冬の清廉な夜の空気に、吐く呼気が白く広がる。
       冷える指先をこすり合わせながらは自宅への歩みをより一層強めた。
       マンションのエレベーターへ入り、その暖房の効いた空気にホッとする。
       ちん、と小さな音と共に少しの揺れが起き、エレベーターが目的の階へ到着したことを知らせた。
       時間も時間なので、少しばかり足音に気をつけながら突き当たりの自分の部屋へと急ぐ。
       と――彼女は異変に気付いた。
       薄ボンヤリと明るい廊下で、自分の部屋のドアの前に何かこんもりとした――そういわば座り込んだ人影のようなもの――が見えたのだ。
       恐る恐る近づいてみると
      
      「よ、。お久しゅう」
      「……なんでアンタここにいんのよ」
      
      
      
      
 ハピネス
      
      
      
      「何でって、決まっとるやないか」
      
       ごそごそとポケットから何かを取り出したかと思うと、勢いよくそれについている紐を引っ張る。
       ぱぁんと軽快な音を立てて、色とりどりの紙テープと紙ふぶき、それに微かな火薬の匂いが辺りに広がった。
      
      「メリークリスマスや!」
      
       満面の笑顔で屈託なく言う千堂に、はクラリと眩暈を覚えた。
      
      「アンタねェ――」
      
       言いながら掴んだ千堂の手の冷たさにハッとする。一体彼はどれほどこの部屋の前で待っていたのだろうか。
       手を取ったまま、は大きく溜息をついた。千堂の行動にいつも彼女は呆れさせられる。
      
      「こんな寒いトコじゃ風邪引くわよ。部屋に入ろ」
      「おう!」
      
       その返事を待っていましたとばかりに、千堂が元気よく立ち上がる。尻尾がついていたならばきっと千切れんばかりにそれは振られていたことだろう。
       鍵をあけ、少々の軋む音を立てながらそれをあける。部屋に入り、とりあえず全体の明かりをともす。
      
      「邪魔するで〜」
      
       言って千堂は遠慮なく部屋に入り込むと、興味深げにきょろきょろと辺りを見渡す。
       シンプルな家具とそれに合わせたトーンの小物、全体的にスッキリと纏まった感じの部屋だ。
       大きな本棚にずらりとボクシング雑誌が並んでいる――というのが違和感と言えばそうだろうか?
      
      「あー… やっぱり来てるわね」
      
       そう呟いて、は一枚のファックス用紙を手に取る。
       続いて受話器を取り、ボタンを押す。数回のコールの後、回線は繋がった。
      
      「お疲れ様です。やっぱり来ましたよ、ウチに」
      『ああ… やっぱりですか。毎度毎度迷惑かけますなァ』
      「もー慣れました。とりあえず、時間が時間ですんで明日にでも強制送還させますから」
      『頼みますわ〜。あのアホ、またロードワーク中に抜け出しよって!』
      「ご苦労様です」
      
       妙に親しげに会話をするに、千堂は電話相手が誰なのか気が気ではなかった。
       暫らくして通話が終了すると、早速に食って掛かる。
      
      「なァ、今の誰や?」
      「柳岡さん」
      「はァ!?」
      
       まさか自分のトレーナーが相手だとは夢にも思わず、思わず鸚鵡返しにそう言ってしまう。
       彼女は苦笑しながらファックスを千堂に見せる。そこには要約すると『またウチのアホがそちらにお邪魔しているようです。面倒みたって下さい』と書いてあった。
      
      「何で柳岡はんが自分とこの番号知っとるんや!」
      「私が教えたのよ。アンタがしょっちゅう抜け出してくるから、主な逃亡先の連絡先くらい知ってた方がいいと思って」
      「、ワイが教えてくれゆうても教えてくれへんかったやないか!」
      「アンタに教えよーモンならスキあらば電話をかけるでしょうが! いーじゃない、ケータイのメアドは教えたんだから!」
      「いやや〜! 毎日の声が聴きたいんや!」
      「いい大人が駄々をこねるんじゃないわよ!」
      
       なおもやいのやいの言ってくる千堂だったが、はそれを聞き流す。
      
      「とにかく、まずはお風呂に入っちゃいなさい!」
      「へ、何でや?」
      「その冷え切った身体をどうにかしないと、いくら頑丈なアンタでも風邪引くわよ」
      
