097:アスファルト



「――、何だよその怪我!!」

 声を荒げる十文字に、はからからと笑ってあきれるほど明るい声で言った。

「ちょっと宙舞っちゃった」
「はぁぁ?!」
「あたし自転車登校なんだけど、学校来る途中の坂で愛車のブレーキがイカれちゃってね…
 何とかスピード殺そうと思ったんだけど、ハンドル取られたまんま段差に乗り上げてそりゃもう見事にお空に放り出されました」
「…アホか」
「んで、アスファルトと熱烈に接触しちゃったわけよ。ざーりざーりと」
「部室にくる前に保健室行ってこいよ…」
「えー、面倒。それにこっちにだって救急箱あるし。別に骨とか筋とか痛めたわけじゃないからさ。擦り傷だけだもん」

 呆れる十文字に対して、はあっけらかんとそう答えた。棚に常備している救急セットを引っ張り出し、その中から消毒液やパフを取り出す。

「でもまあ…ビックリはしたけどね、流石に。宙舞う経験なんてそうそうないし」
「しょっちゅうあったら命がいくらあっても足りないだろうが」
「そりゃそうね」

 軽口を叩きながらも、の手は手際よく動いていた。眉を顰めながら消毒をし、傷口をトントンと軽くパフで叩きながら汚れを拭き取る。その場所に薄く軟膏を塗った。やや程度の酷い膝に対しては、更にその上からガーゼを当て、紙包帯で保護をしてゆく。

「しかしまあ…派手にやったもんだな」
「我ながらそう思うわ。でもま、この程度ですんで上々よ」
「…顔にも傷付けといてその台詞か?」

 その言葉に、初めてが驚いたように目を見開いた。

「…気付いてなかったのか? 右頬、かなり赤いぞ」

 言って十文字は自分のその場所を指差す。恐る恐るはその場所を触れてみるが、その途端に電気刺激にも似たものが身体の中を走った。指には僅かに血がついている。

「おおおぉぉっ?!」
「直に障るなって。折角忠告してやったのに」
「うるさぁーい! ううう、顔はやだなあ。バレバレじゃない、コケたの」
「自業自得だろ」
「そりゃそうだけどねえ… しっかしこれは鏡見ないと手当て上手く出来ないわ。スタンド、どこだっけ?」
「確か、この間銃撃で壊れた」
「……そぉだったわね。あのデストロイヤーめ」

 この場にいない悪魔の化身に、は心の中で有りったっけの悪態をついてやった。
 一応、も現役女子高生の端くれであるので、ハンドミラーくらいは常備している。しかし治療をするには広い範囲を映し出してもらわないと心もとない。
 いっそトイレの鏡でも使うか、などと考えていると、の手の中から消毒薬のボトルがあっという間に消え去った。消えたそれは十文字の手にワープしている。

「ちょっと、返しなさいよー!」
「鏡もないのにテメェの面まともに手当てできんのか?」
「…そこは気合と根性で!!」
「バーカ。
 ――俺がやってやる。そっちが早いだろ」

 視線を明後日へとすっ飛ばしながら提案してくる十文字に、思わずは吹き出しそうになったが何とか堪えた。見かけによらず存外とテレ性であるとは知っているが、彼の好意を無碍にするほど情緒がないではない。
 わざと彼の異変に気付かぬフリをしつつ、努めて明るく言った。

「消毒液は直接肌にスプレーしたらダメよ。流石に顔だからさ。目にでも入ったら地獄を見ちゃうだろうし」
「判ってるさ、そんくらいは」
「炎症予防のこのクリームはつけすぎないようにね?」
「おお」

 手当ての際の諸注意を簡単に伝え、は目蓋を閉じた。流石に開いたままだとお互いに気まずかろう、と思っての事である。
 そのまま暫らく目を瞑ったまま待っていたが、一向に始まる気配がない。瞳は閉じたままで、聞き手で挑発するように手招きをした。

「サクッと始めてサクッと終わらせよーう」
「…チッ」

 あからさまに舌打ちが聴こえる。続けてかすかに溜息のような音。視界を閉ざしている分、残りの感覚が鋭さを増しているようだ。しゅっ、と消毒液のスプレーが噴出す音まで聴こえる。
 気配が近付き、の頬に十文字の手が添えられた。どこかがさついていて、そして大きな手は男性のものであることを酷く実感させる。
 つうっ、と冷たさが反対側の――怪我をした方の頬に撫で付けられた。爽快さとひり付く痛みは半々といったところだった。パフにつけられた消毒液が擦過傷に染みる。オキシドールの鼻をつくような刺激臭とは別に、その奥がじんと痺れた。

