099:ラッカー



 体育祭が運動部の独壇場ならば、文化祭は文化部が大張り切りをする祭典の場であるといえよう。
 ただ、文化祭は大抵の場合でクラス単位での出し物が必須とされる分、少しばかり運動部のものにとっては都合が悪い。
 放課後の練習時間を少なからず取られる場合も多く、まあ出来れば手軽に済ませたいと思うものがいても仕方ないだろう。
 時々無茶苦茶張り切ったクラスで劇などに手を出して、両立に激烈に忙しいという場合もあるようだが…まあ、それもまた青い春。
 たちのクラスでは、話し合いの結果展示ものに決定した。無難といえば無難である。
 企画の段階では、大きなパネルに絵を描き、それをスプレー等で着色する――いわゆるグラフティアートと呼ばれる類の物の製作となっていた。
 絵心のあるものがそれぞれ幾らかのラフ絵を描き、クラスの多数決で採用案を選び、本線を白く塗りつぶしたベニヤ板に引いて、今現在は着色作業には言っている。
 予定では三枚ほど仕上げるので、クラスの者は三分割になり各々のペースで作業中であった。因みに、分け方は下絵製作者の話し合い+くじ引きという大雑把なのか何なんだかという方法である。

 その日は生憎の空模様であった。
 天気予報が秋雨前線が活発化している――と大雨の予報を発していた通り、空は暗く厚い雲が立ち込めていて、実にジメっとした湿気と秋の雨特有の底冷えが空気に充満していた。
 降り止みそうにない雨に、屋外系スポーツの部活動は軒並み臨時休業状態である。運動部員達はコレ幸いとばかりに文化祭の手伝いをしてくれと懇願するクラスメートに彼方此方で捕まっていた。
 外の天気とはうらはらに活気付く作業場。文化祭までもう日もないゆえに、これは雨の恵みだ!とテンパった担当者が叫んでいたりもするが、概ね和気藹々とした雰囲気ではある。

 極一部を除いては。

「う〜〜〜〜〜」

 教室の隅っこ、掃除用具が入っているロッカーの扉に背を預けては座り込んでいた。
 誰が見ても判るほどに顔色を青白くし、鼻と口元をタオルで覆うようにしてくぐもった唸り声を上げている。
 その音に気付いて、十文字が作業の手を休めて彼女のいるほうへと近付く。

「…大丈夫か?」
「駄目… 凄い頭痛い」
「まあ、確かに凄い空気だしな」

 苦笑を浮かべて十文字が言う。言葉を発する気力もわかないのか、はたまた温存しているのか。はコクリと頷いてそれに肯定の意思を表した。

「せめて窓を開けられればな」

 この雨風じゃあ…と、チラリと窓に目を向ける。
 時折風の具合から雨粒がガラスに叩き付けられているこの状況では、迂闊に窓の開放するわけにもいかなかった。作品が濡れてしまうのは避けうるべき自体である。
 主にラッカーで着色している事が原因であろう。教室内はかなりのシンナー臭がこもっていた。
 先ほどまでもその作業を手伝っていたが、流石に眩暈にも似た暗転感を味わっては休むよりほかない。グッタリとした様子で、シンナー臭が比較的薄いこの場所で休憩していた。

「絶対、皆この匂いのせいでハイになってるのよ…」
「…ありえる」

 ゾッとした口調でがぼやく。先ほどまで窓に向けていた視線を、今度は先ほどまで自分もその輪の中にいた作業中の生徒達へ十文字は動かした。
 自分達のチームの絵師である戸叶が普段は滅多にお目にかかれないほどの上機嫌な表情で作業をしている。彼の指示に従っている黒木やセナなども、やたらとテンションが高い。なぜか他クラスの雷門もいた。
 他の面子も似たような感じで、奇妙な笑い声を時折上げたり、意味もない動きで作業していたりと、まるでちょっとした地獄絵図を描いている。
 少し離れて冷静な目で見てみると、その現状が酷く面白くも恐ろしいものだと実感した。

「十文字君はよく平気でいられるわね…」
「一応気をつけていたからな。俺もそんな好きじゃねェし」
「好きだってのは、ちょっと危険な嗜好だし?」
「そーゆー事」
「健全で何よりだわ、元不良少年」
「…今は?」
「なんちゃってスポーツ熱血小僧」
「何処からツッコミ入れたらいいのかわかんねェよ」

 ペシッと軽く彼女の頭を叩いたが、はそれに強く反することもなくただ小さく唸っただけだった。
 普段ならば今の百倍は軽々と超えるくらいのリアクションを返すはずなので、相当今の状況が彼女にとって酷なものなのだと判る。
 予想した反応が返ってこないのはどうにも落ち着かない、と心で呟いて十文字は告げた。

「…いーから別の空気吸うなりなんなりしてこい」
「えー」
「今の状態で、お前が作業の役に立てるのか?」
「……無理、だと思う」
「鏡で自分の顔見てみろよ。化粧のし過ぎみたいに真っ白だぜ」

 ワザとらしく呆れたように大きく溜息をつくと、の顔に僅かに朱が混じった。
 揶揄した十文字の言葉の通り、血の気が失せて白を通り越し青くなっていた頬にようやく健康な色が灯る。
 は自らの頬に手を添え、そのあとその手を数度開閉を繰り返した。熱が通っていなかった指先がぎこちなく色と動きを取り戻していく。

「うわ、手もだし」
「判ったか?」
「…流石に」
「校内一周でもしてこいよ。その間の分は貸しにしといてやる」
「――りょーかい。ま、すぐに返すけどね」

 いってきまーす、とおぼつかない足取りのまま教室を出て行こうとするの後姿を、小さく鼻を鳴らして十文字は見送る。
 廊下に出る寸前、は肩越しに振り返って力無く笑い、手を振る。へらりとした表情の彼女に、肩をわざとらしく竦めてその返事代わりとした。

 ラッカーの匂いが強く漂うその中――やけに儚げに見えたの姿は、正しく有機溶剤の見せた幻なのかもしれないと思った。

END


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