068:蝉の死骸
今年の夏は酷く短かった。
炎天下の空の下、荒北はぼんやりとそんなどうしようもない事に思いを馳せる。もうどれくらいこうして座り込んでいるのか、それを思い出すのに少々手間取る程度には思考が正常に動いていない。参考書を詰めた鞄が酷く重く思えて、休息を求めふらりとこの公園に立ち寄ったのは30分ほど前だっただろうか。
太陽は尚も隆盛を誇り、温められた大気が湿気と合わさって酷く息苦しい。暦の上では盛夏を過ぎたが、まだまだこれからだとばかりの蝉の合唱は未だ鳴り止む気配はない。
今日のスケジュールの大半は、某予備校主催の全国模試であった。荒北は高校生、それも3学年だ。ひたりひたりと音もなく、受験生という現実が背後から忍び寄ってくる。あと半年も立たぬ内に一大イベントであるセンター試験が待ち構えているのだ。
思えばここ2年以上、ひたすらペダルを回すことに全力を傾けていた。その代償と言わんばかりに学業の方は正直なところあまり芳しくない。それでも部内においてはまだマシな部類なのだ。
しかしそれはあくまで箱根学園自転車競技部という狭い範囲で物を見た場合の評価だ。学校、あるいは地区、さらに言えば最終的は部活動と同じく全国単位での競争となる。
スポーツ推薦、ということも望めば今の荒北ならおそらく可能だろう。現に部内にはそれを利用して大学進学を内定させているものもいる。スポーツに特化した箱根学園では珍しいことではない。むしろ、わざわざ外部の模試を受ける荒北のほうが稀なのだ。
当然、周囲からもスポーツ推薦を推す声は上がった。だがそれを是としなかったのは荒北自身だ。ロードバイクにこれからも専念するのであれば、推薦を受ける方が正しかろう。だが、それだけでは先が見えない。友人のように一家揃って、という環境でもないのだ。
だからこそ、選択肢は多いに越したことはない。そして判断材料も。今日わざわざ模試を受けたのもその一環だ。何しろ、荒北靖友にとっての夏はすでに終わりを告げたのだから。
地元箱根で開催された今年のインターハイ。圧倒的下馬評を覆し、総合優勝を飾ったのは千葉の総北高校だった。箱根学園の敗北という苦い形で、ロードバイクに捧げた夏は終わったのだ。
6名で構成されたメンバーの内、最初に脱落したのは他ならぬ荒北自身だった。全力を出した。それは確かだ。ただ届かなかっただけだ。
その結果となった要因は様々あるだろう。騙し騙されの駆け引きも立派な勝負の一つだ。自分自身、計略に長けているとは言いがたいが、多少の策であれば力でねじ伏せる自負はあった。それだけの修練を積んできた。
それでも。それでもなお――あの時こうしていれば――そんな呪いの言葉が胸の奥で渦巻く。机に向かう、食事を摂る、風呂に入る、眠りに就く――そんな日常のふとした隙間にそれはしつこく囁きかけてくるのだ。
出てくるな。どうか消えてくれ。今さら何を悔やもうとリザルトが変わるわけじゃないのは十二分に知っている。
もう――終わったのだ。少なくとも、インターハイと言う名の夏は終焉を迎えたのだ。
ふと、足元に目線を落とせば、命尽きた蝉の死骸が視界に入る。それがまるで自分のように感じられた。地表に出てからの短い生命を燃やし尽くした存在は、嬲るような温い風にその身を晒し、風化する運命に抗うこともない。
荒北は頭を掻き毟りたくなる衝動を必死でこらえる。まるで耳元で鳴いているかのような蝉の鳴き声が酷く癇に障った。まだ夏は終わらないと夢を見させようとする。
灼熱の太陽に熱された空気が、まるで重りのように全身にまとわりつく。体の表面を流れる粘ついた汗が酷く不愉快だ。肺に酸素を送り込もうにも、熱された空気が喉や臓腑を焼く錯覚に陥る。体内で燻る熱にも焼かれ、内外から炙られてぶすぶすと煙を出しそうだ。
