098:墓碑銘



 名前が刻まれていなければ、そこに誰が眠っているかどうか判るものなどいはしまい。

 上にあるこの石を、他のそれと変えてしまえば…よほど通いつめているものでなければ、その事実に気付くまい。

 そう、そんな些細な事だけで危うくなってしまうのだ。

 私はその甘美な誘惑を、胸の奥底に何十に鍵をかけしまいこむ。

 正にそれは私だけのパンドラの箱。決して開けてはいけないモノ。

 その欲を開放しない対価に、私は一つの事を自らに課す。

 生きる限り、私はかの名を忘れる事無く想い続ける事。

 例えこの先誰もがその名を忘却の空に解き放とうとも、私はそれを拒み続ける。

 否――私に出来ることは、それだけしかないのだから。



「…やはり先客は君か」
「――どうも」
「あいつも幸せだな。こんなに上司思いの部下を持って」
「これくらいしか…出来なくなってしまいましたけどね」
「…違いない」

 すい、と彼女の横を分け入って、持ってきた花束を添える。
 軍服のポケットから一枚の写真を取り出すと、御前に置いた。

「随分と大きくなっただろう? 頭の切れがいいのはお前譲りだな」
「ふふ… 珍しいですね、厭味抜きで貴方が褒めるなんて」
「失礼な。私だってそれくらいは出来る」
「奥様、どうでした?」
「そうだな… 大分立ち直ったよ」
「それは良かった」

 彼女は手にしていたコートを羽織ると、「それでは――」と会釈しその場に背を向ける。

「――少尉」
「…何でしょう?」
「君も――いや、愚問だな」
「ええ… 愚問でしょうね。
 私はまだ――」
「なら、今度一緒に食事でもどうだ?
 アイツの悪口ならば、今でもいくらでもいえるぞ」
「本人の前で酷いですね、ロイ大佐。
 まあ、検討しておきますとだけ」
「期待しているよ」

 寒々しい空とは逆の表情で言うロイに、微苦笑しながらは再び頭を下げた。
 それを姿が見えなくなるまで見送ると、ロイは親友の眠る墓に視線を投げ、一つ溜息を落とした。

「まったく、お前も大概罪な奴だよヒューズ」

 その呟きに、鎮座する石は答えない。

END


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