       びしっとバスルームを指差す。早く入れと言いたいらしい。
      
      「シャワー浴びるだけでもだいぶ違うし。どうせ着替えとかもってきてるんでしょ?」
      「いや、もってきてへん」
      
       キッパリと言う千堂に思わずコケる。ごまかし笑いを浮かべつつ、千堂は続ける。
      
      「まさかこーもあっさりが部屋に入れてくれるとは思わんかったからな。幕之内か鷹村さんトコ行って、屋根貸して貰おうかと考えてたんや」
      「…今からでも遅くないわよ」
      「いやや」
      
       即答する千堂に、は頭痛のする思いだった。
       何で今日に限ってあっさりと千堂を自室へ招いてしまったのかを。
      
      
      
      「はー、ええお湯やったわ〜」
      
       炬燵に入り、ホコホコと全身から湯気を出しつつ、心底気持ちよさ気に千堂は言った。
       から借りた大き目の女性用シャツではあったが、流石に彼には少しばかりサイズが小さいようでボタンは締められずにいた。
      
      「…てかさー、普通逆よね」
      「おお、男モンのシャツを女が着てて、ブカブカのそれ見て男が萌え萌えするってアレか?」
      「まァ概ねそうね。実際男として萌えるもんあるの?」
      「せやなぁ… 下にズボン穿いてなかったらかなり。シャツの裾を恥ずかしげに押えてたりしたら言うこと無しや」
      「判りやすいわねー、男って」
      「で、どや? ワイのカッコには何やクるモンあるか?」
      
       何かを期待するかのような瞳の千堂に、は炬燵から立ち上がり、彼を正面から見据え答える。
      
      「ちっとも。そもそも上半身裸の男なんて見慣れてるわよ。ボクサーなんて皆そうじゃない」
      「…そりゃそーやな」
      
       すたすたと台所へと向かうの後ろ姿に、はたはたと涙がこぼれる思いの千堂。
       しばしの後に、彼女は小さな鍋といっしょに戻ってきた。その鍋からはもうもうと湯気が立ち上っている。
      
      「これは…?」
      「鍋焼きうどん。あり合わせの材料で作ったから味の方は保証しないけど」
      
       コトンと自分の目の前に置かれたそれを、千堂はまじまじと見つめる。
       白菜や人参、鶏肉と半熟の卵、それと見え隠れするうどん。
       恐る恐るレンゲでスープをすくってみると、澄んだ色のスープがカツオだしの香り良く、より食欲を刺激する。
      
      「外から身体を温めたら、今度は中身からあったまらないとね。減量中じゃないから大丈夫でしょ?」
      「おう! おおきになv ちゃんとしたうどんやし!」
      「ああ、関西の人って関東のうどん、あんまり好きじゃないものね。『こんな醤油汁食えるかー!!』って」
      「そうそう! やっぱ底の見えるくらい透き通ったツユやないとなァ」
      
       嬉しそうに言って、いただきますの声と同時に鍋焼きうどん攻略にかかる。
       猫舌なのか念入りに冷ましてから、さも美味しそうに食べる千堂の姿には少しばかり口元に笑みを浮かべた。
       やはり、何だかんだ言っても自分の作ったものを美味そうに食べてもらえると嬉しいものである。
      
      「慌てないでゆっくり食べてなさいよ。その間に私もお風呂入ってくるから」
      
       のその言葉に、食べている箸を休めて彼女へと首を向ける。
       その千堂の考えに釘をさすべく、は極上の微笑を浮かべながら宣言した。
      
      「覗いたら、熱湯ぶっ掛けた上に、寒空の下にそのままで放り出すから覚悟しといてねv」
      
      
      
       ぺろりと鍋焼きうどんを綺麗に平らげ、千堂はうつらうつらとしていた。
       体の内外から温められ、特にすることもなく――覗くなと釘をさされた――満腹の心地良さもあってその意識は途切れ途切れだ。
       ふっと、部屋の空気に湿り気が大量に混入する。
      
      「あら千堂。ひょっとしてもう眠いの?」
      
       ガシガシと少々乱暴に濡れた長い黒髪をタオルで拭きながら、が近寄ってくる。
       千堂の鼻を、香料の香が擽る。それは自らととの両者から漂ってきた。
      
       ――そうか、使ことる石鹸が今日は同じなんや。
      
       そのちょっとしたことが嬉しくて、千堂は少し笑った。
      
      「炬燵で寝ちゃ間違いなく風邪引くわよ! こっちのベッドで寝なさい!」
      「ベッドって、ここでワイが寝たらはどないするんや?」
      「私? 私なら風呂場で寝るわよ」
      「何でや!」
      
