079:INSOMNIA



 年度末である。
 日ごろの忙しさと比例すれば軽く三倍くらいの量の仕事に、責任者をはじめとする東方司令部の事務系職員は仕事に忙殺されていた。
 一日三時間眠れれば御の字、徹夜は日常となるこの時期、職員はまるでゾンビのような足取りで部屋を渡り歩く。
 年度末の〆にむけ、全部門の予算の帳簿のチェックは当然として、書類整理時に今更のように見つかる不備の数々。
 身体的にも、肉体的にも酷使される日々に全員ボロボロの状況だ。

 統括者として特に忙しい日々を送っている。既に三日寝ていない。
 ここまで来ると眠ろうと思っても眠れなくなる。ちょっとした不眠症状態だ。仕方ないから仕事をする。寮には着替えと風呂に入りに行くだけである。

 部下が心配していい加減休んでくれと懇願するが、休むに休めないこの状況では、簡単にはYESとは答えられないでいた。
 頑として首を縦に振らない彼女に、ついに部下たちが強硬手段に出た。書類を故意にへ渡さないようにしたのだ。止められるまでに山と積まれていた書類だが、次がこなければ流石に次々と消化されていく。元々処理能力に長けたであればなおのこと。
 やがてすっかり目の前にある書類の決裁を済ませてしまったに、部下達は口をそろえて「今度こそ休んでください」と言って部屋から放り出してしまった。

 鍵までかけられ、ドアの外で暫らく抗議をしたがどうにも無駄だと悟って、は仕方無しに言われた通りに仮眠室へと足を向けた。
 眠れずとも、仮眠室でボーっとすごしていれば「休んだ」と言い張れるだろう。そう思ってのことだった。

 東方司令部の仮眠室は一階の北側、突き当りの部屋だ。
 カーテンを閉めれば昼間でも薄暗く、さらに人がよく行き交う通路や部屋からはかなりはなれた場所にあるので静かでもある。
 途中にあるリネン室で毛布を一枚拝借し、はのろのろと歩いていく。

 ああ、まだまだ仕事は溜まってるのに。部下に心配かけてしまうほど、私疲れてるのかしら?

 停滞しきった頭でそんなことを考えながら廊下を歩いていると、ふと窓に映った自分の姿が目に入った。
 ツヤの失せた髪、荒れた唇、どんよりとした生気の無い目、よれた軍服。
 成る程、確かにボロボロだ。こうやって自分の姿を見てみれば、心配してしまう理由もわかった気がした。

 そんなことを考えながら歩いていると、やがて目の前に一枚のドアが現れた。
 まるで突然自分の目の前に現れたかのように感じたが、そんなことは現実にありえない。仮眠室は以前からこの場所にある。
 毛布を拝借し、自分の姿を自覚し、そして今ここにいる。このほかの記憶がいまいち曖昧だ。よほど疲れているのだろうと半ば自分を呆れながら、ドアノブを捻りあけた。

 年度末の仕事に忙殺されている仲間が多く転がっているだろうと予想していたのだが、薄暗い部屋の中に人影は無かった。
 僅かなカーテンの隙間から、太陽の光が差し込んでいる。それだけが部屋の光源だった。
 さてどのベッドが空いているやらと、手近にあったベッドを覗き込むと、すっぽりとシーツを頭までかぶって丸くなっている先客がいた。
 誰だろうとちょっと気になり、は起こさぬようそっとその布を取り目を細める。

 やや暗闇に慣れたの視界に映ったその人物は、東方のトップ・ロイ=マスタング大佐。
 予想外の人物に、は思わず後じさった。

 それでかっ! それで誰もいないのかっ!! 

 は心の中で思いっきり毒づく。
 大繁盛しているであろう仮眠室に人がいない理由。流石にトップと雑魚寝が出来るほど肝の据わったものがいなかったのだろう。
 一人で仮眠室を占拠しているその男は、すやすやと安らかな寝息を立てていた。

 じっとはその寝顔を見つめた。普段から多少童顔だと感じていたが、こうやって目を閉じているとそれがさらに強調される。
 細い髪は僅かな光を反射してうっすらと輝き、肌にはくすみが見られない。女の自分は連日の仕事地獄でボロボロだと言うのに、この男の整いっぷりといったらッ!!
 そう考えると、無性にムカムカしてきた。はっきり言って気に食わない。
 苦虫を噛み潰したような顔のまま、は自分の軍服の胸ポケットからあるものを取り出した。



「――少佐はいるかね?」
少佐なら今お休みちゅ――――――」

 廊下にて聞き覚えのある声に呼び止められ、振り返って答えようとしたの部下は、その途中で台詞と己の表情を硬直させた。

「……マ、マスタング大佐…ですよね?」
「ああ。そうだ。
 彼女は寮で休んでいるのか?」
「仮眠室にいなければそうじゃないかと…」

 の部下の疑問にロイは簡潔に答えた。
 声からして彼当人であるとは判るのだが、今のその姿からどうしても聞かずにいられなかったのだ。

 顔を目の部分だけを出して、フランケンシュタインヨロシク包帯でぐるぐる巻きの男。

 それが今彼の目の前にいる男の姿だ。肩の星の数と声がなければ、男がロイだと信じる事は困難だったろう。

「あの、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「顔、というか包帯の意味は――」
「何だったら見るかね? 先ほど私の部下に指を指して大笑いをされたところだ」

