雨上がりのキモチ



 急に降り出した雨。土砂降りといっていいほどのそれに、周囲もおおわらわだ。
 ジムへの帰り道、傘も持たずにいた小橋は、手にしたファイルを傘代わりに道を走っていた。

 とりあえず、どこかで雨宿りを…

 そう思い小橋は学生時代によく通った喫茶店の扉をあけた。
 カラン――と一昔前を思わせるような、懐かしいドアベルが鳴る。
 暖色灯に照らされた、洋風の店内は落ち着いたクラシックが流れ、コーヒーの香りが店内をより一層引き立てていた。
 昔…まだデビューしたての頃。
 トレーニングにかまけて、うっかり溜め込んだ学校の課題をこの店でよく解いていたものだ。
 ひどく懐かしさにとらわれ、小橋は苦笑した。

 雨宿りのためだけなら、わざわざこの店を選ばなくてもよかったのに…少し、感傷的なのかな?

 なぜか今日に限っていつもとは違う道を通ってみたくなった。
 なぜか昔、通いなれたこの店が目に付いた。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、小橋の足は店の奥へと吸い込まれていく。
 学生時代の指定席。店の一番奥の、角のテーブル。
 しかし、残念ながら先客がいるようだ。そう広くもない店内、その人影がはっきりと見える。
 先客も、人の気配に気づいたかすっとこちらに視線を向けた。

「…あれ? 小橋…君?」
「――先輩?」

 ぽたぽたと滴る水滴を少しばかりわずらわしく感じつつも、小橋はそこにいる人物から目をそらすことができなかった。



「小橋君も雨宿りの口?」
「え、ええ。先輩もですか?」
「そぉなのよ〜 天気予報当てにしてたのに、いきなりの雨だもの」

 けらけらと笑う彼女に小橋も釣られてしまう。
 彼女――は小橋の学生時代の一つ上の先輩だ。
 お互いに本の趣味が一緒で、よく図書館で読書カードの枚数を競ったものである。
 時々放課後に寄り道もした。
 この店の、この席で…誰々の作品の、このシーンが好きだとか、この作家はこれから伸びるだとか。
 非常に他愛もない、穏やかなその時間が小橋は好きだった。

「それにしても…すごい偶然よね。何年ぶりかしら?」
先輩が卒業して以来だと思いますよ」
「そっかー… 結構経つねぇ」
「――今でもやっぱりコーヒーは苦手なんですか?」
「へ?」
「…いや、だって紅茶を頼んでらっしゃるみたいだし」

 テーブルのポットとカップを示しながら、小橋は目線での前の席を示す。
 その視線に笑顔で答えて、彼女はダージリンの入ったカップを指で軽く弾いた。

「うーん… 今は普通にコーヒーも飲めるようになったんだけど…
 なぁんとなく、今日は紅茶って感じだったのよ」
「飲めるようになったんですか!
 昔は『あんな苦い焦し汁、飲めたもんじゃない!』って言ってませんでした?」
「……よく覚えてるわねぇ」
「そりゃぁもう。インパクト強い台詞でしたから」

 小橋の言葉に、は乾いた笑いで誤魔化した。
 注文を取りにきたウェイターに、アメリカンを一杯注文して水を一口含む。

「それにしても…ずいぶん派手に濡れてるわねぇ。
 外、そんなに降ってるの?」
「僕がここにはいるときは結構降ってましたよ」
「あちゃー… どーりでお客が多いはずね」
「確かに」

 言われてあたりを見てみれば、店内は八割方席が埋まっていた。
 二昔も前の雰囲気のこの店は、学生時代から客足は少なく、常連の顔を覚えきれるほどだった。

「ほら小橋君、ちゃんと拭かないと風邪引くよ」
「大丈夫ですよ、これくらい」
「駄目駄目!! いーからちゃんと拭く!」
「…わかりました」

 投げ渡されたタオルで簡単にではあるが、髪の水気を吸わせる。
 顔を伝っていた水滴がなくなり、ずいぶんとスッキリとした気分になった。
 ちょうど、注文したコーヒーもテーブルに届き、冷えた体を内から温めてやる。

