Once in a Blue Moon



 その日の彼女は妙だった。
 重く雲のかかる空を睨んでは溜息をつき、イライラとした様子でジム内の雑用を片付けていた。
 その彼女――は今トレードマークである高く結ったポニーテールを揺らしながら窓から身を乗り出し空を見つめている。

「今日のさん… なんだか機嫌悪いですね」
「まぁ女の子だからな。多少の気分の上下はいつものことだが――」
「一日中ずっとってのは珍しいな」

 一歩・木村・青木の三名は自分たちのメニューをこなしながら横目での様子をうかがっていた。
 鴨川ジムのムードメーカー的存在であるの機嫌が悪いとジム全体の空気がどこか重苦しいものになるのだ。
 ただでさえ男っ気満載のボクシングジム内にいる女性、更に言えば彼女は鴨川会長の孫娘ともいえる立場で。
 彼女の機嫌の一つでその日のメニューのきつさが変わってしまう事だってありうるのだ。
 幸いにして今日は会長は不在。残すはが”兄”と慕う鷹村だが、こちらは散々機嫌を取ろうとして敢え無く撃沈。先ほど失意のうちにロードへと出かけている。
 そんなわけで今ジム内には、何とも言えない妙な空気が流れているのである。

「なぁ一歩。お前一寸いって聞いて来いよ」
「ええっ!? 嫌ですよ! 機嫌の悪い時のさんって鷹村さん並に扱いに困るんですから
 以前にネリチャギ喰らった事あるんですから! あれスゴイ痛いんですよ!?」
「ああ… 俺も鳩尾にエルボー喰らった事あるからなぁ…
 あんなところまで鷹村さんに似なくてもいいのにな」

 木村の台詞に一歩は青ざめ、青木が訳知り顔で同意する。二人ともどこか青ざめた様子だ。きっとそのときの痛みを思い出したのだろう。

「ネリチャギかぁ。ちゃん、新技会得したんだな」
「あの痛みは実際うけないとわかりませんよ。木村さんもどうですか? かなり効きますよ」
「いーや、遠慮する」
「…結局、何が原因かわからない以上嵐が過ぎ去るのを待つしかないって事か」
「だな」
「ですね」

 三人同時に嘆息し、頭を垂れる。
 自分の身に災いが降りかからないことを祈るのみである。



 結局、の機嫌は夜になっても変わらなかった。
 その日の天気と同じように、始終どんよりとした雰囲気で不機嫌を惜しみなく振りまいていた。
 あまりの居心地の悪さに、ジムの中の誰もが早めにメニューを切り上げて帰宅の徒につく。
 そんな中。木村は最後まで一人残っていた。特にメニューを消化し切れていないということではないが、ただ何となく気になったのである。
 彼女と二人っきりになれたのは嬉しいが、は不機嫌絶好調。お世辞にもよい雰囲気とはいえない。
 仕方無しに木村は帰り支度をはじめる。汗をかいたシャツやタオルをスポーツバックに詰め、眉を顰めながらジムの掃除をしているに一言かける。

「それじゃちゃん、俺もそろそろ上がるわ」
「はーい。お疲れ様でーす」

 普段なら明るく言うその返事も、今日ばかりは御座なりである。
 やれやれと苦笑して、木村は「お疲れさん」といってジムを出た。
 家へと向かう帰路の途中、ボンヤリと彼女の不機嫌の原因を考えてみる。

 その一。誰かと喧嘩した。
 ――喧嘩程度ではあそこまで不機嫌にはならと思うんだが。
 そもそも昨日まではすこぶる機嫌がよかったんだし。

 その二。体調不良。
 ――やはり女の子だからなぁ… 月のものか?
 いや、それだったら毎月アアなるだろうから、コレも違う。
 
 その三。恋煩い。
 ――とすれば相手は誰だ? 出来ればそうであって欲しくねぇなぁ。

 その四。単なる気まぐれ。
 ――結局のところ、コレが一番可能性高そうだ。
 明日にゃ機嫌直ってればいいんだけど…

 あれこれと取りとめもなく考えをめぐらしていると、いつのまにやら自分のうちまでもうすぐというところまでやってきた。
 店では木村の母が店じまいの支度をしているところだった。妙なことに、同じくこちらも少々不機嫌そうだ。

「何だよオフクロまで。今日は不機嫌のバーゲンでもやってたのか?」
「ああ達也、お帰り。バーゲンってわけじゃないんだけど…今日の天気が恨めしくってねぇ」

 頬に手を当て、これまたと同じように星の光を隠している厚い雲に目線を向ける。

「――天気? 天気がどうしたってんだ?」
「雨は降らなかったけど、この雲のせいで今日は商売上がったりなんだよ。せっかくたくさん仕入れたのに」

 大きく溜息をついて、店の片隅に大幅に場所をとっているそれを目線で示す。

「流石にコレは今日限りのモンだしねぇ… もったいないけど捨てるしかないかしら?」
「あー… 確かになぁ。こんなモン普通は買う人いねぇだろうし――」

 そこまで言って、木村はふと気付く。そして、一瞬考えて母に告げる。

「なぁオフクロ、コレ捨てるんだったら――」



 夜もふけて。風が冷たく身体に突き刺さる。
 空はあいもかわらず重いカーテンを下ろしたままで。

「…今年は無理かな」

 ジムの屋上の床に広げたシートに座り、膝を抱えながらは呟く。
 何度恨めしく見上げたとしても、彼女が求めるものは顔を出しそうになかった。

「――ここにいたんだ。探したぜ」
「その声は…木村さん」

 後ろから声をかけられ振り向くと、そこには帰ったはずの木村が立っていた。
 ろくな灯りもないので、その姿はボンヤリとしたシルエットであったが。
 その両手には毛布らしきものと――

