どうしようもない大人と爪先立ちの子ども



 日も昇り、街中が少しずつ目覚め始めるような頃。冬木市の丘の上にある言峰教会の台所では、少しばかり香ばし過ぎる匂いが広がっていた。
 台所で腕をふるうのは齢10歳ほどの幼女と少女の間で揺蕩う小さな存在。その背中を少々目を細めて見守るのは青い髪の青年。ひょんなことから出会った教会の養い子とその居候である。
 その二人の間に置かれた白い皿に鎮座するのはふっくらと焼かれたオムレツであるが、その肌には少々目立つ焦げ目が張り付いている。赤いケチャップをかけても隠し切れないほどのそれに、調理担当の少女――はがっくりと肩を落とす。

「そう気にするなって、。また次で頑張ればいいさ」
「うん……」

 の対面では青髪の男――ランサーが大きな口でオムレツを頬張っていた。男は焦げた苦味を気にする様子もなく、いつもの様に呵呵と笑っている。
 少女の未熟さを、一歩引いた所から見守る青年の視線はひどく優しい。その眼差しを感じる度に、はくすぐったさと焦りにも似た何かを感じていた。
 例えば今日のように、火加減の調整に失敗して少々焦げてしまったオムレツを笑顔で食べてくれること。
 あるいは少女には苦味しか感じられないエールを、それはそれは旨そうに呑むこと。
 爪先立ちをしてようやく手が届く高さにある書棚の本を、ほらよと何の苦もなく手渡してくれること。
 そっと遠慮がちに差し出した手を、無骨ではあるが優しく包み込んでくれる大きな手のこと。
 日常の中で感じる、一つ一つは他愛のない出来事。それらが告げてくるのは、残酷なまでにはっきりとしたこれまで過ごして来た月日の差である。
 積み重ねてきた時間や経験が違うことを見せつけられ、ランサーがひどく遠い存在であるかのように思ってしまうのだ。
 もやもやとした感情を抱えるを尻目に、ランサーは提供された料理を欠片も残さずぺろりと平らげる。

「ごちそーさん、うまかった!」

 その食べっぷりの良さにほっと胸をなでおろしながら、お粗末様でしたと皿を下げた。
 使用した皿たちを流しに運び、カチャカチャと音を立てながら食器類を洗う。最近はこうした後片付けも少しずつ慣れてきて、うっかり手を滑らせて皿を割るということはなくなった。
 そう思えば、確かに徐々にではあるが上達しているのだろう。しかしそれでは遅いのだ。一足飛びに眼を見張るような成長をしたい。そうした焦燥はの中でいつも燻っている。
 それが手に伝わってしまったのだろうか――洗剤の泡でぬるつく手からつるりとグラスが勢い良くシンクの外に飛び出す。慌てて掴まえようとするが、泡だらけの手では効果はなく、つるつると滑ってしまう。
 数秒後の破砕音に覚悟しながら、思わず目を強く瞑る。しかし耳障りなガラスの砕ける音は場に響くことはなく、恐る恐る目を開けてみると、床から数センチのすんでのところでグラスはランサーの手の中に収まっていた。腰掛けていた椅子から持ち味の俊敏性を生かして救出に駆けつけたらしい。

「なんとか間に合ったな」
「あ、ありがとうランサー!」
「おう。考え事しながらってのは危ないぜ」

 ぱちんとウィンク混じりにサラリと告げられたセリフに、どきりとの胸が跳ねる。
 まるで心中を見透かされたかのような言葉に、おずおずと彼の瞳を見つめれば、全て判っているとばかりに空いている方の手での頭を優しく撫でた。

「焦ったところで、時間ってのはあっという間に過ぎていくからな。今がやるべきことは、毎日思い切り遊んで、旨いもん食って、目一杯寝ることだ」
「そんなことでいいの?」
「ああ。それが出来ないやつだっているんだ。それが出来るうちは充分味わっとけ」
「……ランサーはそれが出来たの?」

 ポロリと零れた少女の言葉に、ランサーは驚いたようにその眼を見開いていた。
 その変化になにかまずいことを言ったのかと、冷や汗を流すを知ってか知らずか、彼にしては珍しく何かと奥を思い出すような眼差しで独りごちる。

「――そうだなァ。状況の許す限り、好き勝手気ままにやってきたつもりじゃいるが……ちいっと心残りがあったから、ここにいるのかもな」

 しみじみとした口調は、おそらくは彼自身の中にある未練に思いを馳せている為だろう。だが、その奥には触れれば火傷しそうな程の熱が感じられた。
 ランサーの灼眼にぎらりと熱望が揺らめく。短い付き合いだが、この戦士が何に焦がれているかは薄々少女も察していた。彼が求めているのは、ただ純粋に己の力を発揮できる戦場なのだろうと。
 求めて、求めて、それでも得られず――諦めきれず。どうしようもない大人は今もこうして己の望みが叶うことを求めてもがき続けている。

「で、でも!!」

 ランサーの言葉に思わずの口から言葉が飛び出る。僅か半歩ほど、手を伸ばせばすぐに届く距離であるというのに、なぜだかひどく目の前の男が遠いところにいるような気がしたのだ。引き止めねば、音もなく去ってしまいそうな、そんな妄想にとらわれる。
 何か言葉をかけねば、と数秒の内にめまぐるしく少女の思考回路がグルグルと回転するのだが、結局唇に乗せることが出来たのは、ごく単純な言の葉であった。

「わたしは、ランサーに逢えて嬉しいよ!」
「――ハハッ、ありがとな」

 そう言って破顔する男。いつだって小難しい現実を打破するのは、至極単純な、それでいて強い想いだ。それは神話の時代から変わってはいない。
 それを思い出させてくれたの手に、先ほど見事にキャッチしたグラスを戻しながら、少女の旋毛に軽く唇を落とす。リップ音に少し遅れて、シンクにグラスの底が落下して大きな音が響く。幸いにして割れることはなかったが、滑り落ちたそれは横倒しになってコロコロと転がっていく。

「まッ、後悔なんぞしたってハラの足しにもならねぇからな。
 嬢ちゃんはそうならないよう、目一杯人生を楽しめよ」

 そう言って晴れやかに笑うランサーは、先程までの湿った空気など微塵も感じさせなかった。その代わり、と言っては何だが、思わぬ洗礼を受けたの顔色が夕焼けもかくやとばかりに真っ赤に染まっている。
 初々しい反応にくつくつと喉を鳴らす悪い男に、腹立ちまぎれに小さな淑女は手にした泡いっぱいのスポンジをぶつけるのであった。
 

END


企画提出作品

ブラウザバックで戻って下さい