060:轍


 夢を見る。
 そこがどこだかは判らない。
 視界のない真っ暗の空間に、ただただ疑問の声だけが上がる。

 どうして? 何故寒いの? 何故冷たいの? 何故なにもないの?

 その問いかけを全て感じる事は出来ない。天地も判らぬ闇の中、四方八方から押し寄せるそれは、自身の許容量を遥かに越えていた。

 ――おいで。

 尋ねてくる合間合間に声達はそう誘いをかけてくる。一際優しく、甘く、暖かく。
 それなのに足はただの一ミリたりとて動いてくれず、ただただ声だけを受信するしかなかった。

 ごめんね。わたしはそこにはいけないみたい。

 酷く悲しかった。
 仲間に入れないことよりも、今の自分ではこの声を救えないことが辛かった。
 だから、ひたすらに謝った。そうすることしか出来なかった。



 唐突に意識が覚醒する。部屋はいまだ薄闇に囚われ、朝日が昇る前なのだと告げている。
 何か夢を見た気がするが、よく覚えていない。それでも頬が濡れているところを見ると、いつもの『恐い夢』なのだろう。
 がこの教会に引き取られてから数日後、はじめてその夢を見た。その時はただただ恐ろしさだけが身体に残留し、怯えるようにして一日中ベッドの中で震えていた。何が恐ろしいのか、どうして怯えているのか自分でも理解できなかったが、どうしても震えは止まらずただただ一日が過ぎるのを待った。
 言峰は彼女を無理矢理寝台からたたき出す事はしなかった。ただ一言『好きにするがいい』とだけ言った。結局出てきたのは篭ってから二日目の昼。空腹に屈してこっそりと出てきた。そんな彼女に神父は温かなスープを出してくれた。

 それから幾たびか同じような夢を見た。まるで道に走る轍の上をなぞるかのように、いつもいつも顛末は一緒だった。幼い彼女にはそれら全てを受け入れることが出来なかった。
 最初の頃は布に包まっていただけだったのだが、いつの頃からか恐ろしさからではなく、ふっと自然に目覚めることが多くなった。
 そんな一日の始まりを迎えた朝は、まず涙でべとべとに濡れた頬を拭う。そして速やかに洋服に着替え、カーテンを開けて、外部へ通じる窓からこっそりと抜け出す。一日を街中で過ごし、翌朝の明け方に同じようにして帰宅する。

 だから今日の予定はそれで決定だ。そうせねばならないのだという、確信めいたものがある。
 幾度か繰り返された行動なので、出発する準備――とはいっても、小さなバックの中に幾らかの菓子を入れているだけだが――はできている。それを背負って、窓を開く。よいしょ、と身を乗り出して、半ば落下するようにして外に出た。幸い下は芝生なので怪我はしない。教会内は土足OKなので、靴の心配もない。
 空を見上げれば、東の方角から白々とした光がのぼりかけていた。僅かにある雲を朱に染め、グラデーションの空は気持ちよさそうに広がっている。周囲には少しだけ朝もやがかかっているが、時間が経てば晴れるだろうし、こんな秘密の出発にはむしろ都合がいい。
 さて今日はどこへ行こうか――そんな事を頭の片隅で想いながら、小走りに駆け出す。教会に背を向け、礼拝堂へと続く広場を外部へ向かって逆走するその途中、

「――どこへお出かけだい、嬢ちゃん」

 聞き覚えのある聞き覚えのない声にその足を止められた。声は背後――礼拝堂の方向から聴こえてきた。
 そっと、振り返る。寒い冬の早朝だというのに、手には嫌にねっとりした冷たい汗が滲んでいた。
 薄らとした乳白色の幕の向こうから何かが近付いてくる。逆立った髪、しなやかな獣を思わせる長身、青一色の装束。そしてその手には見慣れぬ長い獲物を持っていた。その赫々しい色を視界に入れた途端、の首筋がぞくり、と逆立つ。

「らん、さー…」
「寝ぼすけがこんな朝早くに起きるなんて、健康的じゃねェか」

 の声が震える。気を抜けばカタカタと歯を噛み鳴らしそうなほどだった。
 今目の前に入る男は――が知っている人物であり、そして全くの別人だ。ギラギラとした闘志が眼に宿り、その眼差しだけで心臓を穿たれそうなほど。少女の知る彼はよく笑い、よく食べ、そしてわしゃわしゃと気持ちよく頭を撫でてくれる人だというのに。
 それでも、はぎゅっと拳を握ってその視線を真っ向から受け止める。逸らしはしない。逸らせばそれは悪いことへと繋がると予感していた。精一杯の勇気を込めて口を開く。

「今日は、ここにいちゃいけないの。だからお外へ行くの」
「ふぅん… それは、誰の判断だ?」
「――わたしよ」

 キレイには秘密だもん、と続ける。偽りなどは言葉にしない。
 半ば膨れっ面のと醒めた表情の槍使いはそのまま暫し無言で対峙する。
 どれほどの時が経ったのだろうか。一瞬か、はたまた数瞬か。あまりの緊張感にうまくカウントできなかった。幾筋かの冷汗がの頬を伝い、朝の冷気に順調に悴んできたなあと感じ始めた頃――