「…なーんか、懐かしいねぇ」
「そう…ですね」
「あたしもさ、ずいぶんと久々にこの店に入ったけど…変わらないよね」
「僕も学生時代以来ですけど――昔のままです」
「内装も、雰囲気も…いっしょにお茶してる子も一緒だし?」
「偶然に感謝しちゃいますよ」

 小橋の言葉に、は微笑む。そして小さく「そうね」とつぶやいた。

「立ち止まって、過去を懐かしむのもたまにはいいわね」
「相変わらず、先輩は一直線に?」
「そうねぇ、おおむねその通りだわね。
 ――どんなに悔やんでも、過去には戻れないし、未来は先取りできない。
 だったら今を精一杯一直線にやるしかないでしょ?
 たとえ間違えても、自分で選んだものならしょーがないって思えるしさ」

 そういった、の表情はひどく輝いて見えた。

「懐かしさにとらわれるのも結構、過去にとらわれるのも結構!
 でも…そこから進まなきゃ、新しい面白いものに出会えないもの。
 やっぱ人生、ヒトに迷惑かけない程度に思いっきり楽しまないとね」
「…無茶苦茶ですよ、先輩」

 そういいながらも、小橋は何か、心につっかえていたものが洗い流されたような心持だった。
 確かに彼女の理論は破天荒だ。でもそれで解決してしまうことだってある。

 たとえば、今の自分の戸惑い。

 引退した後の身の振り方――トレーナーになることに異存はないが、その先の不安は拭い切れずにいた。
 だけど、重く圧し掛かっていたそれは、雲の切れ間から太陽の日差しが差し込むかのように、一つの思いをもたらした。

 やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいいじゃないか。

 ヤケクソのそれではなく、あくまで前向きに。

「でもまぁ…それが先輩なんですよね」
「へへへ… まぁ、ね」

 穏やかな眼差しを向けられて、は照れたように頬をかいた。



 しばらくして、会計を済ませ外へ出てみると、すっかり雨は降り止んでいた。
 通り雨だったらしく、見上げれば太陽がきちんと顔を出している。

「おー、雨やんだわねー」
「日差しも戻ってきてますし…これから蒸しますよきっと」
「うう… 外回りにはきついわ」
「……もしかして、先輩サボってました?」
「や、やぁねぇ! 雨宿りよ雨宿り!!」
「でも、濡れてませんでしたよね」
「う”――」

 半眼で突っ込みを入れる小橋の視線を、冷や汗流しては明後日の方向へ受け流す。
 やれやれとため息をついて、ふと小橋は気づいた。

先輩、タオル洗って返したいんですけど…どうしましょう?」
「ああ、別に今そのままでもかまわないわよ」
「いえいえ、こういうことはちゃんと」
「…小橋君らしいわねぇ」

 微苦笑して、少し考えていただが、ぽんと手をたたくとこういってきた。

「んじゃあたしがジムまで取りに行くから。大滝ジムだったよね」
「ええ、そうですけど――」
「よし決定! 二三日中には行くから!
 そういうわけで、あたしはいい加減外回り再開しないと、課長に怒られちゃうんで!」
「ちょ、ちょっと先輩!!?」

 有無を言わさぬスピードではその場を後にした。
 残されたのは片手にファイル、片手にタオルを持って呆然と立ちすくむ小橋。
 あまりの展開の早さに置いてけぼりにされた彼は、思わず空を見上げた。
 ビルの谷間から見える都会の狭い空にかかった虹が、どこか広く高く見え――
 はたと、奇妙な事実に気が付いた。

 …なんで先輩、僕の所属ジム知ってるんだ?
 てかゆーか、そもそも僕がボクシングやってたこと、学校の知り合いには誰にも言ってないはず?!

 雨上がりの爽やかさの中に、酷く複雑さを滲ませる小橋であった。

END


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