昔々あるところに、一人の少女が住んでいました。
 両親を流行病でなくした後は、粗末な部屋で一人寂しく、しかし誰の手も借りることなく細々と暮らしておりました。
 ある日のことです。前の晩は体験したことがない程の酷い嵐が吹き荒れ、村の誰もが未だ戸を固く閉めておりました。
 ――嵐の次の日は、すぐに出歩いてはいけないよ。水底の鬼が嵐を隠れ蓑にやってきた後だから、まだうろついているかもしれないからね。
 そんな事を今は亡き母が言っていたなあと、少々思い出に浸りながら浜辺を歩いていた少女は、そこに奇妙な魚が打ち上げられていることに気づきました。
 最初にソレを発見した彼女は、その異様な姿に目を奪われます。
 上方に出た大きな両眼はぼこりと隆起し、口からは腹に納まるべき臓物がこぼれ出ています。
 鱗らしい鱗はありませんが、その体躯はヌラリとしたものに覆われ、陽光がてらてらと乱反射していました。
 一見するだけで奇妙極まりないソレを前に、不思議と少女の喉がゴクリと鳴ります。
 どうしてだかその奇矯な魚のようなものを口にしたくて堪らないのです。
 ふらふらと何かに取り憑かれたかのように、少女は打ち上げられたソレを大事そうに抱えると、村の誰にも見つからないようにそっと自宅へと戻りました。
 これは私のものだ。誰にも渡さない。
 強く強くその感情に突き動かされるまま、少女は持ち帰ったソレを捌くことも、焼くことも、煮ることも――おおよそ調理などという穏当な手段など考えもつかないかのように、頭からまるごとバクリと無我夢中で貪りました。
 一抱えほどもある大きなものですから、当然簡単に腹に収めることなど出来ません。
 何度も何度もえづき、涙を流し、涎を口の端からだらだらと流しながら、それでも少女は喰らうことを止めることはありませんでした。
 果たしてソレを全て身体の内に収めた後、漠然と少女は悟ります。己の中に何か別の存在が蠢いていることを――
 

 The Haunter of the Dark

 
 人ならざる存在に侵食された少女の末路は、ごく在り来りなものだった。
 ヒトは定命の生き物である。名状しがたい存在をその身に宿して以降、少女の成長は酷く緩やかなものとなった。
 何年も、何十年も姿の変わらぬ隣人を畏れ忌避し、あるいは排除しようとした善良なる村人たちを恨むつもりはない。自分だってそうしただろう。
 だから何年も、何十年も。少女は深く人と接することなく、自身の周囲にひっそりと溶けこむ術を覚えた。怪しまれていることを察すれば、雲のように隠れ、また別の場所へと流れていった。
 時には命を脅かされることもあった。時には心を通わせる人間を得て、ささやかな幸福を得て、大いなる喪失を味わうこともあった。
 それらを繰り返すこと幾年月。100を超えたあたりから正確な年数を数えることはやめた。恐らくヒトの理から外れて1000年弱ほど経ったあたりだろうか。
 永く生き、ヒトの枠を超えれば、超常の技も多少なりとも身につくもので、なぜ自分がこのような境遇に貶されたのか、ぼんやりとではあったが察することが出来るようにもなった。
 今では彼女――はあることに気づいた数少ない存在になっていた。長命すぎるためなのか、あるいは別の要因なのか。漠然とではあったがはこの世界が一定の法則に従い、回帰していることに気づいていた。
 その事実を囁いたのは、ひょっとすればの内側で蠢く名状しがたい存在なのかもしれない。ソレを知った彼女が正気を失うことを想定して告げたとしてもおかしくない。
 異形を喰らい、異形を宿し、異形に堕ちる。縁を結んだものが摩耗し、孤独に惑い、やがて反転する。そんなループを抜け出すことを望み、藻掻いたこともあったが、判ったことは己の力量だけでその位階に辿り着くことは極めて困難であるということだけだった。
 故に、は眼前にて揺蕩う、影のような男に言葉を吐き捨てる。

「何の芸もない小娘に、アレと対峙して逆らう方法があるのかっていうことよ」
「さてどうだろうか。だが、かの存在に呑まれることなく、今も尚自我を保つ君には素直に賞賛を贈ろう」
「心の底から要らないわ、そんなもの」

 はっ、と臓腑に溜まった澱を短い吐息に変えて吐き出す。
 の前にこの影が現れるようになったのはいつ頃からだっただろうか。初めは永く生き過ぎた幻覚か何かかと思うほど希薄だったそれは、年月を重ねるごとにその輪郭を顕にし、今では姿形どころかその声を聞き分け、問答を重ねることが出来るほどになっていた。

「そもそも貴方の台本がなければ、私がこんな面倒な存在を呑み込む事はなかった」
「然り。外宇宙からの飛び入り参加は少々意外ではあったがね」
「あら、それじゃあ――」
「残念ながら、未知ではなかった。彼らの干渉は珍しくない」
「……そう」

