それを目にしたのは、太陽が一日の役目を終えようとする夕方だった。

 商店街近くにある、何処にでもあるような公園。中途半端な時刻だからか、それとも冷たい風が吹き始めているからか、公園には人の気配がほとんどなかった。そこにいるのは真剣な表情で自転車に跨る一人の少女ただ一人。
 少女は恐る恐る足を離し、ペダルを数回踏み込んではバランスを崩して地面に体を投げ出すという所業を飽きることなく繰り返していた。
 当然ながら、大地と親密になればなるほど衣装には土汚れや摺り切れが増えているし、白い肌には擦過傷と微かな血の滲む色があちこちに付着する。
 傷ついても尚、少女は挑戦を止めることはなかった。倒れた身体と覆い被さる自転車を起こしては、バランス感覚との戦いに繰り出す。始めのうちは2秒と持たなかったそれが、10秒、30秒と少しずつペダルに足をつけたまま、公園内を進軍する時間が増えていった。
 そして。冬の僅かな陽の光がとっぷりと暮れてしまい、星の輝きが強く感じられるようになる頃――ふらふらと危なっかしかった様子は見る影もなく、颯爽と風を切って公園内を駆け回る自転車があった。その搭乗者たる少女も、喜色を隠すことなく楽しげにハンドルを操作し、ペダルを踏み込む。
 キッ、と鋭い音を一つ立ててブレーキをかける。両の足で大地を踏みしめ、ほぅと息をついたその時。
 大きく手が打ち鳴らされる音が連続して響く。ぱちぱち、というよりはパンパンと。剛毅とさえ感じられるその音とともに、遊具の物陰からしなやかな動作で豹のような男が現れた。

「いやあ、お見事」
「ランサー!」

 いつからか、と問いかければ「まだ太陽が昇っていたころかねぇ」と屈託なく笑う。その言葉に、初めて少女――はとっくに黄昏時を過ぎている状況に気付いた。
 近づいてくるランサーに、少女は自転車から身を話す。立て金具を使って地面に固定する頃、丁度ランサーがの眼前に到着していた。

「しかし…その自転車どうしたんだ?」
「タイガおねえちゃんが拾ってきたんだって。それで、士郎おにいちゃんが修理してくれて、子供用だからわたしにあげるよって…」
「あー、成る程な」
「最初はいいよって言ったんだけど、せっかく修理したし、乗らなきゃこの子が悲しむよ…って。ライダーさんが乗り方教えてくれたから、一人でも乗れるようにここで…」
「おう、頑張ってたな。偉いぞ、嬢ちゃん」

 そういって、ランサーは膝を追っての頭を軽く撫ぜた。まっすぐに見つめ返してくる彼の目が気恥ずかしいのか、は僅かにはにかみながらもその手を受け入れている。
 自転車に乗る練習をするを見かけたのは単なる偶然だった。一人寡黙に、時間を忘れるほどに没頭する少女。
 は手助けが欲しいときは、素直にそう乞うて来る。しかし今回はそれもなく、一人で解決する気だったのだろう。たとえ泥にまみれ、傷を負ってもだ。だからこそその努力を、ランサーはただ見守るだけだった。
 少しずつ、少女は一人で立つことを覚えていく。それを寂しいと思うか、誇らしく思うのか――恐らくは両方なのだろう。一人だけで努力する姿に目を細める一方で、頼られないことへの身勝手な胸の痛みに窮する。の頬についた砂を優しく払いのけながら、そんなどうしようもないことをランサーは考えていた。

「――っ」

 微かに。少女の口から掠れた声が漏れた。はっと我を取り戻し、まじまじと先ほど指が触れたの肌を観察する。砂に隠れていたが、白い頬にはうっすらと赤い模様が張り付いている。この手の擦り傷は、僅かな傷の癖に妙に痛むのが厄介だった。
 あちゃー、と眉を下げる。己の考えに埋没し、気付けなかったランサーの完全な落ち度だ。

