088:髪結の亭主
「ちょっと、そこの三兄弟!」
後ろから聞き覚えのある声で呼びつけられ、お得意の息のあった「ハ?」「はぁ?」「はぁああああ?!」とそれぞれ息巻いて振り向く。
するとそこには、片手を腰にもう片手に救急箱を持って、仁王立ちでが佇んでいた。
「そんなボロボロのままで帰ろうなんて、いい度胸してるじゃない」
「別に、コレくらい――」
反論しようと口を開いた十文字の膝裏に、は素早く自分のつま先で軽く突っついた。
生理的反応でがくん、と膝が落ち崩れ落ちるように地面に倒れる。顔を守るよう、なんとかとっさに腕を地につけた。
「テッメ、ッ! 何しやがんだッ!!」
「なに馬鹿なこと――」
「――立てる?」
抗議してくる黒木と戸叶を意にも介さず、冷たい眼差しでは倒れたままの十文字を見た。
普段であれば、こんな理不尽な扱いを受けようものなら即座にやり返してくるであろうはずなのに、一向にそんな気配は見えない。
第三者の目にも明らかなほど両脹脛は震えているし、身体を支えている腕だってまるで何かの機械で振動を与えているかのようなブレ方だ。
にやりとした表情を浮かべ、が嘲笑う。
「ま、立てないでしょうね。何たって、けちょんけちょんに喧嘩に負けた挙句、ベンチプレス、更に賊学生相手の組み手を延々と。流石に体力が底をついてるでしょ。
それにね…そういう状況で中途半端に腰をおろすと、一気に疲れが出て立てなくなるのよ」
つまりはが膝かっくん喰らわせて強制的にそうさせたわけなのだが。
立ち上がることを諦め、尻を地面に下ろし片膝を立て、恨みがましい目と口調で十文字はに言った。
「…口で言えば十分だろうが」
「あら、それを振り切ろうとしたのは何処のどちら様?
戸叶君も、黒木君も。こういう目にあいたくなければ、素直にあたしに従ってね」
微笑を浮かべるに、グッと十文字は言葉を飲み込んだ。口元は緩くカーブを描いて、優雅といえるほどの笑みを模ってはいるが…目が据わっている。
残る二人の彼女の笑みの前に、だらだらと脂汗を流すばかりだった。蛇に睨まれたカエル状態である。常ならば負けるはずもない相手だが、今の状況ではそうもいかない。
「んじゃ、ちょっと大変だろうけど、このヘタれてるお兄ちゃんを部室まで引きずってもらえる?」
「…へいへい」
「十文字、肩」
「悪ィな」
もはやロクに反論する気力も体力もないのだろう。意外と素直に男たちはの言葉に従った。
「ぎゃーっ!! ッ、いたい痛いイタイッ!!」
「あーもー、うっさいっ! 男でしょうが、黒木! ちょっとは我慢しなさい!!」
「痛いもんは痛いんだよッ!」
「静かにしないと、オキシドール更にぶっ掛けるわよッ!」
「鬼―ッ!」
ぎゃあぎゃあと騒がしく、それでも手付きだけは的確にテキパキとは傷口の治療を続ける。
手近にあるテーブルをかなりの勢いでタップする黒木だったが、残念ながら降伏は認められず容赦のない消毒液攻撃の餌食となり続けていた。
他の二人も既にの手によってバンソウコウや湿布まみれの姿にされ、ややグッタリとした様子で二人のやり取りを眺めている。黒木ほど抵抗しなかったので、まだ比較的優しく介抱されたと言ってもよかったが、それでも手加減なしの治療手腕に僅かに残されていた余力も削られた気分だ。
既に他のアメフト部員は既に帰宅してしまっているので、今部室には三兄弟との四人しかいない。夕暮れ色に染められている室内で、心底呆れた口調を隠すこともなくはぼやく。
「それにしてもまぁ… 見事なまでの負けっぷりだわねー」
むしろしみじみとすらしている彼女に、さしもの三人もぐぅの音も出なかった。
「――でも、このまんま終わるってワケじゃないんでしょ」
「…おうよ」
短く、しかしキッパリとした黒木の答えに、は満面の笑みを浮かべる。はいお終い、と軽く傷だらけの腕を叩いた。散らばった治療道具を元のように救急箱にしまいこむ。目線は手元に固定したまま、彼女は淡々と言葉を続ける。
「…怪我を治して、試合に出て、勿論勝って。
そのあと、一発でいいわ。アンタ達全員、グーで思い切り殴らせなさい」
「はぁっ?!」
「何でそんな無茶苦茶な…」
「治療費と心配料としては安いもんでしょ」
顔を上げ、さらっと言い切った返答に一瞬言葉に詰まる。は鋭い目付きとともに、その細い指を男たちに突きつけた。
「アンタらだけでその連中を負けさせられるの? アメフトのあの字も知らなかった素人が」
「……」
「先輩たちがアメフトのテクニックを教える。アンタらはそれをマスターできるよう頑張る。
あたしはそれを最大限補助する。そのためには細かな傷でうっかり大事になってもらっては困るわけ。
それにね――」
険しい顔が一瞬にして不敵な笑みに変化する。口角を深く吊り上げ、ぱちんと一つウィンクをした。
「バカにされて、悔しいのはあたしだって一緒よ。負けっぱなしは趣味じゃないの」
「…十分も血の気が多いじゃねぇか」
「オレ達の事言えた義理じゃないな」
「むしろよっぽど性質が悪い」
「なによ皆して!!」
揃って指摘され、はむぅっと頬を膨らませた。
憤る彼女に、あるものは肩を竦ませ、あるものは揶揄するように笑う。
「ま、それなりにやってやるさ」
「俺らの力ってヤツを見せてやる」
「これからよろしく頼むぜ、マネージャーさんよ――」
次々と上がるそんな言葉に、満足げには口元を緩ませた。
END
髪結の亭主=尻に引かれる男性
…とのことです。
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