その姿を初めて見た時に。

 唯――綺麗だと思った。



 096:溺れる魚



 シトシトと、細かい霧状の雨が街を濡らしている。
 こんな天気では部活など出切る筈もなく、休日は唐突にやってきた。
 もてあまし気味の時間に半ばウンザリしながら、 音も、風も、何もかもが雨で覆われた境内を、越前は唯ボンヤリと眺めていた。
 不意に、それが目に入ったのは――おそらくは偶然。垣根の向こうに覗く、青い傘。

 こんな雨の中、墓参りだなんて物好きだね――

 そう思い、吐息する。
 霧にぼやけた視界の中、何故かその横顔がくっきりと見えた。
 見覚えのある、けれども見覚えのないカオ――

 …先輩?

 彼女は越前の視線に気付かぬまま、ゆっくりと墓地へと向かっていく。
 確かに、今自分の目の前を通っていったのは、青学男子テニス部マネージャー・三年の本人である。
 女性にしては、珍しい長身。すっと筋の通った顔立ち。襟足をやや長く伸ばしたショートカット。
 そこまでの判断材料を核心に変えられなかったのは、その表情。
 普段の燐としたものが全く感じられない憂いに満ちた――そう、まるで今日の空の様な――カオ。

 それが酷く酷く、心に突き刺さった。
 ザワザワと、ざわめきを立てる心に合わせる様に雨は降り続く。

 五分…十分…三十分。

 彼女は現れない。帰ってこない。
 自分の寺の墓地に行くためには、今眺めている境内沿いの道をいくしかない。
 …ざわめきが、強くなる。



「親父、ちょっと出てくる」
「ん? こんな雨の中か」
「…ちょっと、ね」

 玄関先で、一言二言交わし、越前は手近にあった傘を引っつかんで外へでた。
 らしくなく慌ててたから、うっかり親父の番傘なんて持って来てしまったが、そんなこと今はどうでもよかった。
 ざわめきが止まらない。イライラする。
 そう広くない墓地で、目的の人物はすぐに見つかった。

 彼女――は傘を閉じ、大きな黒い墓石の前に佇んでいる。
 全身を濡らす雨など気にも止めず、ただただはそれを眺めていた。
 勢いがないとはいえ、彼女の体は全身濡れそぼっている。水に濡れた髪はぺたりと顔に張り付き、服も同様に重そうに雪の体にまとわりついている。そんな目の前の彼女が、酷く酷く綺麗に見えた。
 言い知れぬ何かに背を押され、越前はポツリと零す。

「…ねぇ」

 その声に反応し、ゆっくりとがこちらを振り向く。

「…越前」
「何してるのさ、こんな雨の中で」 
「――墓参り、さ」
「ずぶ濡れで?」
「ああ」

 そう答えるの声が、酷く弱々しく聞こえて。
 歩み寄って、彼女の手を取った。
 冷え切ったその手が、何故だか妙にざわめきを掻き立てる。

「うち寄っていきなよ。風呂くらいあるから」
「え、でも…」
「いーから」

 自分でもよく判らなかった。何でこんなにイライラするのか。
 強引な越前の手を振り払うこともなく、は導かれるままについて行った。



「…母親がね、事故にあったのが今ごろの…丁度こんな天気の日だったんだよ」

 湯を借り、すっかり温まったは――着替えは奈々子嬢のものを借りた――日本茶を片手に照れくさそうに言った。

「だから…何となく逢いたくなってねぇ。
 雨に濡れたら、ちっとは頭が冷えるかと思ってたんだけど――」
「…俺が見に来なかったら、ずっとそうしてたでしょ」
「ああ、そうかもねぇ。んで風邪引いて、寝込んでたかもしれない。
 ありがとう、越前」
「……別に。気紛れだし」
「じゃァその気紛れに感謝だ」

 そう言って笑うの顔は、紛れもなくいつものもので。
 ざわついた何かが、少し収まるのを越前は感じた。

「無理、してるんスか?」
「うーん…どうだろうねぇ。自分じゃよく判らないよ」
「――たまには、今日みたいに泣いてもいいんじゃないッスか?」
「…おや。気付いてたのかい?」
「何となく…カマかけただけ」
「あっはっは! あいかわらずだね、ホント」

 大きく笑って、はすぅっと目を細めた。

「…秘密にしといてくれよ」



「さぁて、昨日休んだ分皆キリキリ練習するんだよ!」
『ウィーッスッ!!』

 昨日の天気がまるで嘘のような、今日の天気。
 爽やかな風は、昨日の雨が空気を洗ってくれたからだろう。
 日差しがキラキラと木々の緑を照らし、春の盛りを実感させる。

「手塚、アンタちゃんと休んだかい?
 ただでさえ忙しい身なんだから、休める時にちゃんと休んどくんだよ」
「ああ。、お前もな」
「あたしは…昨日、しっかり休めたよ」
「そうか」

 コートの片隅で交わされる会話にそっと耳を傾けながら、ゆっくりと越前は身体を曲げた。
 そこに、すっと影が落ちる。顔を上げれば、太陽を背負い、が立っていた。

「…乾先輩みたいっスよ」
「逆光は、あいつの専売特許だものねぇ」

 くつくつと笑いながら、は越前の背をゆっくりと押す。
 外部の力に小さく眉を顰めながら、それに沿って上半身を前に伸ばした。

「そうだ、越前。服はいつ返せばいいかい?」
「いつでもいいっすよ。部活が休みのときにでも」
「…そりゃまた気の長い話になりそうだねぇ」
「それもそうッスね。んじゃ放課後にでも」
「ああ。今度持ってくるよ」

 言っては、ぽんと軽く背を叩いた。
 そのまま、次の部員の様子を見に行こうと踵を返した彼女に、呼びかける。

「――先輩」
「…ん、何だい?」
「リョーマって呼んでよ」
「……ほんっと、小生意気だねアンタは!」

 台詞とは裏腹のその表情に、前とは違うざわつきが生じた。

「口止め料としては、安いもんでしょ」
「全く…先が楽しみな一年だよ、リョーマ」

 優しいその響きに、またザワザワとした何かが蠢く。
 じゃぁね、と去り行くの背を見つめ、心の奥深くのその音に耳を済ませた。

 ざわわ…… ざわわ……

 ――まぁ、悪くないんじゃない?

 思い、少し深く帽子を被りなおした。

END


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