086:肩越し
振り返ったのは、単なる気紛れだったのか。
兎に角、今日この瞬間にそうしなければ気付かなかっただろう。
「――少佐、いますか?」
ドアをノックしてみるが、反応はない。
時刻は夜更け過ぎ。こんな時間までいるはずは無いのだ。普通ならば。
だがしかし、残念ながら今は通常の状態でなく、きわめて忙しい時期――そう、年度末だ。
ハボックとてその例にもれず、今日も残業でこんな時間まで残っていた。
ようやく帰れると疲れた身体を引き摺るように帰路へとつく間際、ふと背後の建物を振り返る。
すると、薄ボンヤリとした明かりがついている場所があるのに気付いた。事務系統の取りまとめをしている部署だった。
そんな訳で、まさかとは思いながらもハボックは確認をしにきたのだ。
確かにはどこぞの上司とは違い、期日にきっちり書類をそろえる人ではあるが、こんな遅くまでやっているとは考えにくい。
事実ドアの向こうからは返事はおろか、気配すら感じられない。
誰かが電気を消し忘れでもしたのだろうと、ハボックは先刻見た光景に理由をつけた。
しかし――
かちゃん――
ドアの向こうから微かに音が漏れてくる。深夜の無音状態でなければ、聞き取ることは出来なかったろう。
いよいよもって不審に思ったハボックはドアノブを捻り、それを引く。
ドアは鍵がかかっていなかったらしく、すんなりと開いた。通常終業時には各部署のドアを閉めるのは義務とされているので、中に人がいる可能性はますます高くなった。
目が闇に慣れてくると、次第にシルエットがくっきりと浮かび上がってきた。
光源といえば窓から入ってくる月明かりくらいしかないが、ぶつからずに歩ける程度の光量はある。
そんな中で部屋の奥の一角だけ、闇がやや押しのけられている場所があった。
窓を背後にしているせいか、まるでそこだけ光のグラデーションをかけたような感覚に襲われる。
そばに近寄る途中、足に何か固い感触が当たった。しゃがみ込んで暫し手探ると、手に触れるものがあった。しっかりとした作りの万年筆である。
羽ペンと違い、ある程度のお値段がするこの品物は、給与に余裕があったりしなければ買えるものではない。――佐位以上であれば、持っていても可笑しくはないが。
それを拾い上げ、目線を目的の方向へと投げる。デスクには山と詰まれた書類とランプ、そして突っ伏した人間が一人。
ああ、やっぱりなとハボックは溜息をついた。
「大佐と足して半分にしたら、丁度いいだろうに」
仕事の鬼と事あるごとに書類を溜め込む自分の上司。
両極端な二人を知っている人間なら、一度は誰しもが考えることだろう。
件の片割れ――は、ハボックがきたことなど知る由もなく眠ったままだ。
起こそうかとも思ったが、あまりによく寝ているのでそれが偲ばれる。
普段こんな姿など見た覚えはないので、よほど疲れているのだろうとハボックは思った。
とりあえず万年筆を机の上に戻し、つけっぱなしのランプを消す。
ついでに自分の着ている制服の上着をの肩にかけた。
肩越しに間近に見る。規則正しい寝息まで聞こえてくる。
彼女の寝顔をしばし眺め、去り際に軽く彼女の耳に唇を落とした。
「…風邪、引かないで下さいよ少佐」
そう呟くと、それが聴こえたのか彼女の身体がもぞりと動く。
少々驚いたが、その後やはり起きる気配もないにホッと胸を撫でた。
結局、が目を覚ましたのは翌朝。朝一で出勤してきた自分の部下に揺り起こされるまで、夢の世界の住人となっていた。
自分の肩にかけられた大き目のジャケットと、なぜか熱を持つ耳に首を傾げつつ、の一日がいつものように始まる。
書類を届けに司令室へ行く途中で、うっかり風邪を引き喉が痛くて煙草が吸えないとぼやく友人に、これを機に禁煙したら?などと勧めた。曖昧な言葉で誤魔化されたが、いつかそうしてくれるととしてもありがたい。
それら以外は特に変化もない一日だった。主のわからぬジャケットはいまだ彼女の元にある。
END
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