030:通勤電車
さて、彼女――は仄かな後悔の念に包まれていた。彼女の気質を知る者からすれば、その事がどれだけ珍しいことなのか慄いたことであろう。
時は丑三つ時、人ならざるものどもの跋扈する時間。命あるものはその多くが眠りにつく静かなる幕を引き裂くように、けたたましい音がその場に――否、の頭蓋で響いていた。
カンカンカンカンカンカンカン――
脳を揺さぶるように鳴り響く遮断機の警報音。打ち鳴らされる警鐘は精神内部へ溶けるように響き渡る。
は耳を塞ぎたい気持ちになったが、そうしたところでこの音が聞こえなくなることにはならないと知っていた。これは霊障の一種だ。区分するのであればポルターガイストが一番近いのであろう。
霊たちが満載された電車が真夜中に走っている。それをどうにかしてくれ――
久々の依頼に二つ返事で請け負ったものの、思いのほか霊団の《力》は強かったようである。予兆だけでこうも強い影響を受けるとは想定外だった。元々護りの術は不得手ではあるが、いい加減真面目に覚えるべきなのかもしれないと思う。
遠くからプァン、と幻の警笛の音がした。やりたくない、と思う気持ちとは裏腹に、視線は自然と音の方向に動いてしまう。目線の先の方から徐々に近付いてくるのは、常よりも青白いヘッドライトだ。
――くる。
ざらりとした予感に魂が震えた。一言で表すのであれば気色の悪い感触に撫でられた精神が、粘ついた汗と共に体温と思考を奪っていく。
咒符の一枚や二枚取り出して待ち構えておけば良いのに、は動くことも出来ず縫い止められたかのごとくただその場に立ち尽くすのみだ。その間に電車は音を立てながら着実に近付いてきている。
軌道に沿い、地の底よりやってくる通勤電車。
――見てはいけない、見てはならない。でなければ…最悪連れて行かれる。
そうと判っているのに、ただ身体は硬直しているだけでどうすることも出来ない。
ゴウッ、と風を伴ない、閉じられた遮断機の向こうに青白く発光した電車が通り過ぎてゆく。車内には薄ボンヤリとした明かりに照らされ、その中にいる人々を映し出していた。
一体何両編成なのだろうか、の前を通り過ぎる電車の連結は止まる気配がない。通勤ラッシュさながらの車内は全て満員御礼。無論乗客は人ではない。これから地獄にでも送られる霊か、はたまた成仏の出来ない人々の群か…定かでは無いが、みっしりとすし詰めにされた人の形をしたものがそこにはいる。
その眼は全てがらんどうの眼窩であった。そこにギラギラとした鋭い光を灯し、ベタリと窓という窓に張り付いて、車窓の風景を目に焼き付けんばかりに見開いている。その表情は無念そうでもあり、苦痛を堪えているようでもあり、また喜悦に歪んでいるようにも見えた。
には『彼ら』の視線が全て自分を見据えているように思えてならなかった。ザクザクと突き刺さる意識、敵意、羨望。息の詰まるような感情の波に眩暈がする。
「――さんっ!」
ふっと、聞き覚えのある声が聞こえてきたと思った途端、の身体が軽くなった。ぐい、と強く肩を引かれ身体が宙を頼りなげに泳ぐ。
それと同時に意識が急覚醒した。殆ど反射的にウェストポーチから数枚の符を取り出すと、念を込めて眼前に展開する。身体に染み付いた流れで、意識と力を集中させた。ぼやけていく視界の極一部だけにピントが合っていく独特の感覚に包まれる。
「――集え、そして舞え。夜空を焦がす焔となれ!」
が力ある言葉を紡ぐと、それに応えるように咒符が瞬時に爆炎と化した。長い長い電車を包むように燃え上がった炎は、大きな怪物の舌のように車体全てを舐め上げていく。青白い光は既に綽々とした紅色にとって変わられ、それも数瞬の内には夜の帳へと変化した。
集団が虚ろへと返った跡に残っているのは、肉持つものが二名――
「…あ、ありがとうございました。大家さん」
「いえ。間に合ってよかったです」