そんな堂々巡りの考えに没頭していたためだろうか。普段であればもっと早く気付けたであろうそれに、不覚にも接触されるまで荒北は存在を感知することすら出来なかった。
唐突に首筋にひやりとした何かが当てられる。ぞわりと毛穴がそばだち、思わず声が漏れた。
「――うォっ?!」
何事かと反射的に半歩身を引き、身体をよじって刺激を加えられた方向を睨みつければ、悪戯が成功して得意顔の見知った少女が佇んでいた。
よほど自分の慌て方が可笑しかったのか、目元に隠しきれない笑みを残している。ギロリ、と更に斜にした目付きでねめつけるが、少女――にはまるで効果はない。
「荒北さん、こんにちは」
「――、オメェ」
「お隣いいですか?」
彼女の問いかけに、荒北は彼女の意図を探るように片眉を上げる。するとそれが了承の合図だったとばかりに、ベンチの端と端、もう一人余裕を持って座れる程度の間を空けた距離を保ち、ストンと荒北の座っていたベンチに腰掛けた。
の意向がまるで読めず、思わず荒北は舌を打つ。ひょんな出会いから1年ほどが経つのだが、彼女の行動には時折突拍子の無さが含まれており、それを読み切ることは未だに難しい。
今回も案の定、何を考えているのかさっぱりとわからない脳天気さで、は言葉を続ける。
「あ、ベプシいかがですか」
「ンだよ、いきなり」
「そこの自販機が当たり付きで、買ったらもう一本出てきたんです。一人じゃ飲みきれないし、驚かせたお詫びだと思って下さい」
の表情に他意は感じられない。自慢ではないが、自分に向けられる悪意に対して敏感な方だ。ただしその逆――所謂好意についてはどうにも苦手だった。どう対処していいか距離を掴みかねる。単純な敵意であれば返り討ちにできるが、のように真正面から向けられる善意はむしろ居心地の悪さすら覚えることがある。
「……まァ、もらってやるヨ」
「はい、どうぞ」
座りの悪さを誤魔化すように、苦い笑みを浮かべながら彼女から差し出されたペットボトルを受け取る。偶然だろうか、ボトルにプリントされたロゴは荒北が好むメーカーのものだ。よく冷やされたそれに、思わず喉が鳴る。
ペットボトルを受け取り、キャップを開けて口をつけた。荒北自身でも気付いていなかったのだが、どうやら喉が乾いていたらしい。ようやく補給された水分と糖分を求めるように一気に飲み干した。喉を炭酸が降りていく感覚は、その液体の冷たさも相まってすぅっと汗が引くような刺激と清涼感を感じる。
あっという間に飲み尽くし、空になった容器に失われた液体分の気体が戻ってベコンと音が鳴った。ちらりと眼球だけを動かして横を見れば、荒北の飲みっぷりの良さに関心でもしているのか、がまじまじと男の横顔を見つめていた。少女の憧憬じみたそれに再び居心地の悪さを覚えた荒北は、反射的に顔を跳ね上げ、視線を空へと投げた。
どうにもの真っ直ぐな視線が眩しすぎる。先程まで自身を焦がしていた陽光よりも、今は少女の眼差しのほうが熱くすら感じ、思わず胸の奥に固まった息を吐き出した。
「あっついなァ……」
「暑いですねー」
「もうちっと風でもありゃマシになんのかネ」
「でもこの空気じゃ熱風になりそうですよ」
「だよなァ。あー……ペダル回してェ」
ぽろり、と。胸の奥に閉まっていたはずの本音がこぼれ落ちた。一度口に出してしまえば取り返しがつかなくなる気がして、意図的に考えなくしていたことだ。
くだらない世間話に釣られたのか、あるいは彼女と話したことで気でも抜けたのか。熱に浮かされたような茫洋さで、己の願望が思わず口から飛び出してしまった。