 ふっと自嘲ぎみに答えると、部下の返答を聞くより早く顔の包帯を取り始めた。
 やがて現れたものに対して彼はとりあえず吹きださずにいることに成功した。

 目には少女漫画張りのバシバシの睫毛、何故か三叉になった眉毛、鼻の下部分には豪腕少佐も驚きのカイゼル髭。
 オマケに頬にはデカデカと「無能」と書かれている。

 このラインナップを目の当たりにして、笑いを堪える事の出来た部下は実に素晴らしい。

「仮眠室から帰ってくるときに、周りの者たちが何故笑いを堪えているのか判らなかったのだが、司令室に帰って指摘され気付いたんだよ。
 ここまで私に対して容赦のない仕打ちが出来るのは少佐しかいるまい?」
「た、たしかに、そーですね…」

 ニヒルなその笑顔も、今の状況では全てが笑いへと結びつく。部下の顔の筋肉も限界に近づいてきていた。
 
「あら? どうしたんですマスタング大佐」

 ロイの後ろから、件の人物であるが声をかけてきた。
 数時間前とはうって変わって、すっきりとした顔つきで機嫌よさそうである。

少佐、マスタング大佐がご用件があるそうですよ」
「そうなの?」
「はい。そ、そういう訳なんで、自分はここで失礼しますッ!」

 言うだけ言い残して、彼は脱兎の勢いで二人の横をかけていった。
 態度が可笑しい自分の部下に少しだけ首を捻って、とりあえずはいまだ顔を自分の方へ向けないロイに問い掛ける。

「で、何の御用でしょうか大佐」
「…………率直に聞こう。これは、君の仕業かね?」

 くるっと振り向いて、己の顔を指差すロイに、は当然吹きだした。

「あははははははははははははっ!!!!」
「笑うなっ!」
「い、いや、だって、そんな…無茶な…っ! あははははははっ」

 腹を抱えて力の限りに笑うに、ロイはぶすっとした顔でもう一度包帯を巻き始めた。

「洗っても落ちないんだよ、この落書は。どうも油性のものでかかれたようでね」
「そ、それはご愁傷様、で」
「残念なことにね、私の知りうる限り大佐である自分にこんなことが出来る人間の心当たりは一人しかいない」
「はぁ。それで?」
「ついでに言うと頬に書かれている不愉快な言葉の筆跡は、忘れもしない私の愛する人のものだ」
「ドサクサに紛れていらんコト言わないで下さい。私はそれを認めてません」
「……その発言は、この落書は君が書いたものだと自白するものと取らせてもらうよ」
「しまった! 誘導尋問ッ!」

 NO!とオーバーリアクションで仰け反るに、ロイは含み笑いを包帯の下に浮かべた。

「さて、理由を述べてもらおうか」
「えー」
「えーじゃない」
「…だって私が眠れないのに、大佐がすやすやと寝ているのを見たら、ちょっとむかっ腹が」
「仮にも私は君より上官なんだぞ」
「…尊敬すべき上官だったら私だってこんな事はしませんよ」
「つまり、君は私のことを尊敬していないと」
「はい。恐れながら」

 キッパリと言い切ったを見て、思わずロイは眩暈に襲われた。

少佐…」
「はい、何でしょう」
「始末書だ」
「あ、やっぱり」
「これだけですんだだけ、ありがたいと思ってくれ」
「じゃぁその分少しだけ尊敬してあげます」
「…私の目を見てもう一度」
「イヤですよ。また笑わせるつもりですか?」

 これまた即座に断言するは確かに先ほどからロイの方を直視しようとしていない。
 その姿に溜息をついて、ガックリと肩を落とすロイ。

「油性のペンで書いたんで、シンナーを染み込ませた布で拭き取ればすぐに落ちますよ」
「君は私をジャンキーにするつもりか!」
「何でそんな面倒なことを! 原液じゃなくって、薄めたものを使えば大丈夫ですって」
「ああ、なるほど」

 合点がいったとばかりに頷く自分の上官に、やれやれとは苦笑する。

「何だったら私のマニキュアの除光液差し上げますから」
「元々は君が原因だからな。後始末まで頼むとしよう」
「了解です」
「くれぐれも、変な消し方はしないでくれよ」
「……ちっ」

 図星だったのか実に残念そうにが舌打ちを打った。
 善は急げと並んでの仕事場へと足を向ける。その途中でふとロイが思い出したように呟いた。

「それで、君の方は眠れたのかね?」
「一応寮の自室でウトウトする事は出来ました」
少佐、眠れない時はいつでも私の胸が空いているぞ」
「全力でお断りしますんでご安心を」

 結局、今日もまた報われないロイだった。どっとはらい。

END


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