032:鍵穴



 小さな小さな隙間から覗く世界は、不思議と魅惑的に見えるもので。
 忙しく行き交う人の中に、ちらちらと映る彼の影が酷くいとおしい。
 どこかこことは違う、別世界の光景を盗み見ているように思えてくる。

「…君は一体何をしているんだね?」
「覗きですよ」
「そういいきられてはこちらとしても言い方に困るのだが」
「んじゃツッコミは無しのほうで」

 振り向きもせずにはじっと鍵穴を覗き続ける。
 声だけで誰が自分に尋ねてきたのかは判り切っているからだ。
 むしろ、後方で遠巻きに見つめる視線や声も気付いてはいたが、今の彼女には些細な事柄にしかならない。

「そうもいくまい。君がここで覗き行為を始めて早一時間。
 その間この部署に誰も入れずに、私の元まで苦情がまわってくる始末だ」
「何で皆さんあたしに直接文句を言わないんでしょうかね?」
「――君子危うきに近寄らず、といったところではないか?
 それに、君の背からは”邪魔するな”という気配が立ち上っているしな」
「だったら何故大佐はあたしに話し掛けられるんでしょ?」
「それは勿論、私が有能な軍人だからだ!」
「…欠片ほどの理由にもなってない気がします」

 ここまでやり取りをしている間も、は片目を鍵穴から離そうとはしない。
 その態度に不満を覚えたのか、ついにロイは実力行使にでた。

「失礼」
「なっ――」

 ひょいとの服の後ろ襟を掴むと、ロイは軽々彼女を片手で持ち上げる。
 あまりといえばあまりの出来事に、少しばかり浮いた足や手をばたつかせては抗議する。

「離せー、無能ッ!」
「…何故君は、ことにつけて人を無能呼ばわりするのかな?」
「だってハボックさんが言ってたから。
 『大佐は女誑しの無能なんだ』って」
「つくづくアイツは…ッ! ロクな事をに吹き込んでいない」

 忌々しげにそう呟くと、ロイはパッと手を離した。
 一瞬の落下感を全身に感じながらも、彼女はバランスを崩す事無く地に足をつけた。
 そしてそのまま強制的にピーピング行為を中断させた張本人へ、恨みと疑惑の視線を投げかける。

「えー、でも暫らく大佐を観察していて思ったんだけど…ワリと的確だと思うなぁ、その意見は」
「何処をどう観察したらそうなるんだい、

 ロイは極上の――見る人が見れば胡散臭いことこの上ない――笑顔で彼女にそう問いかけた。
 世にいる妙齢のほぼ全ての女性が篭絡するであろう笑顔にも、は見惚れることも無くビシッと彼の眼前に指を付きつけ、

「例えばホークアイ中尉に尻に引かれているあたりだとか! 書類を期日ギリギリまで溜め込むクセだとか!」
「くっ…」
「あと何の気紛れかあたしを口説いてきたりとか!
 あたしの好きな人はハボックさんってず―――っといってるのに!」
「人のものだと思うと、欲しくなるのは人間としての性だとは思わないかい?」
「思いませんッ! あたしはハボックさん一筋!」

 恥ずかしいことを堂々と言ってのけるの表情は、むしろ誇らしげだ。
 何度と無く繰り広げた同じやり取りの同じ結幕に、ロイはやれやれと首を振る。

「そのハボックから言われたから、覗きをしていたのだろう?」
「……」
「『仕事中は邪魔するな』とでも言われたのかな?」
「…まぁ、似たようなものだけど」

 拗ねたようにそっぽを向くの姿に、思わず笑いがこみ上げる。

「ではあいつの仕事が終わるまで君は私の司令室にいるといい。
 一日の報告書を司令室まで持ってくるのが、あいつの日の最後の仕事だしな」
「え、でも――」
「何ならお茶と菓子もつけよう」
「乗った!」

 吊り下げられた人参の誘惑に、アッサリと快諾の返事を上げる
 殆ど脊椎反射並で、熟考には程遠い。

「では司令室に行こうか。私が案内しよう」
「はーい」

 ニコニコとその喜ぶ様を見つめながら、胸中で彼女の想い人がどのような反応をするか、という人の悪い楽しみを想像し、笑みを浮かべていた。

END


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