「――ハハハハッ!」

 唐突に男は笑い声を上げた。
 何事かと、目をどんぐりのように丸くしているを他所に、男はなおも声を上げる。腹の底から笑って入るように見えるその姿は、のよく知るものだった。恐る恐る声をかける。

「…ランサー、どうしたの?」
「あ、ああいや。別にたいした事はない」

 ふっとランサーが手を振ると、その中に携えていた長槍はどこかへと姿を消した。
 ゆっくりと彼は少女に近付き、いつもと同じ風に膝を曲げてと目線を同じ高さにあわせる。動けずにいる彼女の肩にそっと置かれた手は優しく、合わさった瞳の中の赤は武器のそれとは違い暖かな色あいだった。親しみ慣れたそれに、ともせずの口から小さく息が漏れる。

「ただ、嬢ちゃんの勘ってヤツもなかなかのモンだって思っただけだ」
「…そうなの?」
「ああ… 今日はここにいないほうが、嬢ちゃんのためになる」

 今日、この教会にはただならぬ雰囲気が充満していた。恐らくは『棺』の気配だろう。新たな贄を待ち受けるべく、その顎をゆっくりと開こうとしている。
 目の前にいる少女はその主賓。王の糧となるべくここへ招かれた子供。
 正直に言ってランサーはそれを快く思っていない。有体に言えば趣味に合わない。
 言峰の術なりで正気を失い、あの場所に入ろうとでもするのなら邪魔をしてやろうと待ち構えていたのだが――何の、存外少女は鋭かった。
 は朧げながらに自身の危機を察して離脱を試みている。『生きる』事についてはランサー自身一端の自負を持っていたが、この少女もなかなかのものだ。ますますもって気に入った。

「さっさといきな。今日一杯は帰らない方がいいぞ」
「――うん」

 真剣な表情では頷く。クルリと身を翻して、だっと去って行くその後姿にランサーは声をはりあげた。

「――!」

 ぴた、と彼女の足が止まる。何故か少しだけ驚いた顔をしていたが、とりあえずそれを問う事はせずに一言だけ言った。

「あんまり遅くなるんじゃないぞ」
「…大丈夫。わたしのおうちはここだもん」

 はにかむような笑みとともに、少女はそう応えた。
 その後は一度も振り返ることなく、小さなコンパスを精一杯に伸ばしながら坂を駆け下りていく。
 腕を組み、視線をそちらに固定したままで、ランサーは呟いた。

「ありゃ将来イイ女になるぞ。俺が保証する」
「――フン、それがどうしたというのだ」
「今からツバ付けておくのも悪くないなーってな。
 『ワカムラサキケーカク』とか言うんだっけか、この国じゃ」
「…貴様、生前散々女に苦しめられているのに何一つとして教訓としていないのだな」

 これだから雑種ハーフは、と心底蔑みを込めた視線で男――ギルガメッシュはランサーを罵倒する。いつの間に現れたものやら、黒のライダージャケットを羽織って彼はその場に佇んでいた。
 しかしそれとてランサーは気にすることなく、絶対零度のそれを涼風の如く受け流した。

「そりゃお前だって似たようなもんだろ、特に女神運の無さはな。
 ――で、どのあたりからいたんだ?」
「貴様が馬鹿笑いをしていたあたりからだな」
「ほー。覗き趣味でもあるのか、英雄王様は」
「……我を愚弄するか、槍兵。単に場に居合わせたのみよ。あれほどの声が上がればどんな愚昧なやつでも気付くわ」
「その騒動をわざわざ見に来られたというわけで。へーぇ、ほーぅ」

 にたにたと人を食った性質の悪い笑みを浮かべるランサーに、ギルガメッシュは不愉快だとばかりに背を向ける。肩越しに、どこが硬いものを含ませて台詞を紡いだ。

「…あのような小さき雑種、いつなりと我が内に取り込める。今はただ余興の時よ」
「そうかいそうかい。
 んじゃ、クランの猛犬から黄金の王に御言葉を捧げさせていただこう」
「――ほぅ。特別に許す、申すがいい」
「光栄極まります、英雄王。それでは僭越ながら一言――」

 いつもの如く、不遜な態度でそうギルガメッシュは鷹揚に言う。
 それに合わせるかのように、ランサーはいかにも大袈裟に深々と頭を垂れた。

「油断大敵、事故一瞬。窮鼠猫を噛んで、慢心是全て破滅の始まりってな」

 ニヤ、と犬歯を剥き出しで槍騎士はのたまう。
 あまりの言葉に返す言葉もなく、激昂の内にある王は猛スピードでその身を反転するも、吐き出した張本人は霊体化でもしたのか、もはやその姿がなかった。
 次第に晴れてゆく朝靄とは対照的に、ただただ現場に木霊するのは槍騎士のゲラゲラとした笑い。ギルガメッシュは、それに対して忌々しげに舌打ちをするほかになかった。

END


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