そうだ。思い切りペダルを回したい。柵や後悔、そういった面倒くさい感情をまるごとチギってしゃにむに駆けまわりたいのだ。
「じゃあ回しちゃいます?」
荒北の葛藤を他所に、はベンチ裏に立てかけてある愛車を指さしながら言い切った。
あまりにストレートなそれに、思わず荒北は鼻白む。まるで心の奥底にある願いを見透かされたような気さえしたのだ。
だが、にそんな深い意図はあるまい。回したければ回せばいいじゃないか、と単純に勧めてきただけだろう。それ故に、彼女の言葉はするりと荒北の胸に響いた。
「……オメーはどうすんだヨ」
「見てます。あ、本気で回すんだったら、荷物とか預かっておきますよ?」
どこまでも朗らかに少女は両手を広げ――それはまるで抱擁するかのように――微笑む。
あまりに甘美な誘惑を前にして、ついついの腕の中に吸い込まれそうな自身がいる。他意はないのだ、と眦に力を入れてその衝動を押さえ込んだ。
先ほどとは違う意味で俯き、臓腑に蓄積された澱みを吐き出し頭を振る。無自覚というのはとにかく恐ろしい。だがその事を面と向かって口にすることは憚られるので、悪態をついて誤魔化す。
「……やめとくわ。荷物オメーに任せるのも癪だしな」
荒北の傍らには、赤本を筆頭とした参考書が入った鞄が鎮座している。先ほどまではその重さがこれから先の重圧じみたものに感じられ、酷く陰鬱であったのだが、いまやそんな圧迫感は消えていた。が眼の曇りと共に拭い去ってくれた。
確かに夏は終わった。だが季節は巡る。同じ夏は二度と来ないが、新しい夏は必ずやってくる。ペダルだってその気になればいつでも、どこででも回せる。そんな単純なことすら忘れていた。
目に見えぬ鎖に繋がれていたのではなく、身動きができないよう自縄自縛していただけ――そう悟ると、思い悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。
荒北の自嘲じみたそれにつられでもしたのか、もより一層深い笑みを口元にたたえている。決して誂うような性質のものではないのだが、それだけに妙に気恥ずかしくて思わず言葉を挟んだ。
「――ナニ笑ってんだ、」
「え、笑ってます?」
「おう」
どうやら自分の表情すらも無意識だったらしく、荒北の指摘に少女は急にワタワタと挙動不審になる。はしばらく謎のパントマイムをした後、視線を彼方にすっ飛ばして素っ頓狂な答えが返ってきた。
「あー……――暑いからですかねえ」
「なんだそりゃ。……なら、アイスでも食うか」
「賛成です! 近くにコンビニってありましたっけ?」
「テキトーに歩いてりゃどっかにあんだろ」
言って荒北はベンチから立ち上がる。凝り固まった背筋を伸ばすように意識すれば、妙に視界が開けている気がした。己がどれほど俯いていたのか改めて自覚する。
どれだけ折れても曲がっても、新たに始める気概さえあれば持ち直すことが出来る。過去は変えられないが未来はまだ不定形だ。だからこそ前を向く必要があるのだろう。
そう思索に耽っていると、背後からチリチリとした気配を感じる。振り返れば案の定がじっと荒北の背を見つめていた。他者の行動をまじまじと観察するのが彼女の癖らしい。背中越しに感じる視線にはこの1年ほどの付き合いでだいぶ慣れたが、こうして振り返り際に視線が完全に交わってしまうのにはまだむず痒さを覚える。
せめてとばかりに目を細めても、完全に彼女から視線を外すことができない。自分の女々しさに自嘲しながらも、荒北は意を決して己の手を伸ばした。
「――ほれ、行くぞ」
己の行動が意外だったのか、ここで初めては驚きに目を見開いた。ようやく仕返しが出来たようで、荒北も少しばかり気分がいい。
