031:自動販売機
 
 
 
 千葉と箱根は存外に遠い。しみじみとそう思う時がある。乗り換えがうまく行かずに30分近く待ちぼうけを食らった時だったり、あるいは事故の影響などで車内に缶詰にされたりされれた時だったり、無駄に時間を浪費させられる感覚がじんわりとした焦りに似た感情を生むのだろう。
 だが、実家のある箱根ではなく千葉の高校に進学することを選んだのは自分自身なので、まあ愚痴を言う訳にもいくまい。幸いにして今日はタイムロスなく千葉から戻ってこれたのだから、小さな幸運を噛み締める。
 座りっぱなしで固まってしまった筋肉を解すように、はうーんと大きく伸びをする。最寄りとなる箱根湯本駅から実家まではバス移動だ。携帯からバスの時刻表を確認すると、次のバスまでには多少の余裕があった。
 別にそのまま単語帳なり参考書なりを読みながら時間を潰しても良かったのだが、どうにもそんな気分ではなかった。何しろ真夏の太陽がこれでもかとばかりに降り注いでいる。箱根は標高が平地に比べて高いのでまだマシな方だが、電車を降りた時から感じていた熱と湿気がエアコンの快適さに慣れた身には辛い。
 その辺のファストフード店などへ入ろうか、と一瞬考えてやめた。懐が無駄に寂しくなる。世知辛い財布事情と脳内で相談して、結局心の赴くままブラブラと駅前の大通りを適当にぶらつくことにした。
 都会のような華やかさはないが馴染み深い地元の目抜き通りは、夏休み中ということもあってか学生らしき若者とすれ違うことも多い。ただ散歩するだけだと熱くなる一方なので冷やかしに服でも見ようか、あるいは本屋にでも――とウィンドウショッピングの算段を考えながら歩いていると、ふと近くの自動販売機が目に入り、思わず足を止める。
 夏向けのラインナップには炭酸飲料を始めとして清涼感を押した商品がズラリと揃っていた。ただ、個人としては炭酸の刺激が喉に痛いと感じることもあり、積極的に飲むことは殆ど無い。
 自動販売機の陳列をぼんやりと見ながら、ふとある一つの銘柄に目が止まる。このメーカーは時々とんでもないフレーバーを出すことでも有名だ。ウケ狙いで差し入れにそれを持って行ったら、ごく一部を除いて大不評だったことが思い出される。ある一人なぞは『ベプシはフツーのベプシが一番ウメェんだヨ!』と珍しくも力強く語っていた。
 そんなことを思い出しながら再び散歩を再開しようと数歩足を進めた所で、視界の端に見覚えのある物体がチラリとよぎる。思わずそちらを見返せば、一台のロードバイクが無造作にベンチの背に立てかけられていた。フレームに刻まれたメーカー名はビアンキ。社名もそうだが特徴的なチェレステのカラーリングにも見覚えがある。その主はと無意識に視線を彷徨わせれば、すぐにその姿は見つかった。ビアンキを立てかけてあるベンチに座り、何やら思索に耽っているのか珍しくも俯いている。
 強すぎる日差しに子供らも辟易しているのか、その公園に佇むのは男ただ一人だ。どこで鳴いているのやら蝉の声がやけに耳につく。悪態を吐きながらでも真っ直ぐに前を向いている印象のある彼だが、今遠巻きに見るその背中が酷く小さい。その姿には言いようのない不安を覚えた。
 一体何を考えているのだろうか――
 悩みは数瞬、行動は一瞬だった。踵を返し、先ほどの自販機まで戻る。鞄から財布を出して硬貨を3枚投下した。目当ての商品ボタンを押す前に一度だけ躊躇い、すぐに2度押下する。
 ゴトン、と2度音が響き、2本のペットボトルが受け取り口に転がりだした。思わぬ音にひやりとするだったが、合唱する蝉の声に遮られてか件の彼が気づいた節はない。
 ホッと安堵の息をこぼし、冷えたペットボトルを取り出した。それを手に、足音と気配を殺しながらはゆっくりと歩を進める。
 ザリ、とスニーカーの底が砂を食む音がするが、出来うる限りそろりそろりと動いた。何しろ目標は勘が鋭い。背後を取るからには万全の注意を払わねばなるまい。息すらも詰めて慎重にはすこしずつ距離を詰める。
 近づくに連れ、男の表情もはっきりと見えてくる。彼はじっとその視線を地に落とし、眉根を寄せ、常より鋭い眼差しを更に険しくしていた。深い思考の海に落ちているのが手に取るように判る。そうでなければ、例えが気を払っていた所で気づかれないはずがない。
 あと少しで手が届きそうなところまで近付いても、男がに気付くような様子はなかった。ライディングをするように低い姿勢で、肘を己の膝に乗せて俯いている。流石にここまで気づかれないのは予想外だった。
 さてどう声をかけたものか、と思いをめぐらす。目の前には思考に耽溺する男。深くうつむいた拍子で襟足から項が露出していた。存外日に焼けていないその白さに、ふつりとの悪戯心が湧いてくる。
 少女の心に悪魔が囁き、その誘惑に抵抗することなくは手にしていたペットボトルのボディをぴたりと男の項へ当てる。