「く…っ……」

 ともすれば口から上がりそうな痛みの悲鳴を、奥歯をぐっと噛みながらこらえる。
 それでもきつく結ばれた唇からは、時折うめくような音が漏れた。途切れがちになる呼吸をするたびにそれは零れる。
 首を降って手当てを拒否しようとするのを抑えるように、十文字の手はしっかりと怪我をしていない方の頬に当てられている。片手だけだというのに、ただそれだけで動かすことが出来ない。
 消毒液の冷たさと反比例するように、彼の手の暖かさが直に伝わってくる。それを一度感じてしまうと、そちらのほうにばかり意識がいってしまいそうだった。は慌てて傷の痛みのほうに集中しようとする。しかしそうすれば当然悲鳴の頻度は上がる。
 の苦痛を察しているのか、十文字の触れる力はやわやわとしていた。軽く、壊れやすい薄氷にでも触れるかのようだ。だがそれが今のには酷な事に感じられる。いっそもっと強く痛みを感じられれば、憚る事無く抗議の声をあげられるだろうからだ。丁寧に手当てをされれば、それを拒む事は難しい。
 ふっと支えられていた頬からその力が抜ける。危うく宙を泳ぎそうになる頭を止め、瞳を解放し、痛みで滲んだ視界で現状を把握する。
 近くのテーブルの上に赤味がかったパフが見えた。恐らくは先ほどまでの頬に触れていたものだろう。派手に転びはしたが、まさか顔までとは思ってもいなかった。
 すっと、その視界が一面肌色に染まる。何事か、と驚いたが、すぐにそれが人の手だと理解出来た。

「もう少し、目ェ閉じてろ」
「うん」

 の推理を裏付けるように十文字の声が降ってくる。言われるがままもう一度目を閉じた。
 暗転した視界の中、外界の状況を探る手立てとして今一番の効果を上げているのは聴覚だった。軟膏が入っている瓶の蓋をあけたのであろう、小さな摩擦音が聞こえる。
 目を覆っていた手が、再び頬に添えられる。顎を軽く持ち上げられ、自然と顔が上を向いた。
 ゆっくりと、綿越しではない十文字の指が傷の上を滑る。先ほどまで連続して与えられていた鈍い痛みは、それに慣れたのか今は殆ど感じなかった。
 今は逆に心地良い。マッサージでもされている気分だ。ゆるゆると与えられる刺激に思わず陶然とした気分になる。先ほどとは逆の意味で声を出さぬように努力せねばならなかった。
 苦痛のそれとは違い、心地良さに支配される時間は過ぎ去るのが早かった。気がつくと温もりは離れ、その代わりとばかりにくしゃくしゃっと頭を撫ぜられる。

「もうイイぜ、。お疲れさん」
「あー、もう終わり?」

 そっと瞳を解放し、恐る恐る右頬を撫ぜてみると柔らかなガーゼの感触があった。その奥で鈍くひり付くような痛みが走る。しかし、先ほどのような鋭さはなかった。

「…ちょっと大袈裟すぎない?」

 鏡がないので直接確認は出来ていないが、あからさまに怪我を主張するようなこの手当てには少し困惑した。

「お前の場合、怪我したのを忘れて顔でも拭いそうだからな」
「…うっ」
「それに、そっちの方が反省しやすいだろ。判り易いしな…お互い」

 あー、疲れたなどといいながらぐるぐると肩を回す。お互い何がどうわかりやすいのか、にはイマイチ理解できなかった。

「ま、一応ありがと。手当てのお礼にさんから愛を込めて、激痛ツボ刺激マッサージのフルコースなぞいかが?」
「いるか、ンなモン!」
「疲れた身体には多分効くよー」

 自分でも人の悪いと自覚できるような笑みを浮かべ、はこれ見よがしに両の手をワキワキと動かした。これでもマネージャーの端くれ、筋肉を解すためのマッサージは鋭意勉強中である。が、勉強中であるがゆえに腕の方は推して知るべしなのだが。
 何度となく実験台にされているので、の腕の程はそれこそ身体で知っている十文字。脂汗を一筋頬に流しつつじわりじわりと彼女との距離を測る。

「練習も始まってねェってのに疲れてなんかいねェよ。だから必要もない!」
「んっんっんっ、さっき疲れたなんぞぼやいていたのはドコのダレかなー?」
「シツコイってんだよ!」
「あーっ、逃げたー!」

 クルリと身を翻すや、一目散に部室外に飛び出す十文字。それを追って、もまた彼の背を追うべく部室を飛び出していった。
 その後、十文字が部活後にのマッサージ練習台になったか否かは定かではない。

END


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