かけられた声から、誰が今自分の側にいるのかをは把握していた。礼の言葉と共に顔を上へと持ち上げると、いつものような穏やかな笑みを浮かべている文世の顔がある。見慣れたそれに安堵でもしたのか、の心は先刻の冷気より解放され僅かな温もりが灯っていた。
否、正確には心の中だけではなかった。何やら背中を中心に現実的な暖かさがある。先ほどは術に集中していたので気が付かなかったのだが、よくよく我が身を振り返ってみると今の身体は文世の腕の中に抱きすくめられているような形になっていた。
「お、お、おおお大家さん。なぜゆえにここにっ?!」
「ふっと夜中に目が覚めて寝付けなくて… こういうのを第六感とでも言うのでしょうかね」
狼狽しまくっているに対してなのか、はたまた真夜中にふらふらと出歩いていた自分に対してなのか。どちらとも取れるような苦笑を浮かべながら文世はそう答える。
その言葉をどう受け取ったのか、の思考回路は更にショートしたようで何も言えずにただまごまごとするだけだった。実のところ彼は明確な理由を答えていないのだが、それに気付く余裕すらないらしい。
「そ、それはありがとうございます。おかげさまで、助かりました」
「いえいえ。しかし先ほどの焔は見事でしたね。今なら少しだけ、さんの気持ちがわかる気がします」
「……へっ?!」
「綺麗でしたよ。まるで貴女のようです」
文世の台詞に、いよいよ持っての回線は焼き切れた。
微妙に言葉が足りないのではとか、口説き文句ですかそれ? だとか、やっぱり炎っていいですよねッ! だとか、この状態は嬉しいけどそろそろ話してくれないと色んな意味で困るなあだとか、様々な気持ちが入り混じり、どうやら処理能力をあっさりと超えてしまったらしい。
林檎もかくやという顔色の彼女に小さく口元を緩めた文世は、そっとの身体を解放すると、一転して眉間に皺を寄せて厳しい表情になった。
「――しかし、攻撃一辺倒ではやはり危険です。きちんと防御も固めてこそ一人前ですよ」
「は、はいっ!」
「結構。多少であれば僕の方も心得がありますから、よろしければ教えてあげましょう」
「是非ともお願いいたしマスッ!」
と、勢いよく宣言して端とは我に返る。裏返った自らの語尾に最初の疑問符を浮かべ、一体何をお願いしたのやらと振り返って――先刻のやり取りをどうにかこうにか脳内再生し終えてざぁっと身体の血の気が引いた。
…お、大家さんとマンツーマンですか、もしや。勢いでなにオッケー出してるんだ自分ッ!!
文世との接点が増えるのは大変に喜ばしいことと思いつつも、先刻の温もりが背中に甦ってはどんな顔で接すれば良いものやらとは頭を抱え込みたい気持ちに陥った。
だが何はどうあれ撤回する気などない自分に気付くと、今度は深く深く穴掘って埋まりたい気分だ。以外に乙女成分を含有していた自分自身が妙に気恥ずかしい。
「…どうなさいました、さん。百面相なんかして」
「いえいえいえっ、ナンデモアリマセンッ!
そ、それよりももう時間も時間ですし帰りましょう。そーしましょうっ」
これ以上文世の顔を見ているとどうにもドツボに陥りそうだ。そう思ったは、くるっと身を翻すとずんずんと歩き出す。
「――さん、そっち長屋とは逆方向ですよ。どちらにお帰りになられるんですか?」
少々呆れたような文世の静止の言葉に、ぴたっとの足が止まる。よくよく考えなくとも判りそうなものなのに、キッチリ彼女の脚は反対方向へと歩き出していたのだ。
「……あ、あれ。あ、あはははは」
そんなやっぱり微妙に回復しきっていない思考回路にもう乾いた笑いを上げるしかない。後ろでは小さな忍び笑いの気配がある。
込み上げるような恥ずかしさが募り、視線を文世に向けなおすことも出来ず、は星の瞬く夜空に遠く持て余した眼差しを送ったのだった。
END
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