081:ハイヒール



 ショーウィンドウに輝く赤いハイヒール。
 同色のカクテルドレスと一緒に、それらを纏うマネキンをウットリと見上げた。

 暫らくそれを見ていたが、やがてははふ、と小さく溜息をついた。
 街一番の高級ブティックはそれ相応にお値段が張って、とてもではないがすぐすぐ手の届くものではない。
 これらを購入すべくチマチマと給料を貯めてはいるが、それが溜まりきるまでに誰かに先に買われるかもという不安もある。
 彼女の予定では、次のボーナスで何とか購入の目処が付きそうなそれらを、寮へ帰宅するまでの僅かな帰路の際に眺めるのが最近の楽しみだった。

 ――どーか神様! 他の誰かに買われませんよーにッ!!

 そんな願いを込めながら、は尚もショーウィンドウを見つめていた。



 しかし、運命の神とやらは冷たかった。



「…なにやら、酷く落ち込んでいるな」
「そう、ですかね」
「昨日はすこぶる上機嫌だったから、余計に差がついているよ」
「ボーナス支給日でしたし、昨日」
「財布でも落としたのかね?」
「そういうわけではないんですけどね…」

 覇気もなく下がりっぱなしの士気を隠すわけでもないの態度に、ロイは珍しく彼女へ向けてその眉を顰めた。

 楽しみに、本当に楽しみにしていたあのドレス。着る機会が早々ないとは判っていても、眺めるだけできっと幸せになれるはずだったあの組み合わせ。仕事に忙殺される日々の中でも、あれらを買い受けることができると思えばストレスも軽くなるほどに焦がれていたのに。
 仕事が終わった――残業などにならぬよう、いつも以上にスピード仕上げで――瞬間に職場を飛び出し、駆け込んだブティックで宣告された言葉にすっかり打ちのめされた。

『大変申し訳ないのですが…ショーウィンドウのあのセットは売約済でして…』

 一点物ゆえ、在庫も無いと聞かされた時には軽く絶望に浸ってしまうほどだった。なんでも鼻の差で契約が結ばれてしまったらしい。余計に悔しい。おかげで昨晩は溜息と添い寝をする羽目になってしまった。
 そんなグダグダの状態でも、一夜明ければ仕事をキッチリこなしている辺りがらしいが…
 提出された報告書に一通り目を通し、ロイは了承の証を捺印する。

「それで…新たな補給ルートの実用化にはどれくらいかかるのかな、実際のところは」
「このところのイシュバール系テロリストの活動が活発化していますし…そうですね、10日ほど欲しいところです」
「他の部隊で手伝えそうな事は?」
「特には。強いて言えば、検挙率をアップしていただければ全般的に助かるかと」
「善処しよう。試験運用期間中、何か動きがあることを願っているよ」

 ロイの言葉に、は敬礼の仕草で返した。
 暫らく無言の二人であったが、硬く顰めたままの表情を甘やかなものへと変化させてロイが言う。

「お疲れ様、少佐。どうだい、今夜食事でも」
「いえ… どうにもそういう気になれませんので」
「そうか。では、命令だ」
「――は?」
「いやなに。実は今宵は面倒にもフォーマルな立食会があってね。一人身だと肩身が狭いんだ」
「いつものようにホークアイ中尉をお連れになればいいでしょう?」
「それが振られてしまってね。なんでも今日はどうしても外せない私用があるらしい」
「……珍しい」

 何だかんだ言っても、ホークアイのロイに対する忠義は本物だ。ロイの要請を断る彼女は、それこそレアである。
 長く良き友人関係を彼女と結んでいるが、記憶の中でも早々ありえたことではないように思う。内心かなり驚いていると、にこりと笑ってロイは続けて言葉を発した。

「まあ、タダで――とはいわない。急な話だし、衣装その他は此方で用意するよ?」
「それはまた、随分と太っ腹なことで」
「なぁに、ボーナスが出たからな。それに好いた女性に贈り物をするというのは、男の楽しみの一つだよ」
「……そりゃどーも」

 相変わらずの台詞に、彼女は思わず口の端をヒクリと引き攣らせた。
 つくづく思うが、この目の前にいる男もずいぶんと物好きだなあとは思う。
 毎回毎回は断り続けているといのに、それでも誘いをかけてくる。まあ、半ば意固地になっているのだろうなと最近では感じていた。
 お世辞にも愛想がいいといえない彼女にめげる事もなく、上機嫌のままロイは言葉の先を発した。

「ベルベットのドレスとそれに合わせた靴だが…少佐は炎の色はお好みかな?」

 一瞬、彼がなんと言ったのかには理解が出来なかった。夢にまで見た憧れのあのセットも同じ色合いだった。よもや、まさか。そんな思いが脳内を支配する。
 半眼だったそれを大きく見開き、気の抜けた返事だけが乾いた唇から零れた。

「…………はい?」
「おや、聞こえなかったかね?」
「いえその――私の耳がイカれてなければ、炎の色とかそんな感じの単語が」
「炎と言ってもガス火ではないぞ。ごく一般的にイメージされるであろう、紅の色だ」

 そう言うとロイはデスクの足元にでも置いていたのであろう、さっと平たい大きな箱とその上にある小さめの箱を取り出した。
 が何か言うよりも早く、さっとその蓋を取って提示する。そこには彼女が以前より焦がれていた――深紅のカクテルドレスと、それと揃いのハイヒールがあった。
 パクパクと、空気を求める魚の様に口を動かすの様に、どうだとばかりにロイが胸を張る。

 正直――欲しい。むしろ咽喉から手が出そうなほどに、今すぐにでも!