 は薄い青色に染まった部屋の中、深々と身を椅子へ預ける。この空間は居場所を追われることに疲れた彼女が生み出した幽屋だ。現し世と地獄との間、曖昧な世界の隙間に浮かぶ、彼女だけの領域である。
 疲れたように眉間に皺を寄せるに、影の男はくつくつと笑いながら言葉を続けた。

「君は観客だ。私の舞台の演者ではあるまい。故に君に対して未知を求めはせんよ」
「そりゃ有難いこと」
「故に問おう。何故君は私に語りかけてくる。観客が舞台に上がり込んでくるのはマナー違反ではないかな?」
「貴方にマナーだのなんだの言われると鳥肌モンだわ。
 勝手に巻き込んで、半ば強制的に趣味でもない舞台見せられ続けてるこっちの身にもなってみなさいよ。恐怖劇は好みじゃないの」

 反吐が出るわ、と心底辟易とした感情を隠すわけでもなく、は頭を振りながら答えた。永く生きていればその分多くの出来事に遭遇する。当然ながら良い物ばかりではなく、酷く悪辣なものに出会うことも多々あった。
 今こうして不本意ながら言葉を交している存在は、その中でも指折り――否、最も性質が悪いと言っても過言ではないだろう。
 故に、にとっては彼――メルクリウスとは極力関わり合いになりたくない存在でしかない。それこそ観客ですらなく、劇場の外で違う演目を心待ちにしたい。
 だが、そんな細やかな希望など意に介さない男の目に留まってしまったらしく、こうして折にふれて干渉を受けている始末なのだ。本人曰く、舞台を用意しても観客がいないのはつまらないということらしいのだが、そんなものに巻き込むなと反論したところで受け流されるのがオチであることは、数百年ほど前に図らずも理解してしまった。

「ではどのようなものがお好みか。観客のリクエストには応えねばなるまい」
「そうね……即興劇は好きよ。決められた脚本もなく、観客すらも巻き込む怒涛の舞台がいいわ」
「……これはまた、難しいことを言う」
「出来ないの?」
「まさか」

 挑発するようにけしかけてみれば、案の定男は即座に否定を口にする。
 既知感の払拭を願っているくせに、やっていることは酷く婉曲な吟遊詩人の戯言。リフレインする既知感に苛まれる苦痛は同情する余地があるかも知れないが、しかしそれとて手前勝手な願望が原因であると判れば、何を自縄自縛しているものやらと呆れてしまうのは避けられない。

「だったらとっとと幕を開けてちょうだい。
 大体……既知感の排除だなんて、監督・脚本・演出が貴方である限り訪れようもないでしょ」
「ははは、正論だ」
「貴方も袖じゃなくて、舞台中央でライトに当たればいいのよ。たまには巻き込まれる側の立場も味わえばいいんだわ」
「――よかろう。では未知なる終幕を求めて今宵の舞台を始めよう」

 まるで羽ばたくかのように大仰に両の手を広げ、影の男は破滅の言霊にも似た宣誓を謳う。その禍々しい気配に思わずは瞼をわずかに伏せた。

「そして――新たなる演目の証として、君にはこれを贈ろう」
「…なに、これ」

 瞬き程の刹那目を話した隙に、どこから取り出したものやら男の手には何やら鈍く輝く何かが握られている。メルクリウスは薄笑いを浮かべたまま、それをへと差し出した。
 提示されたそれを受け取り、まじまじと観察する。それは銀色の鍵であった。奇妙なアラベスク模様に表面が覆われた、長さ10センチ強程の大きなものである。

「銀の鍵、とでも言えばいいかね」
「見たまんまじゃない……って言いたいけど」

 は言葉の続きを息とともに飲み込む。片手で掴めるほどの大きさであるにもかかわらず、その内側には恐ろしいほどの魔力が蠢いているのがわかる。これが魔具であることは明白だ。しかし奇妙なことに、その鍵から漏れる魔力の波動が妙に馴染みのある――有り体に言えば、の内側で蠢くそれに酷似しているように感じられることだった。

「その銀の鍵があれば、異なる時空――例えば並行する世界へ訪れることが出来るだろう。こことは違うどこか、ありえたかもしれない世界。その鍵に願い、黄昏に誘われればあるいは未知への可能性に出会えるだろう」

 その説明に、思わずの目が見開かれる。
 世界を渡れるとするならば、という仮定に対して女が真っ先に考えたのは時間の逆行だった。しかし本当に時間を遡れるとして――が異形を呑む前に先回りして、それを回避できたとしても今の自分はどうなるのだろう。
 存在のパラドクスが起きた時、果たして何が起きるか。それはこの眼の前の男においても未知であるのではないだろうか。メルクリウスがこの鍵をへ贈与したのは、ソレが新なる未知の為なのではないか。
 一度生まれた疑念は簡単には払拭できない。震えそうになる声を抑えながら、精一杯の虚勢を張る。

