078:鬼ごっこ


  彼女の名前は。職業はシスター。主にゴーストの浄化などを担当し、日々地方をまわるしがない下っ端である。
 今日は報告書を届けに、久々に本部のある街へ戻ってきていた。無事提出し終えた後、どこかの店で一息つこうと思っていた矢先――
 ただならぬ気配と自身の第六感の閃き。それに従っては前方へ飛び込むように転がる。直後、先ほどまで自分がいた場所に、何か白くて巨大な丸い物体があるのを確認した。
 どうやらそれは生物――恐らくはカスタムされたヘイズ――なのだろう。ぴくぴくとその身体を震わせている。
 一体何なのだ、と背中に冷たい汗を流しつつも、よくよくそれを観察しようと思ったその時!

 巨体に似合わぬ俊敏さで、その白くて巨大な丸い物体は天高く跳び上がった。

 周囲で遠巻きにしていた野次馬たちが動揺の声を上げている中、は確かに感じた。その生物から発せられる、自分へ向けられたはっきりとしたその意識を。敵意、と呼べるほど冷たいものではなかったが、ひたすらにイヤな予感がの中を駆け巡る。何はともあれ回れ右、全力でその場から撤退を開始する
 だがしかし、後方からは人々の怒号と叫喚を引き連れて、確かに気配が差し迫ってきていた。追いかけられているとは自覚できても、怖くて後ろを振り向けない。
 何故あの生物は自分を追いかけるのか、サッパリ判らなかった。しかし恐らくここでアレに捕まれば、ただですむ筈はないということくらいは想像だに簡単だ。

 ああ、主よ…! 私をどうかお助け下さい!!

 走りながら胸で十字を切り、己の信ずる神へと祈りを捧げる。
 一瞬だけ目を閉じ――走りながらなので危険なのだが――それでも手足だけは懸命に動かした。曲がり角に差し掛かり、スピードを殺さぬままコーナリングをしようとし――

 どんっ!

「うわっ!」
「きゃぁっ!」

 運悪く対向者にぶつかった。双方格好悪くも尻餅をついき、へたり込んでしまう。
 時と場合が合致して、さらに食パンなどを齧っていて「遅刻遅刻〜〜」とかいう台詞とともにこの状況であれば、割とナイスな出会いだったかも知れない。
 そこまで考え、我ながらかなり頭が混乱しているなあ…とはまるで他人事のように心で呟いた。

「だ、大丈夫かい?」
「まあ、何とか。でも今はそれよりも、とにかく逃げなちゃ!! そう、地の果て鼓動の果てまでも!」
「…えーっと。まずは落ち着いてくれ」
「多分一応平静っぽいつもりです! それよりも後ろ――」
「後ろ?」

 不確定なことを不確定なままに言い切って、は首を捻り素早く後方を確認した。
 ビシッと指差したその方向には、やはりあの白くて巨大な丸い物体が、その身体に似合わぬスピードで迫りつつあった。

「不可思議形態な何かが!」
「…まあ、確かに不可思議だな」
「先刻よりあの謎の物体XXXに理不尽にも追い掛け回されておりまして、私としても不徳の致すところで――」
「不徳とかそういう問題じゃないと思うが…」

 むしろ犬に噛まれる感じじゃないかな?などと、存外彼は呑気な口調で呟いた。なんだかどえらい余裕の持ち主である。
 ふむ、と顎に手を当てて一瞬何か考えていたようだが、すぐに彼は口を開いた。

「――君、今ひょっとしてチョコレートを所持していたりするかい?」
「い、一応…」
「多分それが原因だ。渡してもらえる?」

 ふっと微笑むように言われて、思わず一瞬見惚れてしまう

 いやいや、ちょっと待て自分! 今割とピンチなんだし、主に自分の命の!

 そんなセルフツッコミを心中で繰り広げつつ、大急ぎではポケット等を全捜索した。確か非常用食料として、常に携帯していたはずである。
 ややあって、腰の後ろに取り付けていたポーチからいくつかの個装された小粒のチョコレートを彼へ手渡すと、それを迷わず彼は大きくモーションをつけて迫りつつある生物っぽいものに投げた。
 なにを――と台詞をが発するよりも早く、そのチョコレートは二人の目の前から消え失せる。
 地面に落ちるよりも早く、白い巨大な丸い物体がダイビングキャッチで包みごと丸呑みしたのだ。