「コレは俺から。やっぱないと寂しいだろ?」
「ススキ…ですか?」
「まぁ、店の残りもんだけどな」

 にぃっと笑って生けていた花瓶ごとそれをに手渡す。

「今日機嫌悪かったのはひょっとして月が見れそうになかったからなのか?」
「――はい」
「ははは、ちゃんらしい」
「はんせーしてます…」

 一寸ばかり頬を染めて、拗ねたように言う。その様子に思わず木村の頬も緩む。

「子供っぽいってことはわかってるんですけど… お月見やりたかったんですよ。
 せっかく前日からお団子も作ってたのに、無駄になっちゃいました」

 座っているの横には確かにそれらしき影が見える。

「へぇ、ちゃんが作ったのか。俺に一つ分けてくれねぇ?」
「いいですよ。自分ひとりじゃ食べ切れませんし
 ただし食べ過ぎちゃ駄目ですよ! 後で減量辛いのは自分ですからね」
「わかってるよ。それじゃ失礼」

 差し出された団子を一つ摘まむと一口にそれを食べる。
 独特の食感と仄かな甘味。適当に租借して飲み込む。

「うん、うまい」
「ホントですか!? よかったぁ〜」
「なんだか熱い緑茶が飲みたくなるよな、団子食ってると」
「あ、ありますよ。バッチリ準備してます」
「それじゃそれもついでにもらえるか?」
「オッケーです! あ、木村さんも座りませんか? 月は出てませんけど…こうなったら開き直りましょう!」
「ははっ、そうだな。それじゃとなり失礼するぜ」

 が持参していたのであろう魔法瓶からお茶を注いでいる間に、木村はシートに腰を下ろす。無論、彼女の隣、密着こそしていないがそれなりに間近のポジションを取る。

「熱いですから気をつけてくださいね」
「おう、ありがとな」
「いえいえ」

 貰ったコップに口をつける。秋の夜の空気に冷やされた身体にその温もりが気持ちいい。

「しっかし熱いお茶まで準備してるなんて準備万端だな」
「そりゃ夜は冷えますからね。それなりの防寒対策はしてないと。
 ――とは言っても結構今も寒かったりするんですが」

 苦笑いをしながらは答える。なるほどの手は至近距離の今ならわかるが少々色を失っている。寒さで血の巡りが悪くなってるのだろう。
 木村は小さく笑みを浮かべ、飲み終わったコップを足元に置き持参した毛布をの体にかけた。

「持ってきて正解だな。コレでだいぶ違うだろ?」

 そういって今度は自分側にある毛布の端を己の肩に回す。同時にぐっとの肩を抱き、自分の方へ引き寄せる。

「ううわっ! き、木村さんっ!?」
「俺も寒いんからさ。こうすりゃ互いに温めあえて丁度イイし」
「そ、そりゃそうですけど――」

 抱いた肩がジタバタと暴れる。
 木村は少々意地悪く、耳元で囁く様に言った。

「それともナニ、俺とこうするのはイヤ?」
「――いえあの、イヤではないですが… メチャクチャ恥ずかしいです」

 そうすると案の定は動きを止めた。言われ慣れない言葉に固まっている。彼女はこの手の攻撃に弱いのだ。
 それでもしどろもどろに言葉を返す彼女に木村は更に追い討ちをかける。

「いーじゃん、俺ら二人しかいないし。誰もからかうヤツなんていねぇぜ」
「ううう〜っ」
「特に異論はねぇみたいだし、このまんまってコトで」

 軽くおどけた調子で言うと、の力が目一杯入った肩からふぅっとそれが抜けた。
 同じように、小さく息を吐くと彼女はいつもよりは弱い視線でこちらを見つめて言う。

「…判りました。観念します。だからせめて…肩放してもらえません?」
「――ちょっともったいない気はするけどな。判ったよ」

 ぱっとの方から手を離すと、ホッとしたように彼女は笑った。
 月明かりのない闇夜の中でも、接触するほど近くにいるのその表情は大変に魅力的で。
 今ならば、彼女の全てを自分の腕に収められるのではないのだろうかという、酷く甘い誘惑に駆られる。

 と、そこへ。不意に辺りが明るくなる。
 二人同じように空を見上げると、わずかな雲の切れ間から細く光が差し込んでいた。
 風に流され、雲が千切れて。
 ぽっかりとあいた闇に浮かぶは、真円を描く――

「青い月…」
「――おいおい、マジかよ」

 あまりに非現実的な目の前の光景に、声を失う二人。
 しかし、その月は確かに青みがかった色をしている。天頂近くまで昇ったそれは、ただ静かに地上を見下ろしている。

「そういえば…何かの本で見たことあります。
 空中の細かいチリのせいで稀に月が青く見えることがあるって」
「それじゃぁ今見てるモンは幻でも、二人揃って同じ夢見てるってワケでもねぇんだな」
「ええ、多分。現実なんですよ」

 そういってはコトンと木村の方にその頭を預ける。

「不思議ですねぇ…」
「――ああ、不思議だな」

 同じように木村も頭を寄せて空を見上げる。
 見える色は違っても、不思議と月が放つ光は銀色を帯びて。
 それを全身に浴びながら、二人はそれ以上言葉を交わすことなく青い月を見つめ続けていた。

END


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