084:鼻緒
マズった――
心の中で毒づいて、は右足をブラブラと振った。
自分の全体重を支えている左足はまだ何とか生きてはいるが、右は完全にアウトだ。
電柱の袂、頼りない街灯の灯りに照らされた己の脚に刻まれた傷跡。親指と人差し指の間を走っている紅い線。
ジワジワとした痛みはそこが発信源で、少し力を入れようものなら突き刺すようなそれに変化する。
裸足でこうなのだ。下駄を履いたままであれば、怪我の原因ともなった鼻緒が箇所に当たり、更なる悪化は免れない。
…裸足で帰るしかないかな?
折角の祭だ――と、色気と気合を出して浴衣装備で挑んだことがまずかったのか。
友人たちと一緒に居たときは、見栄と根性でどうにか誤魔化していたが、別れて一人きりの帰路になった途端痛み出した。我ながら随分な意地っ張り加減である。
「おい、そこの不審人物」
「は、はいっ…ってか、いきなりその言い方ってモンは失礼なヤツ――」
ヘコみ度MAXの時に背後から声をかけられ、思わず上ずった素っ頓狂な声が咽喉から漏れた。
すぐさま気を取り直して一言文句をつけつつ振り向くと、そこには思いもかけない人物が居た。
「失礼な言い方されるほど、怪しいが悪りィんだろ」
「あれ、十文字君? 何でまたこんなところに」
「テメェと一緒だ。黒木と戸叶とでそこの神社の祭の冷やかしだ」
くい、と自分の後方を十文字は親指で指し示す。成る程、その手には射的あたりで取得したのだろうか、少し流行から外れたぬいぐるみが握られている。
「でも一人じゃん」
「帰り道が違うんだから当然だろ。それより――一体何やってんだ」
「ああ…ちょっと、ね」
えへへー、と誤魔化し笑いを浮かべて、は傷めた右足をすっと十文字に向け差し出した。片手で浴衣の裾を手繰り、空いたもう片方は電柱に沿えて片足バランスを保つ。
薄墨に浮かぶペールピーチのキャンバスに、鮮やかと言っても差し支えのない紅色の痕が浮かびあがっていた。先刻よりもコントラストが上がっている。
は我ながら、ああ痛そうな色合いだとシミジミしてしまった。後日青黒くなるのは確実だろうなと思うと、気も重くなる。
それを一瞬だけ視界に納めると、十文字は瞼を伏せてガリガリと自分の頭を掻いた。眉間にいくつかの皺を刻む。
「――手と肩と背中」
「…はい?」
「どれか一つだけ貸してやる」
視線はあくまで明後日の方向に飛ばしたままで、十文字が呟く様な掠れ声で言った。不意の脈絡のない言葉に、思わずはマジマジと彼の顔を見つめる。
ぽつぽつと灯るだけの街灯の明かりをお門違いに責めたくなった。この微妙な距離と薄暗さでは、恐らく見事な林檎色になっているだろう十文字の表情がはっきり見えない。
「…それじゃ、肩貸してもらえる?」
「おう」
くすくすとした笑いすらも堪えて、なるべくさり気無い口調では答えた。
手だけでは物足りないけど、背中は流石に気恥ずかしすぎる。
でも――知り合った当初から随分と立派になった肩ならば、少しの間だけ体重を預けてもいいかな、と思った。
傷めた片方の足を庇うようにして立ち、小器用にけんけんの要領で彼への僅かな間を詰める。多少よろけはしたものの、まあ問題ない。
すっと差し出された十文字の手を、へらっと笑って受け入れた。そのまま無言での手が彼の肩にかかり、腰に手が回される。
思ったより自分の腕が高く上げられて、ああやっぱり違うのだなあと何ともいえない気持ちになった。
肩甲骨から首周りにかけての筋肉はがっちりとしているし、添えられるように回された十文字の腕は自分のソレとは比較にならないほど逞しい。
同じくらいの期間を生きているはずなのに、はっきりと差異のある身体。男と女の違いをはっきりと感じる。
「やっぱさー、慣れない事はするもんじゃないねー」
「…そうだな」
十文字がを気遣っているのかそうでないのか判らないが、二人の歩くスピードはとてもゆっくりとしていた。
からころとアスファルトに彼女の下駄の音が響く。その音は遠くから響いてくる祭の喧騒に消えることもなく、イヤにはっきりと耳についた。
「でもさ、やっぱりお祭りには浴衣だと思わない?」
「…そうだな」
「浴衣とリンゴ飴、金魚すくいに綿アメ、アメ細工!」
「…そうだな」
何かを誤魔化すように一方的に話し続ける。しかし当の十文字の答えは画一的で、的を得ているのかいないのか酷く曖昧だった。
そのまま少しの間だけ口を噤むと、再び下駄の音だけが耳に入ってくる。
響く沈黙に耐え切れず、ボソッとは脈絡もへったくれもないどうでもいい言葉を呟いた。
「……香りマツタケ味シメジ」
「…そうだな」
ロクに聞いてないこと決定。の額にプツリと血管が浮き出る。
怒りの勢いに任せ、ギリっと、かなり強めに十文字の手の甲を抓った。
「いってェッ!!」
「ちょっと十文字君、アンタ人の話聞いてないじゃない!」
「が一方的に話してただけだろうが!」
「会話はコミュニケーション! キャッチボールよ!」
ここは一つビシッと指でもさせば決まっただろうが、残念ながら今はそんなことが出来る体勢ではない。
代わりといっちゃあ何だが、ギロリと擬音が付きそうなくらいの瞳でもってまっすぐ十文字の目を見てやることにした。
暫らくそのまま睨めっこをしていたが、ややあって十文字の方がふいっと視線をそらした。の腰に回された十文字の手が僅かに震えた様な気がする。
「…聴いてなかったのは悪かった」
「やけに素直なのが気持ち悪いけど…まあいいわ」
「さっさと行くぞ。んで、テメェの家何処だ」
「――そういや知らないわよね、普通は」
普通に歩けばここから5分もしないところだけど、この状態だと倍以上かかりそうね〜と、呑気な様子のに、十文字は呆れを存分に孕ませて嘆息した。
「しっかりナビ頼むぜ、マネージャー殿」
「まっかせなさい」
無意味やたらと偉そうな口調で了承する。苦笑したまま十文字が短く「行くぞ」と声をかけた。
の左手には右足の下駄を。十文字の右手には景品のぬいぐるみを。
それぞれがゆらゆらと一定のリズムを取りながら、二人の背は遠ざかっていった。
END
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