061:飛行機雲



 微かに蝉の声が聞こえ始めた初夏。盛夏も間近かと感じる暑さを覚える午後のことだった。
 丘の上にある教会への坂道に差し掛かる直前、何とか持ちこたえていた空模様がにわかに崩れ始めた。うっすらと蒼穹に残っていた飛行機雲の残滓を飲み込み、昏く鬱蒼とした雨雲はあっという間に空全体へと広がり、天気の天秤を一気に傾けさせる。
 雲行きが悪くなり始めたと思い始めて数分後、あっという間に空は黒い雨雲に飲み込まれていき、ややもせぬうちにポツポツとアスファルトに水滴が空から滴る。それはあちらこちらで染みとなり、それが乾ききらぬうちにどんどんと上空からの雨粒が侵食していった。
 夕飯の買い物のために出てきたはいいが、突然の通り雨に足止めを食らった二人は思案顔で暗い空を見上げる。

「……止まないねえ」
「そうだなァ。帰るまでは持つかと思ったんだが」

 雨が本降りになり始める前、慌てて何とか屋根付きのバス停へと避難したランサーとの二人は、浮かない顔で揃って空を見上げた。
 その手に持った買い物袋には、夕飯材料の買い出しの際についでとばかりに買ったばかりのアイスも入っている。保冷剤がわりに氷袋を入れてはいるが、溶けて品質が変わらぬ内に帰宅したいと思うのは共通の思いだ。
 ランサーは視線を上空へと定め、雲と風の往来を見やる。雨脚は強くはないが、その分風も穏やかで雲が動く様子もなく、あいにくすぐに止みそうな気配はない。黒い雲は持ったりとしていて、陽光はまだまだ顔を出してくれそうになかった。
 ガシガシと荷物を持っていない片手で後ろ頭を掻くと、傍らの幼女に声をかける。

「ちっと濡れるが、さっさと帰っちまうか」
「そうだね……そっちがいいかも」
「よし、じゃあ悪いがこれ持ってくれ」
「え、うん。いいけど――うわっ?!」

 身体の小さな幼女にとっては一抱えほどもある買い物袋をランサーが差し出すと、戸惑いがちに少女はそれを受け取る。今日の夕飯か彼女のリクエストでとろとろ卵のオムライスなので、その中には卵も1パック入っていた。落としてはなるまいとはぎゅっと大事そうに抱える。
 戦利品を懐に抱え込むようにして防護し、ちょっとやそっとじゃ落とさないようにしていることを確認すると、ランサーはさっと少女を横抱きに軽々と抱き上げた。戸惑うように荷物と男とを交互に見比べる己の主人に、人好きのする笑みをひとつ乗せて男は言う。

「嬢ちゃんはしっかりそいつを抱えていてくれ。舌噛むなよ」
「え、ええっ?!」

 気がつけば彼の纏う衣装は出かける際の派手な色あいのアロハシャツではなく、馴染みの青い戦闘装束となっていた。微かに発動している魔力の流れは姿消しのルーンか何かであろうか。
 その意図を問うよりも早く、言うが早いか、蒼い獣は大地を蹴りつけ素晴らしいスピードで雨の降る街中を疾駆し始める。トントンとまるで階段でも昇るかのような気楽な足取りで街路樹を駆け上がると、重力などなきが如しとばかりにひらりひらりと宙を疾走する。この男のスピードであれば、確かに目的地である教会までは瞬きをする間の出来事と言ってしまっても過言ではあるまい。
 ならば己の役割は、この身をランサーに委ね、腕の中の食料を守り切ること。
 そう理解したは、取りこぼさぬようによりしっかりと抱いて卵を守る。その行動に微かに目を細めたランサーは、触れるか触れないかの際どさで少女の額に口付けた。

「――いい子だぜ、

 ささやくように耳元で告げて、ランサーはニッと笑う。それと同じくして流れるような動作で空中に姿消しとは異なるルーンを発動させる。魔力の残滓が先刻消えてしまった飛行機雲のようにたなびいた次の瞬間には、その移動速度はより一層加速した。
 どんどんと流れる景色に目を回せばいいのか、あるいは男からもたらされた行為に対して苦情を訴えるべきか。それを判断するよりも早く、一陣の風の如きスピードで彼らはあっという間に教会への帰還を果たすこととなった。
 

END


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