025:のどあめ
警視庁のある一室。特別区域機動隊――通称特区隊に割り当てられたその室内にその人はいた。
「やあ少年! 香港は楽しんできたかね?」
勝手知ったる何とやらで来客用の湯飲みにお茶を淹れ、まるで自分の私室のようにリラックスした様子で、彼女は朗らかに出迎えの言葉を寄越した。
警視庁内でも群を抜いて腫れ物扱いを受けている特区隊の部署に、事も無げに出入りを繰り返しているのは交通課に所属する婦警・碇。本名を『意狩』――伝説的に語り継がれる忍一族が末裔である。
ただし彼女自身は都知事の認可を受けておらず、公式的な立場はあくまでも一般人だ。また本人も忍者として生きる気はないらしく申請も出していない。事実千庭も幾度か彼女と接する機会はあったが、が忍術を『積極的』に使用しようとするところは見たことがなかった。
彼女の系譜は『意』を『狩る』者。相手の本名さえ判明していれば、その者のあらゆる意欲を刈り取ることが出来る。問題は彼女の力が強すぎるためか、それとも元々がそうなのかは判らないが――『無意識』にそれが漏れ出ることがあるということである。つまり彼女にその意志がなくとも、ふとした調子で対象者の意識をもぎ取ってしまうことがあるのだ。
無論、そんなコントロールも何もされていない業は、修行と経験をつんだ忍には通用しない。自身に余人を操ろうとする意思は無いが、それでも監視下に置くという意味合いからなのだろうか、再三において上役である杖承からは勧誘を受けているようだがそれをも断り続けている。
そんな彼女のあまりにも堂々とした居座りっぷり。身体を襲う脱力感にもいい加減慣れてきた。ぐらつく頭を軽く振って、千庭は言葉を零す。
「…色々と言いたい事はあるのですが」
「ふんふん、土産話ってこと?」
「違います。というよりなんで俺達が香港行ったこと知ってるんですか」
「達馬君から聞いたから。お土産買ってあるから取りにこいだって」
律儀だよねえ、と楽しそうには笑う。
特区隊として香港に行ったのは何も慰安の為というわけではない。外部から送り込まれる悪しき力――悪忍の流入を食い止めようとする一環で訪れたに過ぎない。一部の面子はそれを半分以上忘れてはしゃぎまくっていた記憶はあるが、よもや良識派だと思っていた深船達馬までもが陰ながらそのような行為に及んでいたとは。
だがしかし。そういった事は些細なことである。重要なのは――
「……深船とは知り合いなんですか?」
「あれ、言ってなかったっけ? 昔、ちょっとした付き合いがあって」
――さらりと告げられた彼の名前にこそある。
彼女の術は本名を認識することから始まる。意図せずとも名を絡めた言葉を発するだけで動き出す技であるというのに、は何一つ気にする事無く深船の『名』を出した。
彼女は人の名前を口から発することに対して酷く慎重である。千庭自身も名前で呼んで構わないと伝えてはいるが、がその名で呼びかけることは少なく、殆ど『少年』としか呼んでこない。
の抱えた事情を考えれば無理もないとは思うが、それを踏まえればあまりにも深船に対しての口調というものは軽く、そして優しかった。
「子供の頃にちょっとの間、深船に預けられていたことがあったから。同じ『音』に関わるものとしての交流の一環かな。そのときからの縁だよ」
「そうですか…」
「まあそれも本当にちょっとの期間だったからねー」
そのときの事でも思い出しているのだろうか。くすくすと、忍び笑いを漏らしながら彼女は語る。
千庭が住んでいるのは横浜ということもあり、隊員の中では特区隊の控え室に常駐している事は少ない。と深船の再開劇というものも、千庭がいない間におこった出来事だったのだろう。
そう言えば幸か不幸か深船と千庭の両者が揃っている状態でが同席していたことというのは今までになかった。おまけに両者共にそういった世間話をする性質でもない。それらが積み重なってこの時点での事実発覚となったのだろう。そういった結論で落ち着いた。
目まぐるしく考えを回転させている千庭に対し、はそれを察することもなく思い出に浸るように言葉を続けている。
「お互いなんでここにいる! って感じでびっくりしあったし。まあ個人的にはまさかあーんなデカブツに進化していたことが一番の驚きポイントかな」
「俺はの変わらなさに驚いたが」
