19:生還



「――何も言わないんスか」

 ポツリ、と彼はそう零す。
 彼女は時折その場を手土産もなく訪れては、僅かばかりの時間を過ごしては去っていた。
 晴の日も、曇りの日も、雨の日も、風の強い日も。別段何事と語るでもなく、他の見舞い客の果物を勝手に拝借したり、花瓶の水を変えたり、持ち込んだ文庫本を読んでいたり。
 その日はよく晴れた日だった。窓から降り注ぐ日差しは冬の気配を緩めている。白い病室はより陽光でよりその明度を増し、目に眩しいほどだ。

「…言って欲しいの?」
「疑問に疑問で返すのは反則ですよ、少佐」
「そうかもね」
「アンタ、こんなところでサボれるほど暇じゃないでしょうに」
「サボりなんかじゃないわよ。きちんと仕事は終わらせているし」

 手にしている文庫本に目線は落としたまま、どっかの誰かさんじゃないんだから、と小さく彼女は自嘲した。
 そして会話が途切れる。場にあるのはただ静寂のみだ。
 静けさの中、ヤレヤレとハボックは視線だけを彼女に向ける。下半身不随な上、入院中でろくに思うように動けない今、以前と変わらず自由が一番効いているのは視線と思考だった。
 自分より年下の上司。部署は違えども軍に在籍する以上階級は絶対だ。女性で、しかもこんな若年での立場には色々と気苦労も付きまとうだろうに、彼女はそんな素振りを見せた事はなかった。
 多少のコネがあったとしても、能力が付随していなければ良き上官にはなれない。それは軍の不問律でもある。その点で、彼女――は間違いなく良き上官であった。

 だからこそ判らない。何故彼女がここに足繁く訪れるのかが。
 ラインとテクノの違いこそあれど、彼女は前線に立つものだ。潤沢な補給なくして勝利はなく、退路の確保が生死の明暗をはっきりと分けるのが前線である。それら全般を取り仕切るのが彼女の仕事だ。
 よって余計な暇などないし、万が一にもそういうものがあったとしても彼女であればそれを利用しより充実を図ろうとするはずだ。本人は堂々と「自分に戦闘能力はない」と公言しているのだが、間違いなく彼女の能力は軍部にとって大きなものだ。ドンパチやるだけが戦争ではない。けっして前線指揮等は出来ないが、彼女が欠ければ大きな損害が出ることは明白である。

「もう散々いろんな人から言われてるんでしょう? だったら私からは何もないわ。もうきっと聞き飽きる頃でしょうし」
「…ご配慮ドーモ」
「ええ」

 言って彼女はぺらり、と文庫本のページをめくる。ハボックとの声がなければ、音はその渇いたものだけしか聴こえてこない。
 居心地は――悪くはない。ハボック自身、どちらかといえば静寂よりは喧騒の方が好ましいが、これはこれで悪いものではない。ここで煙草の一つでも吹かせればより完璧だったのだが、と口寂しく思うくらいだ。

「…生還したからには、まだ役目はあるのよ」
「――え?」
「なんでもないわ。この本の台詞を声にしちゃっただけ」

 その台詞に、改めての手にしていた本に注視してみる。コメディチックなノリで、出てくるキャラクター全部が物凄い個性の持ち主。そんなハチャメチャな流れの中、ウソのベールに包まれた怪奇現象を主人公コンビが警戒に解き明かしていくストーリーだったと思う。何となく真面目なサスペンスや推理系を好みそうなイメージがあっただけに少し意外な選択だった。系統としては間違えていないのだが。
 しかしそんな台詞、そのベストセラー小説にはなかったように思う。ふっと悪戯心がハボックの口を滑らせた。

「…よかったらその本、貸してくださいよ」

 どんな場面で言ってるのか気になるし、と付け加えて言うと、彼女は案の定慌てたように顔を跳ね上げる。

「え、で、でも――まだ読んでる最中だし!」
「病室ってヒマなんすよー。見舞い品代わりにイイでしょ?」
「だーめー!!」

 真意はどうか判らないが、きっとこれは彼女なりの励まし方なのだろう。武器を手に対峙する他にも道はある。腐るんじゃない、と。これ以前に既に色々いわれていたこともあってか、言葉で言われるよりも、ガツンと来た。
 なんとも不器用な――普段は器用なクセに――彼女のメッセージに気付いてしまえば、後はもうそれをネタにからかうしかないではないか。
 ガーっと叫びださんばかりに拒否しだすの様子に、ハボックは久々にささくれた心が収まっていくように感じた。

END


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