 しかしそれを見せれば、足元を見られどんな無理難題を吹っかけられるかわかったものではない。
 ここは冷静に交渉を。この手の腹芸は自分の十八番でもあるではないか。
 はそう自分自身に言い聞かせるように心中で呟く。

「…いい、色ですね」
「だろう? 先日見かけたときに、この色はきっと君に似合うと思ってね。目をつけていたんだ。
 ボーナスが出るまで売れないでくれと願っていたが…いやはや、私は運がいいようだよ」

 ああ、よりによって貴方だったんですか――思わずそんな感想を抱きつつも、表面上はあくまで冷静さを保ち、は言葉を続ける。 

「しかしこう言ってはなんですが…高価ではないのですか?」
「市勢の目線であれば恐らくは。まぁ、大佐と国家錬金術師の二つを兼ね備えている自分の懐事情から言えばそれほどでもないよ」
「――まさか、支給されている研究費から流用されたわけでは」
「これでも公私のケジメは付ける性質だよ、少佐」

 そんな事をしたら、まず君に嫌われそうだしね、と茶目っ気を含ませたウィンクまでつけてロイは言う。

 どうしよう。ああ本当にどうしよう。

 乱れた心をかき寄せ、どうにか形を保ちながら、グルグルと渦巻く思考の中での葛藤は続いていた。
 ミアンとて軍のパーティ――しかも、盛装が必要とされるような――ものは大の苦手だ。しかし、ただ一度堪えさえすれば夢にまで見たドレスとハイヒールが自分のものになる。
 黙り込んでしまったに、ロイはニコニコと笑みを浮かべたまま言葉を続けた。

「それで、返事はどうなのかな? 君が受けてくれなければ、このドレス一式は廃棄するつもりなんだが」
「はぁッ!? な、何でまたそんな!」
「君に着てもらいたくて購入したものだからね。それ以外に理由が無いのだから、私が持っていたところで荷物にしかならんよ」
「ほ、他の方に贈るとか、リサイクルに出すとか――」
「却下だ」

 キッパリと強い語調でロイは言い切った。
 ますます持っての心は揺れ動く。正直なところ、リサイクルや売りに出されればそこを狙って手に入れられるのでそれが一番ではあるのだが、そうは行かないらしい。
 恥を忍んで焦がれた品々を手に入れるか、もしくは意地を貫き通して諦めるか。
 酷く長々と諮詢した後――ロイは辛抱強く、しかし笑顔のままで彼女の回答を待っていた――の咽喉がコクリ、と鳴った。

「…ご」
「ご?」
「………ご要請、拝命させていただきます。マスタング大佐」
「そうか、それは何よりだよ」
「あくまで公務ですからね。任務優先です。ホークアイ中尉の代理ですからっ」
「ああ、十分判っているよ」
 
 矢継ぎ早に繰り出されるの言葉に、しかしロイは上機嫌で相槌を打つ。
 酷く負け気分にかられるが、残念ながらあの緋色をしたハイヒールとドレスへの想いと羞恥や嫌悪の感情の天秤で前者が上回ってしまったのだから仕方ない。
 それでは、と衣装と靴が納められた箱を手渡される。思わぬ方法で手に入ってしまった、憧れの品々。かなり心中複雑ではあるが、やはり嬉しい気持ちはある。へらり、との目尻が下がった。

「――そうそう、判ってはいると思うがパーティでは常に私の傍にいてくれたまえ。そうでないと相伴の意味がないからな」
「了解しております、大佐殿」
「結構」

 の返事にロイは一層の笑みを浮かべる。
 そう、フォーマルな会合ともなれば様々な人が集う。軍部に留まらず財界関係者や知識人、中には玉の輿や先物買いを狙ったものもいるだろう。
 ロイは軍の中でも若手の筆頭、出世頭だ。おまけに国家錬金術師の資格も有し、知名度や注目の度合いはトップクラス。おまけに特定の恋人もいない独身――ついでに女性好きの噂もあいまって、このような席では相当数の女性に囲まれる。
 そうなるとろくに身動きも取れない。情報収集や探りを入れることが難しくなる。だからこそ――伴に女性をつけ、虫除けにするのだ。この点でリザは大変に効力を発揮している。

「正直…ハメ手のような気がするのは私だけですか、マスタング大佐」
「――気のせいだよ」

 半眼で睨みつけても、今ばかりはロイに通じるはずもなかった。一層唇の弧を深くしたに過ぎない。
 肺に溜まった空気を一気に吐き出し、諦めをつける。前後のやり取りはどうあれ、が今宵の伴を引き受けたのは違えられない事実なのだから。この後、何が起きてもそれは物品に釣られた彼女自身が原因になる。

「今回限りですからねッ!!」
「ふむ…では私はそうならぬようこれからも弛まぬ努力を続けるとしようか」

 捨て台詞のつもりだったのに、それすらも捉えられてはどうしようもない。
 反論する術を無くしたは、ただただ悔しげに贈られた紅装束一式を抱きしめるだけだった。

END


ブラウザバックで戻って下さい