ガチャリと軋んだ蝶番の音を立て、ゆるりと男が室内に侵入してくる。ザンバラに伸ばした黒髪、ノースリーブに加工したシャツをラフに着崩した彼――深船達馬はどこから話を聴いていたものやら、開口一番そんな事を口走った。
「…深船!」
「香港以来だな千庭。模試は済んだのか」
「一応はな。これで暫らくはここに詰められる」
「こらこら、達馬君。年上の女性を呼び捨てにしないでよねー。
それに私だって達馬君には負けるけど成長してるんだから変わってるわよ!」
「ほう、具体的にはどのあたりがだ?」
「大人の色気とか、余裕とか!」
えっへん、と胸を張るようにが宣言すると、その姿を深船がじっくりと観察するように視線を上下に動かす。
暫しの間を置き、ふうとあからさまに音を立てつつ男は大袈裟に頭を振る。
「…………どこにある」
「その間が余計腹が立つわね!」
むっと、明らかに両頬を膨らませ語尾も強く不貞腐れる。そういう素直な部分が子供っぽい部分なのだという事に気付いていないのは本人だけのようだ。
そんな様子の彼女に苦笑するように肩をすくめた深船は、すっと彼女の目の前にひとつの紙袋を差し出した。装飾の無い酷くシンプルな包みには、何某かの漢字が書き付けてある。
「そう拗ねるな。土産はいらないのか」
「……いる」
若干眉は寄せたまま、しかしその手はすばやく提示された袋を奪取していた。そのままの流れで袋の上部を開き、中に入っているものをつまんで取り出す。オブラートに包まれたそれは、質感と色の具合から見て何かの飴玉のようだった。
「喉によいと触れ込みのものだ。味は保障しないが」
「へーどれどれ」
深船の言葉に興味でもそそられたのか、は手にしたキャンディを即座に口に放り込んだ。しばらくころころと口の中で転がしていたようだが、時間がそうたたないうちに眉間の谷間がどんどんと深くなっていく。
「〜〜〜〜〜〜ニガい!!」
「まあ漢方が山ほど処方されているようだったからな」
「嫌がらせか、これは土産という名の嫌がらせか?!」
悶絶するを見つめる達馬が楽しげに笑う。特区隊の中でも仏頂面を千庭と争うほどの深船だが、彼女の前では歳相応の少年のようだ。に向けられた視線には、見るものが見れば十二分に親愛の情がこもっていることが察せられる。
聡い千庭は当然そのことに気づいたが、二人のやり取りを――付き合いが長いのであれば当然だ――と結論付けた。ちりりと左胸の奥が焼きついたような刺激が走ったような気がするが、余りに僅かで一瞬のことだったため気づけない。
「こ、このマズさは他の誰かにも味合わせないと気がすまない!!
さあそういうわけだ少年、この場に居合わせた天運を恨みつつ、この喉飴を食べるがいい!」
目に涙さえ浮かべたが、烈火のごとき勢いで千庭に飴玉を一つ押し付けてくる。自分でもわからないが、思わず受け取ってしまった。
不味いと判っているものをどうして食べようか。それでも、自分に向けられてくるの潤んだ――まあ、飴の不味さに生理的な涙が浮かんでいるだけなのだが――瞳に気圧されるように、不承不承飴玉を口に含んだ。
しばしの猶予。そして襲い来る猛烈な苦味とエグ味――なるほど、これは確かに。
「苦い、ですね」
「でしょーーー!!」
我が意を得たり! と首をこくこくと縦に振るに、思わず僅かな感情が口の端に浮かぶ。
この口の中に広がる苦さよりも、胸に広がるそれの方がずっと――
不意に湧き上がったそんな想いに、はっと千庭を目を見開く。
今、自分は何を考えた。自問自答をするが、刹那の瞬間掴んだはずの想いは既に霧散してしまっている。後に残っているのは、口の中の不快な味だけだ。
ガリっ、と強く奥歯で噛み砕く。それを何度と無く繰り返すと、飴玉はあっという間にその形を溶かした。砕いた音が聞こえたのだろう、が感心するような眼差しで見上げていた。
「すっごいねー。勇気あるねー」
「…ずっと苦いままでいるよりマシでしょうから」
「わたしは無理だわ」
「昔っから即決が出来ずに苦労を後まで背負い込むよな、は」
「うるさいよ、達馬ー」
かつてを知るもの同士の会話が交わされる。そのやり取りに、味覚ではない苦さが襲う。
噛み砕いたはずの飴玉の余韻だろう、と勝手に決め付けて、千庭は僅かに嘆息した。
END
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