029:デルタ
部活も終わり、人気の無くなった男子テニス部の部室に紙をめくる音と筆記音が響く。
今、この場に残っているものは二人。
今月分の会計作業をしているマネージャー、と例のデータノートをまとめている乾である。
「乾ー、電卓持ってないかい?」
「あるよ」
「ちょいと貸しとくれ。自分のを教室に忘れたみたいでねぇ」
「はいはい」
ごそごそと自分のかばんから電卓を取り出し、乾は手渡す。
「ありがと」
「どういたしまして」
再び部室内を乾いた音が支配する。
互いに無言で作業を続ける。しかし、二人とも何時もの事なのでその沈黙に息苦しさは感じない。
「――」
そのとき、ふと思いついたように乾は声を発した。
「なんだい?」
「お前好きな奴いるだろう?」
まるでその日の天気を問うかのように、さらりと自然にそう問いかけた。その言葉は淡々としたものだ。
はちらりと視線を乾からそらしながら、心内の動揺を表に出さないようにして答える。
「……いや、いないよ」
「嘘だな。
俺のデータによると、が嘘をつく場合一瞬間を置く癖がある。更に今のように視線をそらすとその可能性は上昇する。
それに基づいて、先刻の台詞が嘘の確立は九十五%だ」
「――100%じゃないのかい?」
「何事にも例外はあるからね」
データをまとめる手は休めず、そういう乾。視線もそのノートに固定されている。
そんな彼の様子を見て、はため息をついた。
「まったく… あんたのデータは一体どこまで調べてあるんだかねぇ…
確かに、いるよ。好きなヤツ」
わずかに頬を染め、は照れくさそうにがしがしと頭を掻く。
「それにしても、何でまた急にそんな事聞くんだい? データで判ってる事なんだろ?」
「まあ…ちょっとした確認といったところかな」
そう言いながら、まとめ終わったのだろう。データノートを片付け始める。
「俺がを好きであることのね」
「ふーん、そうかい……って、ええ!?」
がたん、と弾かれた様に立ち上がる。いきなりの乾のその台詞にようやく治まっていた動悸が乱れる。
それを見て、やや苦笑しつつも乾は変わらぬ口調で続けた。
「やはり気付いてなかったな。まあそんなところだろうとは思ったけどね。
大体なんでのデータを取っていると思ってるんだ?」
俺は無駄なデータは取らないよ、とそう付け加える。
「――それじゃあ、わざわざあたしに聞かなくてもあたしの好きなヤツはわかってるんだろ?」
「まあ…ね」
互いに苦笑する。は今日の分の作業を終らせるのを諦め、使っていた電卓を持ち主へと差し出す。
「あんたの気持ちはあたしには受け止められない。返事はNOだよ」
「わかっているさ」
期待はしていないよ、と言いながら渡された電卓を元の場所にしまう。
「じゃあ何だってそんなことを言ったんだい」
心底判らないとばかりに、は胸の前で腕を組んだ。
「言っただろう? 確認だとさ。
例え振られても、今の気持ちが変らない事のね」
「普通振られたら諦めるもんじゃないのかねぇ…」
半ば呆れ返り、まじまじと乾の顔を見る。
それに気付いたのか、その視線を乾は真っ向から受け止めた。
「それにひょっとしたらいきなり気が変わるとか、のほうが失恋するとかあるかもしれないだろう?
確立はあくまで確立であって、何事にも例外はあるからな」
「――…あんたらしいよ」
やれやれと、降参するようには頭を振った。
「でもまあ、好きって言われるのは悪い気はしないね」
「それは脈有りって思ってもいいのかな?」
「さあ? どうだろうねぇ」
喉の奥で笑いながら、は帰り支度をはじめる。作業途中の報告書を曲げないようにかばんに入れて蓋を閉める。
そして準備が終わり、かばんを手に持ち何処か挑戦するような目で一言告げた。
「当然、今日は送っていってくれるんだろ? こんな遅くに惚れた女を一人歩きさせるほど野暮じゃないだろうし」
口の端を軽く上げ、かばんを持たないほうの空いた手で窓を指す。
成る程、既に日は暮れて、夜の帳が幕を下ろし始めている。
「…狼がエスコートするのかもしれないよ?」
「あんたに限って、勝ち目のない戦いはするわけがないだろ? もっと勝率が出てきてから勝負は仕掛けるべきさ」
「もっともだな」
軽く笑い同じく乾も帰り支度を終らせ、立ち上がる。
「それじゃあ送らせてもらえるかい、?」
「ああ、宜しく頼むよ」
そう言って、はパシッと乾の肩を叩いた。
END
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