「――うォっ?!」

 なるほど、効果は覿面であった。首筋への刺激に短い悲鳴を上げ、ようやくの存在に気がついたとばかりに男が振り返る。
 その慌てっぷりが可笑しくって、隠しきれない笑みを目元に残したままは改めて声をかける。

「荒北さん、こんにちは」
「――、オメェ」
「お隣いいですか?」

 間髪入れずに問えば、男――荒北靖友はハァ?とばかりに片方の眉を跳ね上げた。勝手にそれを了承の証と受け取って、空いている方のベンチの端に素早く腰を落とす。互いの肩が触れ合うほどの近さではなく、手を伸ばせば引き寄せられる程度の僅かな距離が残っていた。
 チッ、と舌打ちをする音が聞こえたが聞こえなかったことにする。それくらいの態度は、なんだかんだと1年近く続いた付き合いの中で彼の癖のようなものだと理解できるようになっていた。
 慌てず騒がず、予め用意していたセリフをは口に乗せる。

「あ、ベプシいかがですか」
「ンだよ、いきなり」
「そこの自販機が当たり付きで、買ったらもう一本出てきたんです。一人じゃ飲みきれないし、驚かせたお詫びだと思って下さい」

 にこり、と駄目押しとばかりに笑う。最近判ったのだが、荒北という男は意外と押しに――より正確には善意に弱い。悪意に対してはどれだけ押し切ろうとそれ以上の強さで跳ね返すことに躊躇いはないようだが、どうやら好意の類についてはどう処理していいものか迷いがあるらしく、結果的に首を縦に振る事のほうが多い。

「……まァ、もらってやるヨ」
「はい、どうぞ」

 の読みは当たり、荒北は差し出されたペットボトルを受け取る。その表情は戸惑いの滲む苦笑じみたものではあったが、先程までの深刻なそれより何倍もいい。
 荒北は受け取ったペットボトルのキャップを苦もなく開けると、そのまま一気にラッパ飲みする。ゴクゴクと、まさに喉を鳴らして豪快に飲み干されていくベプシ。ベコン、と凹んだボディに空気が戻る音と、男が大きく息を吐く音とが交差した。
 思わずその飲みっぷりをはぽかんと見つめてしまう。よくもまあ炭酸飲料を一気飲みできるものだ。自分はとてもではないが出来ない。途中で絶対に咳き込む自信がある。現に今も蓋を開けたはいいが、ちびりちびりと舐めるように口をつけるのが関の山だ。
 あっという間にベプシを飲み干した荒北は、ふと天を仰ぐようにして視線を上にやる。開封した手の炭酸の勢いに手を焼いていたも、つられるように視線を空へ向けた。
 太陽はまだまだ高く、盆も過ぎたはずだがその勢いが萎む気配もない。そんな気合たっぷりの空から降り注ぐ熱がアスファルトを焦がし、ゆらゆらとした陽炎が立ち上る。僅かにそよぐ風はもはや熱をかき回すだけの代物だ。短い生を謳歌するような蝉の声が響き渡り、盛夏をより色濃く演出する。
 二人を取り巻く自然環境は、まだまだ夏は続くのだと主張するかのようだった。改めてそれを自覚し、じわりと額に浮いた汗が頬を伝う。
 再び刺激の強い炭酸飲料に口をつけるべく、空から目線を戻すと、不意に荒北が言葉を漏らした。

「あっついなァ……」
「暑いですねー」
「もうちっと風でもありゃマシになんのかネ」
「でもこの空気じゃ熱風になりそうですよ」
「だよなァ。あー……ペダル回してェ」

