001:クレヨン


 その時にはすっかりと失念していたことなのだったが、そういえばこの家には虎が一匹住みついているのだった。

「士郎ったら女の子ナンパしてお家に連れ込んじゃうだなんて!
 おねーちゃん、そんな子に育てた覚えありませんよー!!」
「そう言い方するなよ藤ねえ。ちゃんが聞いたら誤解するだろ?!」
「まっ、早速名前呼び?! いつの間にそんな手が早くなっちゃのかしら。ヨヨヨ」
「しつこいッ!」

 藤村としては完全におちょくり目的であるというのは士郎自身も十分わかっているのだが、何せ今回は自分だけがその対象になっているわけではない。
 こういう悪ノリに耐性がなかろうは守らねば! その思いだけで、いつもならば適当の聞き流す台詞を真っ向から払いのける。何となくだが、この少女は誰の言葉でも額面通りに受け止めてしまいそうな印象があった。

「はい、これで大丈夫。痛くなかった?」
「うん。ありがとう、桜おねえちゃん!」

 おまけに連れてきたの手当ては桜がいつのまにかこなしてしまったらしい。いや、そもそもの目的が達成された分には一向に構わないのだけれど。

「あ、ちゃんの手当て終わったんだ。よく我慢したねー」
「えへへ…」

 藤村は身代わり早くさっとの方に身体を向けると、彼女の頭を撫でた。それを照れくさそうには目を細めて受け入れる。うっかり放置プレイされる士郎。

 …いいトコなしじゃん、俺!

 そう心だけで叫び、現実にはそっと小さく溜息をつく。まああれだ。勝てるはずないし、藤ねえに。そう諦めにも似た悟りを得る。
 子供のあしらいが巧いのか、はたまた精神年齢が近いのか。藤村とのやり取りは端から見ていても弾んでいて、なにやら入り込む隙も難しいように窺えた。
 あの中に入り込むのも大変そうだ、と士郎は肩を一つ竦めてキッチンへ向かう。引っ掛けてあったエプロンをつけて、冷蔵庫の中身を調査し始めた。丁度お昼時だし、手当てだけってのもなんだし、なんだか楽しそうだし。昼食も一緒にとってもいいかな、なんて思案しながら物色する。

 さっと作れて、子供の舌にも合いそうなもの…となると、和食は難しいか。サンドイッチとかチャーハンとか。食後に甘いモノがあれば完璧…って、ドラ焼き発見。どちらかって言うとこれは三時のおやつだよなあ…じゃあ果物だ。しまったミカンしかない。

「サンドイッチでいいんじゃないですか、先輩」
「うわ、ビックリした!」
「えへへ、驚かせてしまいましたか? お手伝いしますよ」
「それはありがたいけど…」
「向こうは藤村先生がお相手してくださってますし」

 そう言って桜は微苦笑する。気持ちはよく判るので士郎もそうだな、と頷くに留めた。



 とりどりの具をそろえたサンドイッチが出来たのがそれから暫らくの後。
 卵やハム、チーズやレタスなどの定番は勿論、ボリュームのある照り焼きチキンや作り置きを利用したハンバーグなども取り揃えた豪華なものになった。それらにコーンスープとトマト&リーフサラダ、デザートにはミカン入りヨーグルトまで完備して栄養面的にも隙のない献立だ。

「出来たぞー、二人共」
「はーい。じゃあちゃん、お昼ご飯食べようか」
「え、いいの?」
「もちろん!」

 主でも作り主でもないが、藤村の返答は堂々たるものだった。は一瞬迷うような色をその顔に浮かべたが、三人から否が唱えられる事はないと判ったのかすぐに嬉しそうに笑った。

「一応マスタード抜きも作ったけど… ちゃんは辛いの大丈夫?」
「うん。おうちでよく出てくるし」

 麻婆とか、とこっそり呟く。それが聞き取れたのは近くにいた桜だけだった。その響きにどことなく怖れのようなものが混じっていたことに気付き、聞き返そうかと思ったが、はその視線に少しだけ眉をハの字に下げて桜の視線に応えた。

「じゃあ手を洗おっか。クレヨンでちょっと汚れちゃったし」
「ああ、大人しいと思ったら… 土蔵ひっくり返してないだろうな、藤ねえ」
「え、ええー、なんのことかなーぁ」
「誤魔化し方がウソ臭すぎる!」
「ふふっ、ちゃんはどんな絵を描いたの?」
「これー!」

 姉弟喧嘩を尻目に、桜がそう尋ねる。それには誇らしげに一枚の画用紙を掲げた。
 四つ切のキャンバスに描かれていたのは――控えめに見て、黒と青と黄色のグルグル模様だった。緻密に言葉にするのは難しい…なにかこう、印象派チックな不可思議絵。ピカソを始めて目の当たりにした時代の人ってこんな気持ちじゃなかったのだろうか、なんてすら思えてきた。
 クレヨン自体、あまり精密な描写には向かない画材である事は判っているが、なんとコメントしたものか――いやそれ以前にこれは一体何をモチーフにしているのか――判らず、桜はただ息と共に台詞を飲み込んだ。
 それは士郎も同じなのか、頬に一つ冷汗たらしながらその絵らしきものを見つめている。絞り出すようにして声を紡いだ。

「えっと…これは、何、かな?」
「わたしの…家族!」

 どんなビックリ家族だこれ! いやそもそも人間なんだこの謎模様!

 よくよく見れば、その渦巻き模様の中にも目や鼻、口っぽいものが見て――取れなかった。やはりどう見ても異次元だ。
 絶望的なまでに絵心がないのか、もしくは形容しがたい感覚の持ち主か、はたまた本気でこんな人物がいるのか。
 士郎と桜は同じようにそう思い、顔を見合わせる。互いに何を考えているかは目をみれば明らかだった。

「――へえ、そうなんだ」
「きっと面白い人…なんでしょうね」

 小さな子供の心を傷付けてはいけない。なんとかそう感想を捻出した。目線が二人とも泳いでいた事は見逃して欲しいところだったが。

「凄い絵を描くよね、ちゃんって。ひょっとしたら将来凄い画家さんになったりして」

 芸術家とは生前理解される事は少なく、多くの場合没後にその評価が決まる――なんてどっかの誰かが言っていたような気はするが。このセンスが世界に認められたらちょっとやりきれないぞ俺。
 しかし藤村は本気でそう思っているだろう。多分、間違いなく。妙なところで器広いし。

「…とりあえず、ご飯にしましょうか」
「だな」
「じゃあお姉ちゃんと一緒におてて洗いにいこっか」
「うん!」

 きゃあきゃあと、僅かな間で大層仲良くなった姉貴分と少女の後姿を何となく生温い目で見送って。
 再度士郎と桜は視線を合わせて、お互いに疲れたようななんともいえない笑みを交わした。

END


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