「そんな便利な代物、揺り戻しが怖いんだけど」
「無論、リスクはある。使うごとに、君の内側に巣食うモノが目覚めるやもしれないな」

 メルクリウスの言葉に虚は感じられない。もとより真実を語るわけではないが、嘘だけは言わない男だ。それを裏付けるかのようにが手にした途端、まるで脈打つように鍵が、そして身体の裏側がざわめいている。似た魔力を察して共鳴でもしているのだろうか。そんなの揺れを、影のような男は興味深そうに観察しているのだ。まったくもって忌々しい事この上ない。
 大きく息を吸い込んで、細く長く吐く。踊り出しそうな自身の中身を押さえつけながら言葉を続けた。

「――でしょうね。こんなもの私使う気ないわよ。
 見つけたのが貴方なら、貴方が使えばいいのに。未知が識りたいんでしょう?」
「残念ではあるが、私にはその鍵を使う能力がないのだよ。
 なにせそれは理外からの漂着物だ。理外のモノは理外の存在にしか使いこなせない。故にソレは君のもの。その中身は君と同じものだろう?」

 そう言って闇が嘲笑う。あらゆる可能性を追い求めた結果、自身では使えぬ代物を掴まされたのか、あるいはこうして他者に与えるために得たのか。彼が銀の鍵を手に入れた経緯まではわからない。
 少なくとも確かなことは、鍵を手にしたの逡巡を、酷く楽しげに眺めていることだけである。

「君は空虚な存在。終わりであり、始まりであり、満ちており、空である。あらゆる矛盾を内包する。故に、何も成さず何をも成し得る。君と対峙した者は、例外なく自身の内にある宿業を意識し、選択せねばならなくなる。そう、私ですら例外ではない」
「……相変わらず周りくどいわね。結論を言ってよ」
「君の望み通り、その即興劇に私も加わろう。その代償にこの鍵と魔名を贈ろう。
 私が舞台に上がる報酬としては安かろう。なあ、――いや、無貌の者(ウィアド)

 抗い難い引力を放ちながら、魔術師が呪いを謳う。魔名の祝福はがこれまで避けつづけてきたものだったが、ここに来てついにその網にかかることとなる。名前とは存在の肯定をし、意味を与え、その道筋を指し示すものだ。
 ウィアドとはルーン文字のなかでも普段は使用されず、占いなどの時にのみ用いられる空白のルーンである。宿命や運命を表すとされ、人生の節目や転換期を表れるものとされている。突然の予期せぬ事態を暗示するものとしてはハガルも挙げられるが、それと異なる点は悲劇や災害を暗喩するものではなく、ただ自分自身を振り返ることを指し示すものだ。
 メルクリウスの演出する舞台において、本来演者として配されるはずのなかった者。即興劇に巻き込まれた観客。舞台のルールから外れているが故にその言動は酷く奇異に映るだろう。人の振り見て我が振り直せとはよく言ったもので、を評して愚者たるものと意味づける魔術師は本当に底意地が悪い。
 ぐっと唇を噛み締めて自身に下された魔名を呑み込むへ、蛇は更に寿ぎを重ねる。

「あらゆる世界で、あらゆる時間で。刹那の邂逅を得て我らと接し、存分に膨れ給え。
 世界の枠を超えた君の存在が、即興劇にて我らへ未知を与えてくれることを切に願っているよ。=ウィアド。いや……ここは敢えてと呼んだほうが良いかね?」
「――その名で私を呼ばないで」

 と呼ばれた瞬間、の全身が総毛立つ。遮る声は悲鳴のように反射的に漏れた。
 遠い過去に埋もれたはずの元名。その名を知るものは自分以外にもういないと思っていたのに、かの魔術師は事も無げに口にした。知らぬものはない、と嗤う蛇の悪辣さに眩暈がする。

「名前だろうと家名だろうと魔名だろうと、好きにすればいいわ。
 でも、それだけは駄目。貴方にだけは呼ばれたくない」
「おやおや、随分と嫌われたものだ」

 わざとらしく肩をすくめる男の頬をひっぱたいてやりたいと強く思うが、は強く拳を握りしめてその衝動を押し殺す。
 その代わりに顔面の表情筋を全力で動員して、手本のような微笑みを浮かべた。

「ええ、そうよ。私、貴方のこと嫌いだもの」
「それは残念だ。私は好ましく思っているのだがね」

 表情とは真逆の言葉を真っ向から受けても、メルクリウスは何一つ堪えることなくそれを受け流す。もとより嫌われ慣れているのだろう。の強い嫌悪を受けてもどこ吹く風である。
 男の様子に脱力しつつも、これ以上の論戦に意味は無いとばかりに身を翻し男から離れようとするの背に、メルクリウスは囁くように言葉を注いだ。

「君の道程に祝福が有らんことを。期待しているよ、強壮なる使者殿」

 その呟きに対して返ってくるものはない。水銀の王もあると思っていないだろう。
 しかし男のその言葉に反応するように、の足元にある影がごく僅かではあったが揺らめく。照明の瞬きか、あるいは――名状しがたい存在であったのか。その答えは誰も持ち合わせていなかった。 

END


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