いつのまにか、まるで当たり前のようにバゾーの家に遊びにくるようになったは何とはなしに言う。
「なんだか随分と髪が伸びたわねー」
「そ、そうかい?」
言ってバゾーは己の髪の毛を手櫛で撫でる。確かに全体的に伸びてはいると思う。
「うん。見てるこっちが暑くはないのかなって思うくらいには」
「まあ確かに…少し首元が暑いかなあ」
季節は夏の終わり。ピークを過ぎたとはいえ、まだまだ太陽の日差しは厳しく、残暑が終わる気配は薄い。農作業中にはじっとりと汗が首筋に纏わり付いてくるのが常だ。
「よーし、じゃあ髪を切りましょう!」
そう意気込む彼女の手の中には、いつの間に用意したものやら銀色のはさみがきらりと輝きを放っていた。
021:はさみ
さあ座って、と促され、恐る恐ると腰を据える。ふわりと掛けられたのは真っ白なケープ状の布だ。ちらりと視線を後ろに向けると、無意味に腕まくりをしたの姿が目に入る。見るからにやる気は十分のようである。
今更何を言っても届くまい、と小さくため息をついてバゾーは抵抗を諦め――まあいつものことだ――されるがままに髪の毛を切られる覚悟を決めた。
バゾーは吸血鬼である。最強と謳われる不死者。例え性格がハムスターもびっくりの小心者かつ臆病かつどうしようもないくらいにヘッポコかつヘタレであろうとも、夜の王と讃えられる魔力生物の最高峰なのだ。
故にその身の全ては魔力で構成されているといってもいい。皮膚一枚、爪一つとってもそれは魔力で編み上げられたもの。特に髪の毛はそれが如実に反映される。髪が伸びた、ということは多少なりとも魔力の蓄積ができているということをも現すのだが――時々、蔓のように己の意図で髪の毛を生やさない場合もある――それを言ったところで神秘に疎い彼女には理解が難しかろう。それに――
「バゾーには長髪より短いほうが似合ってると思ってたのよ」
こう言われてしまっては、切らないで欲しいとは若干言いづらい。
さらに言えば、もともと自分には魔力が枯渇しているわけだし、些少の魔力貯蔵がなくなったところで構わないか――なんて自分自身で納得してしまっているのだから、もう言うべきこともない。
しゃきしゃきと小気味のよい音とともに、ぱさりぱさりと黒い髪が白い布に落ちていく。鼻歌交じりに動くの細い指は淀みがない。
そっと頭の上を這い回る柔らかの触感に、思わず意識が薄くなる。心地よさのためか、瞼がやけに重い。
「――痛ッ」
まどろみの幕を破ったのは、が上げた小さな悲鳴だった。しかし急に意識が引き上げられたのは、その声だけではない。
微かに場に漂う臭気。もうどれだけの間味わっていないか忘れるほどの、それでもなお忘れることの出来ない甘い香り――血の匂い。
どくどくと、バゾーの内側が脈動している。高揚なのか、それとも動揺しているのかわからない。ゆっくりと首を後ろに向けると、僅かに眉を顰めたの表情が伺えた。彼女の持つはさみの先端、白々とした銀の色以上に輝く真紅。逆の手の指に伝う細い筋も同じ色だが、肌との対比でこちらの色はより艶かしい。
「あっちゃー。やったら切れ味のいいハサミねー」
能天気にたらたらとあふれる液体を見つめる。
世界が明滅する。ストロボが絶え間なく光り、色が反転する。だというのにその色だけは変わることなく鮮やかに、そして残酷に艶めいている。
あか、アカ、赤、紅、赫――バゾーの目にはその色しか入ってこない。
「この家に包帯とか綿とかってあったっけ……って、バゾー?」
ようやく彼の異変に気が付いたのか、の声が訝しげなものへと変化する。彼女の顔を見ることが出来ない。顔をあげることが出来ない。
おそらくは、今の自分の表情はひどく物欲しい、餓えた獣の様相をしているだろう。はやる動悸と、滲む脂汗。吸血種としての本能とそれに逆らおうとする矜持。綯い交ぜになった心情をありありと照らし出している。
バゾーは弾かれたように椅子を蹴り、走り出した。まるでバネ仕掛けのように、普段の彼では想像もつかぬほど俊敏に彼は駆け出す。大して広くもない家のドアを半ば蹴破るように開け続け、自分の寝床の目の前まで一直線だ。
寝床といっても、一般的なベッドなどではない。生まれた故郷の土が敷き詰められた木製の棺桶だ。滑り込むように中に入ると、すばやく上蓋を閉じ、暗闇の中で身を縮こまらせる。
硬く瞳を閉じ、震えを抑えるように自身の体を掻き抱く。だが瞼にこびり付いて色は消えることはなく、脳裏に焼きついた光景は薄れるどころかより強さを増した。
――若い生娘の香りたつような血。力も無く、それどころか好意すらぶつけてくる稀有な娘。やや陽に焼けた健康的な肌、折れそうなほどに細い首筋。
柔肉の中で脈打つ血潮のなんと紅きこと…!