「わーーーっ!!!」
「大丈夫、もう心配ないよ」

 あまりに非常識な光景に、思わず情けない悲鳴を上げては男にしがみ付いた。そんな彼女の頭を、ポンポンと幼子をあやすように軽く彼が叩く。
 その言葉に、恐る恐る巨大物体を観察してみると、その白いものはガフガフと一心にチョコを貪っているところだった。
 でっぷりとした白い巨体。頭上――と思しき場所にちょこんと乗っかる二つの三角。無駄につぶらな瞳と愛らしいといえなくもない口。下の方にはこの状態でどうしてあんなスピードが出たのか不思議に思うしかない、多分脚と思われる二対のでっぱり。
 よくよく落ち着いてみてみれば、何となく可愛いといえなくもない感じのナマモノがいた。半ば呆気にとられながらも、は男に尋ねる。

「えっと…なんですか、コレ」
「開発部の方が作られたヘイズの試作品…のはずだが」
「…失敗作、ですか?」
「…………十中八九」

 はあ、と溜息交じりに彼はいう。眉間には深く皺が刻み込まれていて、恐らくは普段からとても苦労しているのだろうとは感じた。

「ひょっとして、貴方もアレに追いかけられたことが?」
「……」

 私の問い掛けに彼は答えず、ただマンボウのような遠い目をしているだけだった。
 言葉を発さずとも、何よりもその態度と沈黙が、彼の幾度となく訪れたであろう過去の不幸を物語っている。

「この間捕まえて、くれぐれも厳重管理をと念を押したはずなんだが…」
「逃げ出しちゃったんでしょうかねえ?」
「故意でない事を祈るのみだな。
 ――ところで、今更だが君の名前は?」
「あ、はいっ! 申し遅れました。私、と申します」
「俺はブラッドレー=ヒューズ。よろしく。
 …それで、できればそろそろ離れてもらえるとありがたいんだが」

 困ったような笑みを浮かべて彼、ブラッドレーはいう。
 はその台詞にようやく今自分がどんな状況にあるのかを認識した。存外至近距離に彼の顔やら身体やらがある。むしろ密着していると言ってもよい。

「あああああっ! す、スイマセン失礼しましたゴメンなさいっ!」

 ズザザザザッと、物凄い勢いで後ろ向きにブラッドレーからが離れる。その拍子についつい勢い余って、頭から倒れ込んだりもしてしまった。
 後頭部にジンジンと鈍い痛みが走るが、それよりも何よりも――

 恥ずかしい!! ああっ、シスターたるものがなんと言う破廉恥な行為をッ!!

 などと言った心境で、大いには悶えていた。

「いや…そんな風に盛大に――えっと…頭、痛くないかい?」
「い、痛いのは山々ではありますが、それよりも先に先立つものが…ッ!」

 それを痛みによるものだと思ったのだろう。ブラッドレーが気遣わしげな眼差しでに問い掛けた。しかしその視線は、今のにとっては何よりも耐えがたいほどの羞恥を生み出すものにしかならないのだが。
 俯き、頭を抱えて、自分で自覚できるほど耳が熱いのを今はひたすら耐えるしかない。

「一応治癒術かけておいたほうがいいかな? 知り合いに使い手がいるからよければ――」
「え、い、いえっ! そんな滅相もない!
 私も治癒術は使えますから、どうぞお気遣いなくッ!!」
「あ、ちょっと――」

 差し出された手を見るなり、はまるで転がるかのように身を起こして、素晴らしいスピードで走り去った。
 あまりの早業に、行き場のない手と共にぽかんとするブラッドレー。ハッと我に帰った後、彼女がいたはずの場所に何かキラリと光るものが落ちている事に気付いた。
 それに手を伸ばすと、掌にすっぽり収まるくらいのサイズの十字架が付いたチェーンであった。十字には神への祝詞が刻まれている。何気なく裏返してみれば彼女の名前があった。
 恐らくは魔術の発動媒体用なのであろう。ブラッドレーは魔術に明るくは無いが、微かに魔力の残り香が感じられた。

 …コレはないと困るんじゃないか?

 自分の浄化された戦斧のように、多分彼女にとっての商売道具の一つだろう。
 魔術は聖職者にとってその使用は規律上禁止はされているが、実際闇の者と戦う場合は大いなる力となる。よって事実上黙認されているようなものだ。

「――本部の受付にでも届ければいいか」

 上手くすれば、また逢えるだろうが…

 ふと、それを少なからず願っている自分に気づいて、首をひねる。
 ユニークな出会い方だったせいもあるだろうが、の事が少しばかりブラッドレーの心の片隅に残っていた。

 そんな彼に思わず苦笑して、は手を振ってその場を後にした。
 

END


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