「…悪ぃ。痛かったか?」
「ううん、平気だよ」

 しかし健気に告げるの瞳には、星の光を反射するほどに水が溜まっていた。
 どうしたものか、とランサーは空を見上げるが、瞬く星々がそんな彼にそっと悪戯心を囁く。さて、このささやかな企み事を実行すれば、どんな表情に変わるやら――
 視線をに戻し、飴玉のように大きな瞳を覗き込む。ゆっくりと近づくランサーの顔に疑念でも感じたのか、不思議そうに小首をかしげた。その仕草は偶然だろうか、まるでランサーの前に傷の入った頬を差し出すようだった。
 ならば望み通りに、とばかりに。にぃ、と口の端を僅かに吊り上げ、ランサーは薄い唇を少女の瞼に落とす。驚きによる反射行動で、強く目を瞑れば当然の如く湛えていた真珠の滴が零れ落ちた。
 その流れを追うように、ランサーはの頬に口を寄せる。微かな塩水の流れの先には僅かな赤みを帯びた傷痕があった。荒れた大地を恵みの雨が癒すように、あるいは傷ついた動物がそうするように、ランサーはの傷口をゆっくりと舐る。逃げ出そうと身を捻る獲物の首を指でそっと撫ぜ、及び腰になっている少女の身体をぐっと引き寄せた。
 舌先に僅かな鉄の味すらも感じなくなるまで丹念にの頬にそれを這わせる。どれほどそうしていただろうか、最後に一つ、小さく音を立てて唇がようやく頬を離れた。

「よし、消毒完了。擦り傷は唾つけとくのが一番ってな」

 悪びれることなく、それどころか酷く上機嫌にランサーがのたまう。呆然としたままの少女は、しばしあっけに取られたようにランサーを見つめ、そろそろと自分の頬に手を添えた。唾液まみれにされていると思ったが、湿り気はさほどではない。しかしそれでもひやりとした夜風がの頬をかすめる。
 ぼんやりとしたままのに、流石のランサーも内心焦った。やり過ぎたか、と僅かに反省したその耳元に――

「――ランサーのバカッッッ!!!!」

 特大の、からの音声が叩き込まれた。
 キィン、と耳鳴りがランサーの頭蓋に木霊する。不意打ちからか思わず拘束を緩めてしまった。その隙を逃がさず、は即座に彼の手を離れてそばに止めてあった自転車に跨る。そしてそのまま、引き止める暇すらなく颯爽とその場から疾風のように消えた。

「……っかぁ、効いたー」

 耳を押さえながら、くつくつとランサーが笑う。旋風が走りぬけた先に細めた視線を投げた。数秒前、顔を真っ赤にした愛らしい少女が駆けていった先は当然ながら教会である。この公園から自転車をこいでたどり着くのは恐らく15分ほどか。いや、途中の坂で恐らく息切れするだろうからもう少し多く見積もるべきだろう。
 子供には刺激が強かったかねぇ、と誰に言うでもなく呟いて、ランサーは立ち上がる。彼が全力を出せば、教会までは5分とかかるまい。先回りをして脅かしてやろうかとも考えたが――

「あー、調子に乗るのはいけねェな。に嫌われる」

 何より、この愉快な気分のままでもう少し過ごしていたい。
 子供をからかうのは大人の楽しみなのだ。身勝手だが、もう少しだけ楽しませて欲しい。無論、成長する彼女もその一つなのだが。
 とりあえず身近な楽しみは、翌朝のの反応だ。恐らく今夜は部屋に閉じこもっているだろうから、明日の朝食は飛び切りうまいオムレツでも作って、ヨーグルトには缶詰の甘いみかんを入れよう。それできっとお姫様はしぶしぶご機嫌を治してくれるはずだ。

 そう折り合いをつけ、もう一度ランサーは星を見上げた。悪魔めいた囁きを吹き込んだ光が、冬の澄んだ空気に明滅する。
 穏やかな一日が、今日も終わる。明日もまた、同じようでいてまた新しい一日になるのだろうと考えると、訳もなく笑えてきた。

END


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