       さも当然のことのように言うに、一瞬にして千堂は覚醒する。
      
      「ある程度広さがあって、鍵もかけられる場所ってウチじゃァ風呂場しかないんだもん」
      「――ワイと一緒に寝るッちゅうんは?」
      「超却下。自分の身は自分で守ります」
      「せやかてなぁ、ワイかて自分ひとりぬくぬくと寝られるほど阿呆やないで! せめて風呂場はやめェや、な!」
      
       それやなかったらワイが風呂場で寝るわ、との台詞に、は考え込む。
       彼女のことだから、一応はお客様を粗末に扱うわけにはいかないとでも考えてるのだろう。
      
      「…わかった。風呂場は取り消す」
      「そうか! よかったわ〜」
      「玄関で寝る」
      「待て待て待て!」
      「冗談よ」
      
       キッパリという彼女に、千堂はがっくりと肩を落とす。
      
      「あ〜の〜なぁ、ワイからこうて、そないに楽しいか?」
      「すっごい楽しい」
      「…………楽しいなら何よりや。どーせワイは弄られてナンボの関西人やしな」
      
       だくだくと涙をながしながら千堂は、机にのの字を描く。
      
      「ほぉら、拗ねてないで。さっさとベッドで寝なさいな」
      「誰が拗ねさせたんや、誰が〜」
      「勿論この私。さ、さくっと寝て明日は早朝からロードワークよ」
      「寝かしつけようとすなや! てゆーかなんで東京にまできてロードワークせなならんねん!」
      「柳岡さんからのお達し」
      「柳岡はんのいけず〜〜〜」
      
       なおも子供のようにジタバタ暴れる千堂を、は宥めながらどうにかしてベッドへと押し込めたのだった。
      
      
      
       さて数時間後。時間は丑三つ時といったところだろうか?
       千堂はもぞもぞとベットの中で眠れずに、寝返りばかりを打っていた。
      
       ――てか惚れた女と一つ屋根の下におるんに、男として眠れるかーーーッ!!
      
       心の中でそう叫んで、またも寝返りを打ちうつぶせる。顔を埋めた長枕からはと同じ匂いがする。
       ベット全体からもの気配が感じ取られ、思わず千堂はしまりなく笑った。
       先ほどから数時間、千堂はずっとこの調子である。コレでは眠れるものも眠れない。
      
       …寝とる襲ったら、やっぱ叱られるやろか?
       いくらなんでもワイのほうが力強いやろから、ヤることだけなら出来るやろけど…の泣き顔なんて絶対見とうないし。
       何より思いっきり嫌われるやろうしなァ… 一時の勢いに任せたらあかんわなァ…
      
       そんなどうしようもないことを、ぐだぐだと考えているとふっと人影が彼の隣に現れた。ベッドの脇で寝ていただろう。
       彼女は暗闇の中をフラフラと歩き、台所へと消える。
      
       何や? 水でも飲むんかいな?
      
       案の定、水道の流れる音が聞こえてくる。その後すぐにその人影は戻ってきた。
       いったときと同じような危なっかしい足取りで人、は元の場所に帰ってくる。
       そして、最初に立ち上がった位置に立つと――
       今度は千堂のいるベッドへともぐりこんできた。
      
       ―――なぁああああっ!!
      
       予想していないハプニングに、千堂の脳内は一瞬にしてパニック状態に陥った。
       はピッタリと千堂に抱きつくと、そのまますやすやと寝息を立て始める。
       彼にしてみれば待ち望んでいたような展開ではあるが、流石に心の準備が出来ていない。
       バクバクと凄まじい速さで心臓が動く。
      
       落ち着け、落ち着くんや。まずは冷静に考えるんや。
      
       すうはぁと深呼吸をし、多少心臓の動きが落ち着く。それでもなお平時の三倍ほどはあるのではないかと感じられたが。
      
      「うにゃ…」
      
       と、ここでが小さく息を漏らして千堂の胸板に頬擦りをしてきた。
       流石に、ここまで来るとプチンと脳内の何かが切れるような気がした。
       衝動のままにを強く抱きしめる。
       途端に両の腕に伝わる、暖かく柔らかな感触。
      
       嗚呼… ワイは三国一の幸せモンや〜
      
       天国の感触に酔っていた千堂は気付く余地もなかったが。
       丁度その瞬間、千堂の死角で何かが勢い良く振り上げられた。
       直後に、ジョーにクリティカルヒットを喰らい、結局彼は訳のわからぬまま気絶する羽目になった。
       の寝返り左アッパーが、見事、元フェザー級王者をKOさせたのである。
       
       翌日の朝、一緒のベッドで寝ていることに気付いたが、問答無用で気絶したまま眠った千堂を張り倒し――理由を聞いて謝り倒したというのは言うまでないことである。
      
      
      
END
      
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