みである。
どうするべきか、と思いをめぐらす。ふと、十文字はの手の中のものに気がついた。
くしゃくしゃになった一枚のプリント。そう言えば、先ほどの時間は数学だった。先日行われた期末テストの返却があったばかりである。
ぴん、ときた十文字は、ボソリと一言呟いた。
「…………座布団か、それとも没収か?」
「――山田くーん、全部持ってっちゃってー」
あはははは、と笑うの表情には力がない。じっと目を凝らせば、薄いわら半紙には記された得点が透けて見えていた。
――19点。見事な赤点である。数字の下にくっきりとひかれている紅い線がまるで座布団のようだ。
「ちなみにこれから一週間後に追試で、それでも駄目なら夏休み一杯ずっと補習であります隊長殿」
「誰が隊長だ、誰が」
「おーねーがーいー、確か十文字君数学得意だったよね! プリーズティーチミー!」
「聴けよ人の話! むしろ何で俺が教えなきゃならねーんだよ!!」
掴みかかる様に縋ってくる彼女の額を片手だけで静止しつつ、十文字は叫び返す。
その言葉に、は得意気に――だが、顔は十文字に押さえつけられたままなので雰囲気でしかないのだが――理由を述べた。
「あたしの情報網を甘く見ちゃ困るわね。実は十文字君がそれなりに勉強できるというのはリサーチ済みよ。
それにだって何だかんだ言って、頼られたらイヤといえなさそうだし。いわゆる、お兄ちゃん気質? いよっ、カッコいいぞ漢前!」
「言葉に誠意を感じねェぞ、!」
「言葉に誠意を感じないのであれば、態度やモノで示しましょう。
数学の特訓つけてくれたら、チロルチョコ一箱奢るっ!」
「――ッ」
彼女の言葉に、十文字の身体がピクリと震えた。生じた一瞬の隙に、は彼の手を振り払ってにたりと笑う。
「ふっふっふ… 心が動いたわね。更に畳み掛けて、うまい棒20本もつけるわよ!」
「……そこにハーゲンダッツも追加するなら、考えてやる」
「あ、足元見てるわね… 判ったわ、その条件飲もうじゃないの」
「――よし、のってやる。ただし、俺は人に教えるのなんて専門外だからな。そこだけは判っとけよ」
「じょぶじょぶ! 元はキッチリ取らせて頂きます。早速今日からヨロシクね!」
せせこましくも涙ぐましい買収交渉の甲斐あってか、十文字のレッスンは十分丁寧で、かつ判りやすかった。
悪戦苦闘の後、どうにかこうにか追試をクリアし、約束通りの報酬をは支払うことになる。
「……まさか、輸入前のハーゲンダッツを奢ることになろうとはね」
「むしろ俺はなんでお前がこの合宿に参加しているのかが気になる」
「だって仕方ないじゃない。あの悪魔に有無を言わさず連行されちゃったんだから」
キラキラと光る海面と、白く焼けた砂浜。風に乗って聞こえてくる喧騒に、何故か聞き覚えを感じる。
だが砂浜でまでアメフトをやるはずが…いやあ、やってるかもなぁ。あの悪魔なら。ふっとそんな他愛もないことをは心で呟いた。
バニラ味のミニカップをお互い手にしたまま、視線は敢えて現実を見つめぬように抜けるような蒼い空へ向けられていたのだった。
END
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