雪が、風に舞っていた。
       軽やかに、涼やかに――
      
      
      
       
Promise
      
      
      
       さくっ、さくっ――
      
       三月のはじめ。その日は珍しく大雪が降っていた。
       大雪といってもそれは東京でのことであるので、精々道路が隠れる程度のものであるが。
       それでも耐雪対策をしていない東京は交通網に相当の影響をもたらしていた。
       各種交通機関は麻痺し、雪に慣れない通行人があちこちでヨロヨロと不安定な足運びをしている。
       今河原の上の土手を歩いている彼女もその一人であった。
       ――今日、高校を卒業した多くの普通の高校生の中の一人ではあるが、少々境遇は複雑だった。
       は事故で両親を亡くして以来、親戚をたらい回しにされた。それを不憫に思った鴨川源二氏によって引き取られたのだ。
       以来彼女は彼を親と慕い、鴨川会長の経営するボクシングジムを手伝いながら、高校に通っていた。
      
      「さーむーいー!! 何で三月なのに雪が積もるのよ!」
      
       上を向いて、灰色の空に毒づきながら慎重に歩みを進める。ちなみに余談ではあるが、既に二度ほど転んでいる。
      
      「こういう日はさっさと帰ってコタツでアイスに限るわ〜」
      
       自分を抱えるように腕を組み、小さく身震いをする。
       小雪のちらつく道の先をボンヤリと見ていると人影が見えた。
       俯き加減に歩いているその人物は、彼女と同じように高校生らしく卒業証書が入っていると思われる筒を小脇に抱えている。
       ふと、その人物がの視線に気付いたか顔をあげた。
       お互いに、その場に立ち止まる。
      
      「――宮田君」
      「…よぅ。久しぶり」
      
       前にいた人物は、のよく知る者だった。
       宮田一郎――将来を嘱望されたプロボクサー。
       そのファイトスタイルは、華麗なまでのフットワークを使ったアウトボクシングスタイル。見るもの全てを魅了する彼のボクシングは芸術品といっても過言ではないだろう。
      
      「そっちも卒業式か」
      「うん。宮田君も?」
      「ああ」
      
       素っ気無く答える宮田。彼女は疑問を口にする。
      
      「でも、何でこんなところにいるの? こっちは宮田君ちじゃないでしょ」
      「…ちょっと野暮用でな。幕之内の所に行っていた」
      
       そういった宮田は自嘲するように笑った。「ふぅん」と返したは続けて言う。
      
      「宮田君、このあと暇? 缶コーヒーでよけりゃご馳走するからちょっと話さない?」
      「――ブラックな」
      「りょーかい」
      
       一寸待ってて、といっては近くの自販機まで駆け出した。
      
      
      
      「――海外へ行くことにしたんだ」
      「…へぇ」
      
       最初に切り出したのは珍しく宮田からだった。
       飲み終わると同時にそう言うと、宮田は隣に立つに横目で視線を投げる。
      
      「あんまり驚いてないな」
      「驚いてるわよ、じゅーぶん」
      「そうか?」
      「そーよ」
      
       同じく飲み終わったのか、缶を片手でもてあそびながらは答えた。
      
      「あいつとの…幕之内との約束を果たすため、俺はその差を埋めに行ってくる」
      「……」
      
       は何も言わない。宮田はなおも独白を続ける。
      
      「どれだけかかるか、大変かは判らない。…それでも、必ず俺は約束を守るためにやり遂げるつもりだ。
       ――今日さんに会えてよかったよ。…一言いっておきたかったから」
      「…そう」
      
       一言だけ言って、彼女は空いているほうの手を宮田に差し出した。意図を察した宮田は自分の飲み終わった缶をその手に乗せる。
       は近くのゴミ箱までそれを捨てに行く。再び宮田の隣に戻ってきた時、その眉間には深く皺が刻み込まれていた。
      
      「…さん?」
       普段の明朗快活な彼女とは程遠いその様子に流石の宮田も訝しがる。
       は一つ大きく息を吐くと、クルリと宮田に背を向けた。
      
      「――宮田君、これは独り言だから聞き流してくれていいんだけど…
       貴方、一歩君との約束に頼ってない?」
      「――!!」
      
       息を呑む宮田。しかしはそれに構わず言葉を続ける。
      
      「私には、今の宮田君がそう見える。
       自分を約束で縛り付けて――その先に何があるの?」
      「…判らない」
      
       ボソリと宮田は漏らす。
      
      「それでも――それでも…! 今の俺にはあの約束しかないんだ。
       俺の…多くを失ってしまった今の俺の全てなんだよ!」
      
       半ば叫ぶように宮田は言う。は振り向かず、ただ腕を組み空を見上げている。
       暫らくした後、は大きな溜息をついてカバンからスケジュール帳らしきものを取り出すと、何かをページに書きつけそれを破り、振り向いてその紙を宮田に押し付けた。
      
      「…なんだよ、コレ」
      
       11桁の数字の羅列。破られた紙にはそれが書き付けられていた。
      
      「私のケータイ番号。ありがたく思いなさい」
      「何だってこんなモン――」
      「向こうで一勝したら、私に一番に報告して」
      「!?」
      
       宮田は再び息を呑む。
       彼女は小さく苦笑しながら話しだす。
      
      「…あんましこういう”約束”って好きじゃないんだけど――
       約束して、宮田君。初勝利、日本にいる人間の中で私に一番に祝わせて」
      
       そこまで言ってもう一度宮田に背を向けると、数歩歩く。
      
      「私ね、昔の宮田君も好きだけど、今の宮田君のほうが好きよ。
       もがいて…足掻いて。カッコ悪いけど、カッコイイよ」
      
       バッと振り向くと、は宮田をびしぃっと指差す。
      
      「生きてる限り、前のめり! やるからには最後まで未練たらしく、諦めちゃ駄目よ!?
       そうでなきゃ、わざわざ海外なんかにいく意味なんてないんだからね!!」
      
       そこまで言い切ってにぃっと笑う。その表情には一つの歪みもなかった。
       まっすぐに自分を見る彼女に、宮田は顔を背ける事が出来なかった。
       強い意志を宿らせてこちらを見つめてくるその瞳から目が離せない。
      
      「……判ったよ」
      
       搾り出すようにそういうと、は再び笑った。
      
      「それじゃ、暫らくお別れね」
      「そうだな」
      「”約束”忘れないでよ」
      「――ああ。必ず守る」
      
       その宮田の台詞を最後に二人は背を向ける。
       そしてそのまま歩き出す。振り返りはしない。
      
      
      
       雪は何時しか降り止んでいた。風だけがそよいでいる。
       髪を南風に愛撫させながら――二人は歩く。
      
       春の気配だけが、その場に残った。
      
END
      
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