少女を立ち上がらせながら、ふとが手にしたペットボトルに目が行った。数秒で飲み干した自分のそれとは違い、のベプシは殆ど中身が減っていなかった。
そういえば少女は蓋を開けてもその中身にほぼ口をつけていなかったように思う。せいぜいが口の中を湿らす程度の量を、しかも含む度に微かに眉間に皺を寄せていた。
の飲み方からして、おそらく炭酸は苦手なのだろう。ちょうど妹がそういう飲み方をしていたことを思い出す。炭酸をグラスに注ぐまではいいが、それをかき混ぜて超微炭酸にする程度には炭酸が苦手な妹は、封を開けたばかりの炭酸を一気に飲むことが出来ず舐めるようにちびちびと飲むのだ。そんな飲み方じゃ爽快感は得られない、と大人げない兄妹ケンカをしたこともあるので覚えている。
となると、何故苦手なものをわざわざ買ったのか、ということが荒北の脳裏に当然の疑問として浮かび上がる。
ちらり、とに悟られないように彼女がやってきた方向に鎮座する自動販売機に目をやった。遠目ではあるが特徴的なメーカーロゴやごく一般的なボタン構成が見える。なるほど確かにそこにはベプシはあるようだが、その機体には当たり付きなどの気の利いた機能はついていないようだ。
……ツメが甘ェ。
そう思いながらも、どこか心の奥にぽっと暖かなものが灯る。
そんなきっかけを作ってまで自分に声をかけてきたことが判ると、尻のあたりがどうにもむず痒くなる。気を使われている、というわけではないのは何となく理解出来るのだが、どうにもストレートな好意というものには何時まで経っても慣れないものだ。
「ベプシの礼にアイスは奢ってやんよ」
「え、いいですよ。だってそれ――」
「借りは好きじゃねェんだヨ。いーから奢られとけ」
カマをかけるように、荒北はニヤリと意地の悪い笑みをわざと浮かべる。は一瞬きょとんとしたが、荒北の指し示した先に件の自動販売機があることに気がつくと、己の失態を察したのかハッと息を飲んで両頬を染めた。
その反応が荒北の予測が正しいものだと何より物語る。恐らくは、『当たったから』となどいういかにもな理由を作るために、わざわざ苦手な炭酸飲料を二本買ったのだろう。しかし、荒北の問いはごまかそうと思えばいくらでも誤魔化せたはずだ。ちょっとした揺さぶりで馬脚を表す少女が馬鹿正直といえば正直すぎる。
くっと口の端が上がり、笑みを堪える荒北を知ってか知らずか、ブラフのバレた少女は開き直りなのか驚くべき要求を告げてきた。
「……じゃ、じゃあハーゲンダッツにしてください」
宣言の内容は存外にえげつない。ロードスポーツは金食い虫なのだ。それでも仄かに頬の染まった上目遣いで頼まれると、一瞬了承しそうになる自分が怖い。
「バァカ、調子に乗んな」
恐るべき抗い難さを発するおねだりの言葉に耐えろと己を戒めるべく、多少の手加減を加えての額にデコピンをお見舞いする。べちっ、とやけに良い音が響いた。大げさに打たれたところをは押さえているが、音に反して痛くはないはずだ――多分。
そんな馬鹿馬鹿しいやり取りを繰り返す内、心に燻っていた居心地の悪い熱は消えていた。替わりにむず痒さが残ったが、そのことに気付いて思わず表情を緩めれば、つられたように少女もへらりと笑った。
――ま、ヘコんでも始まらねぇわな。やるだけやってやるサ。
彼女の笑みを見ていると自然とそう思えた。少なくとも彼女の前では無様な姿は晒したくない。あの真っ直ぐな視線に応えたいと思う。
何故そう感じるのか――半ば荒北の中でも答えは出ているのだが、今はまだもう少しだけぬるま湯のようなこの状態でいたい。せめてもう少し、確信が持てるまで。
END
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