 うわ言じみたその台詞に思わずの笑みが溢れる。本当に自転車が好きなのだなあ、と呆れ半分安心半分に思いながら、ベンチ裏に控える彼の愛車を指さす。

「じゃあ回しちゃいます?」

 すると、何故か荒北は驚いたように目を瞬かせる。何故彼がそのような表情をするのか、には理解できなかったが、それを問うよりも早く再び男が口を開いた。

「……オメーはどうすんだヨ」
「見てます。あ、本気で回すんだったら、荷物とか預かっておきますよ?」

 邪魔になりますよね? と、半ば冗談交じりに両手を差し出せば、荒北の表情は戸惑いと驚愕ともう一つ何か、には判別できない感情を混ぜ合わせた複雑なそれに変化する。
 たっぷりと十数秒のタイムラグをはさみ、荒北は再び俯くとゆっくりと首を振って大きく息を吐いた。

「……やめとくわ。荷物オメーに任せるのも癪だしな」

 言葉こそ乱暴だが、その表情ははにかみすら感じられる。先ほどまで彼が背負っていた影はいつの間にかその気配を消していた。そのことに何故かは安堵し、ほっと息を零して差し出していた手を自分の膝の上に戻す。

「――ナニ笑ってんだ、
「え、笑ってます?」
「おう」

 短く肯定される。自身としては全く自覚がなかったのだが、気の緩みが表情に現れてしまったのかもしれない。
 笑ってしまった理由は、間違いなく荒北の暗い表情がなくなったためだとは思うのだが、それを真っ正直に言うのも気が引ける。グルグルと言い訳を脳内で駆け巡らせた後、出てきた台詞はどうしようもなくぐだぐだだった。

「あー……――暑いからですかねえ」
「なんだそりゃ。……なら、アイスでも食うか」
「賛成です! 近くにコンビニってありましたっけ?」
「テキトーに歩いてりゃどっかにあんだろ」

 言って男が先に立ち上がる。何時ぞやにへ救いの手を伸ばしてくれた時と同じく、まっすぐに背筋を伸ばすその姿に、こうでなくてはと心の中でひとりごちる。
 誰だって、いつでも真っ直ぐに真っ当に突き進めるわけではないとは知っている。人は容易く道を踏み外し、崩れてしまうのだ。
 それでも、荒北には前だけを見ていてもらいたい。彼が何を思い悩んでいるのか、にはまだわからない。だが、何でもない世間話をする事で、少しでも気を紛らわせてくれたのならそれだけでも十分だ。
 酷く傲慢な己の考えに蓋をし、ピンと張られた男の背を見つめる。すると、その視線に気がついたのかくるりと男が振り返った。パチリと視線が交錯する。
 荒北は瞼が半分下げ、何かを考えているようだった。もとより細い目がいっそう細められたのは僅かの間だったが、一瞬のタイムラグをおいて右手を少女に向けて差し出した。

「――ほれ、行くぞ」

 予想外の行動に驚いたようには大きく目を見開いた。日に照らされた赤みではない熱が頬にこみ上げてくる。
 少女は差し出されたそれに少しだけ躊躇いながらも、小さく頷いたく。

「ベプシの礼にアイスは奢ってやんよ」
「え、いいですよ。だってそれ――」
「借りは好きじゃねェんだヨ。いーから奢られとけ」

 借りとは何のことだろうか、ときょとんとしていると、荒北はニヤリと口の端を歪めてある自動販売機を指さした。
 彼が指さしたそれは確かに先ほどがベプシ2本を買い求めたそれであり、その機体はどこにでもあるタイプの――当たり付きの機体というのは割とレアであり、あったとしても大抵がノンメーカーメインの機体であるので、少し冷静になって考えればバレバレの嘘である――自販機であった。
 自分のブラフが見破られた事実に、再びの頬がカッと朱く染まる。もう少しマシな口実にしておけばよかったと思うも後の祭りだ。

「……じゃ、じゃあハーゲンダッツにしてください」

 混乱しすぎて無茶な要求を口にするに、荒北のデコピンが容赦なく炸裂した。べちっ、と音を立てて打ち込まれたそれには思わず悶絶する。
 痛みを堪えるように打ち込まれた額を摩りながら、上目遣いで抗議の眼差しを送る。しかし男はどこ吹く風とばかりに、不敵な笑みをのぞかせた。

「バァカ、調子に乗んな」

 そう言って衒いなく笑う荒北の表情と夏の太陽がまぶしすぎて、思わずもへらりと表情を崩す。
 バスはもう一本遅らせよう。だって今日は乗り継ぎもうまく言ったんだから、アイス食べるくらいの寄り道する時間の余裕はあるし。
 そんな言い訳を誰に向けてではなく、自分の心の中で唱えた。

END


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