嗚呼、その喉元に牙を穿ち、あふれんばかりの命を食むことが出来たのならば――きっと自分は、一生後悔する。
間違いない。断言できる。
それは、絶対に犯してはいけないことだ。
太陽が似合うあの少女を、月明かりの下でなくば生きられない身体にしてはならない。
を、として生かすのであれば、彼女を夜の道へ引き込んではいけない。
吸血種に血を吸われた者は清純であればその眷属に、過ぎた身であれば理性を無くした化物に身をやつす。どちらにせよ人として生きる道は閉ざされ、その身は魔道へと墜ちる宿命だ。
自分は望んでこの道へと足を踏み入れた。後悔も無い。己が主人を考えれば必然であったとさえ想う。
だが、彼女は違う。彼女は何も知らない。一時の激情に身を任せ、彼女の身を変えてしまったら、にあわせる顔が無い。
だから今は、内側で猛る本能を押さえつけることに専念するだけだ。だというのに――
「ちょっとバゾー、いきなりどーしたってのよ!」
当の本人は何の緊張感も無く棺をがたがたと揺らしている。声の調子からすると、急に置いていかれてワケが判らない! とお冠のようだ。
平素の彼であれば即座に棺から飛び出し、コメツキバッタよろしくぺこぺこと頭を下げていただろうが、今回ばかりは事情が違う。今は彼女に少しでも遠くに離れていて欲しかった。今の距離は近すぎる。
もともと常人より鋭い五感が、血に誘われてより鋭敏になっていた。いまだ止血手当てを行っていないであろう彼女の指から、僅かずつ血が滲み続けているのだろう。鼻腔を擽る甘い匂いに眩暈が起きそうだ。
「なん、でもない」
「そんなわけないでしょ! ほら、引きこもってないで外に出てきてよ!」
「――ダメだ。今は、出れな、い」
理性を壊して今にも飛び出しかねない自分を、ギリギリと力でもって押さえつける。上がる息は自由に話せないほどだ。
駄目だ、近すぎる。木の板など何の障害にもならない。血の気配が、自我を狂わせる――
明滅する意識を鞭打ち、何とか言葉を搾り出す。
「オレのことは、ほっといていいから… とにかく、止血、して」
「――止血?」
の気配が怪訝そうに呟く。ややあって、ああ、と短く得心がいったかのように声が漏れた。
「そういやアンタってば吸血鬼だったっけ」
思いっきり忘れてたわー、なんて笑う。そこには欠片たりとも畏れや不安、ましてや恐怖なぞ感じられなかった。彼女はなおも続ける。
「ってことは、血の匂いにやられたわけね。おーおー、まるでいっちょまえの夜の王みたいじゃない。ちょっと見直したわ」
「いや、そんなところで見直されても…」
「なんだったら舐める? 少し固まりかけてるけど」
あまりにもさらりと言われたので、一瞬バゾーは意味が飲み込めなかった。
舐める、というのはこの場合患部から垂れている血液を指し示しているのは間違いない。自分が必死にその誘惑に打ち勝とうとしているというのに、当の本人ときたらあまりにも考えなしな台詞を言ってきた。
自分自身が危険に晒されているんだから逃げて、といいたい理性と、無知なる好意に縋り付きたい感情とが鬩ぎ合う。しばしの諮詢の後――
「…………フツーに手当てしてください。お願いします」
――バゾーは本能よりも矜持を選んだ。
※ ※ ※
「あのね、。一応オレだって吸血鬼なんだから…あんまり無防備に血を目の前に出されちゃ困るんだよ」
その後――手当てを終えたに棺から引きずり出されたバゾーは、差し出されたマグカップを両手でいじりつつぼそぼそと言い訳を連ねていた。
「それでなくても吸血なんてもう十年以上もしてないんだから…」
「お腹減りすぎて襲うこともあるって言いたいわけ?」
「いや、その、えーっと… そんなことは、無い、と…思う」
「声小さいぞー」
「だって、ほら、嫌だろう? 無理やりってのは」
「じゃあいいよーってさっき言ったのに、何で飲まなかったのよ」
「え、ええ、ええー… それは、その…」
ニヤニヤと、意地の悪い笑みを浮かべるにしおしおと小さくなるバゾー。
とてもではないがいえるものではない。たとえ一滴でも口にしたが最後、自分の理性が吹っ飛ぶ自信があっただなんて。
そうなれば吸血鬼の本能のままに彼女を蹂躙していただろう。泣き顔のなんて見たくもない。少女に最も似合うものは溢れんばかりの笑顔であり、自分の手でそれを壊して悦びを得るなぞという趣味をバゾーは持っていない。
口を尖らせ、もごもごと言葉を濁すバゾーに、は微笑を投げかける。
「大丈夫よ、バゾー」
「…」
「アンタが襲ってきたら、とりあえず往復ビンタをして目ェ覚まさせるから!」
輝く笑顔と握りこぶしできっぱりと宣言をする。その台詞は笑いながら言うものではない気もするが、それでこそ彼女らしいとも思えるほど屈託の無いものだった。
END
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