018:ハーモニカ
はあるものを手に教会の広場の一角に腰を下ろしていた。
梅も綻び始める初春に相応しく、頭上に広がる蒼穹からは柔らかな陽光が降り注いでいる。風は西からさやさやと優しく吹き、この陽気が続けば櫻の便りも間近であろう。
少女は手にしていたそれをそっと口元に運ぶと、フゥと息を吹き付けた。途端、様々な音が溢れる。どこか懐かしく、そして少しだけ耳障りなハーモニカの音に、はムッと眉を潜めた。
先刻教会の一室より発掘してきたハーモニカだが、何が悪いのか上手く吹けずにいる。何度挑戦しても、音が混じって綺麗な音階が出せない。吸って吐いてを繰り返し、なんとなくそれぞれの音階配置をつかみつつはあるが、目指すものにはまだまだ届きそうになかった。
少女が目指しているのは、時折言峰がミサの際に鳴らすオルガンから零れるメロディだ。も何度か参加し唄う事もあったので、ある程度のメロディラインは既に覚えている。むしろ、自分の覚えている音楽というモノが殆どそれだけなので、必然的にそれをなぞるしかないのだが。
上手に奏でられるようになったら、ミサの時に披露してみなを驚かせたい。そんな動機で挑戦し始めて早小一時間。一向に上達しない自分の腕に僅かにヘコみつつも、それでも挑戦し続けていると、
「嬢ちゃん、何やってんだ?」
すっと、気配がの脇に出現する。霊体化していたのだろう、先ほどまで全くなにもなかった場所にどこかしなやかな獣のような雰囲気を持つ蒼い青年――槍の英霊・ランサーがそこには居た。
腰に手を当て、覗き込むようにを見下ろしているランサーに、少女は手にしていたハーモニカを彼がよく見えるように掲げる。
「ハーモニカだよ。今練習中」
「その割りにゃあ、あまり上達してねェみたいだが?」
「う… いつから見てたの?」
「そーだなー… 嬢ちゃんがここに来て、ピープー鳴らしていた辺りからか?」
にや、と人の悪い笑みで事実を突きつけてくる男に、は僅かに頬を染めて唸った。ランサーに殆ど最初っから見られていた――最初の頃はそれこそどうやったらいいのか判らず、まごまごとしているだけだった――のは流石に恥ずかしい。
「ランサーはこれの上手な吹き方知ってる?」
「ん、一応な」
「じゃあ、お手本見せて!!」
きらり、と瞳を輝かせ、は強い語調でそういった。すっくと立ち上がり、それでも上にある彼の顔面にハーモニカを突きつけた。ランサーは一瞬驚いたように目を丸くしたが、それは瞬きを一度する間に消え、いつもの人好きのする表情に戻る。
『りょーかい』と、軽く応えると、男は差し出された楽器を手に取り彼女の隣に腰を落とした。腰かけた石段を無言で数度叩き、ももう一度座るように促す。少女は意図を察したのかコクリと小さく頷くと、ちょこんと大人しく座り込んだ。
見上げてくる期待に輝いた瞳に、少しだけ眉を上げる。さて、何を吹こうかと一瞬迷い――やはり故郷の歌が思い出された。ケルトの音楽は概ねリズミカルであり、躍動感溢れるものから親しみのあるものまで様々である。心地良い旋律の舞踏、ユニゾンするメロディ。脳裏に浮かんだそれらにふとした懐かしみを覚えたが、生憎とそれらはハーモニカ向きではない。
では、とランサーは近頃よく耳にする楽曲――教会のミサで流れてくる賛美歌の内一つを選択した。あの音楽はどこか耳障りの良いものでランサーも気にいっているし、ハーモニカでも十分に演奏可能だろう。
幾度か音階を把握するために空吹きをする。浅く咥え、ハーモニカを真っ直ぐ構えながら手だけを左右に動かす。ただそれだけの確認作業なのに、既に傍らの少女からの視線は憧憬にも似た色が滲んでいた。
ま、さっきのの様子じゃ仕方ねえかな。
微苦笑する口元はハーモニカとそれを支える手によって見える事はない。何を弾いてくれるのかとても楽しみだ、と口よりも雄弁に語っている少女の視線に応えるべく、ランサーは大きく息を吸い込んだ。
ゆっくりとした美しいメロディが流れ出す。二人はこの曲の題名など知る由もないが、夏の終わりの薔薇を表現したという音の羅列は叙情的でしみじみとした情感があった。
心地良い音が鳴り止み、ランサーの演奏が終わる。入れ替わるようにして万雷とまではいかないが、心からの拍手が観客から演奏者へ贈られた。
少女からの素直な賞賛に僅かばかり照れくさくなりながら、槍兵は手にしていたハーモニカを彼女の手へと返した。それを受け取りながら、嬉しそうにが微笑む。
「この曲ランサーも好き?」
「ああ、そうだな。オレの故郷の音楽に似ている」
「そっかぁ…
――じゃあ練習して、上手く吹けるようになったら……一番に聴いてくれる?」
おずおずと、少しの期待と不安の天秤に揺られながら、少女はそう問いかけてくる。断られたらどうしよう、という想いからか眉はハの字に下がっている。
そんなの髪の毛を、これまたいつものようにわやくちゃに混ぜながらランサーは答えた。
「当然だろ。オレが一番じゃなきゃ許さねェからな」
「…うんっ!」
は元気よく声を上げ、善は急げか思い立ったが吉日なのか、早速ハーモニカに戦いを挑む。ハーモニカから零れる割れた音が澄んだものになるのが今から楽しみだ。
懸命な少女の様子に微笑ましく思いながらも、ふとしたイタズラ心がランサーに去来する。すぐ側にあるの耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。
「――そういや、お互いに間接キスだな」
その言葉と同時にぴたり、と不出来な音が止まる。は一瞬だけきょとん、とした様子だったが、言葉の意味と先刻の行為が合致したのか、両頬が見る見るうちに先ほどの曲題に冠された薔薇のごとく朱に染まった。
「おお、赤くなった赤くなった。いやあ色々成長したな、嬢ちゃん」
「…ッ、らんさーのばかぁ!」
ニヤニヤとした笑みを貼り付けた蒼い男に、はぽかすかと殴りかかるがちっとも答えた様子はない。むしろなんだか嬉しそうでもあった。
とはいえ、殴られ続けるのも趣味じゃないので、ランサーはその身を空気に溶かし、実体化を解く。ああっ、と抗議の声が上がるが気にしない。
「ま、練習頑張れよ。楽しみにしてっからさ」
「――知らないッ! 一番は別の人にするんだからー!!」
姿なく、声だけでからかうように言い募るランサーに、は大声でそう宣言する。
それでもきっと、一番最初に少女が自分の為にハーモニカを奏でてくれるだろうという確信が槍兵の中にはあった。
それは明日か一週間かはたまた一月、それ以上――いつかは知れぬが、こんな待ち時間であればかまわないかと、いまだぷんすか怒っているを見ながらそう思った。
END
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