CHANGE
情報。それは戦いの上で最も重要な要素といえる。
個々の力量というものは当然必要だが、対戦する相手のスペックを事前に把握しておくことで、その後の展開すら変わってくる。
は自転車競技に対して無知である。無論、そのへんの素人に比べればマシだが、好きでやりこんでいる者達に叶うはずもない。
そんな自分が自転車競技部のために何が出来るかといえば、細々とした雑用や部内の環境改善、そして――相手チームの情報収集である。
当然は素人に毛が生えた程度の観察眼しか持っていないため、資料の入手の精度はピンキリだ。手に入れた素材が果たして使えるシロモノなのかははっきりと判別がつかない。彼女自身そのことは十分に理解していた。
それでも、だ。自分で何かできることはないか、と考えると、今は見る目を養うための経験をひたすら積むしか無いのである。
経験も知識も浅い自分だが、自転車レースがあると知ればとにかく出向いてカメラを回す。百聞は一見にしかずという言葉を信じて、とにかく機会が許す限り生のレースを見続けた。それ故に、他校の練習光景を直接見てみたいという思いに至るのはごく自然の成り行きであった。
IH開けの夏休みに、箱根山中で張りこんで練習する相手校――箱根学園の練習光景を幾度と無く見てはきたが、何分あの時とは目的が違う。できればすれ違うようなそれでなく、練習を長時間見学したいのだ。それに秋の気配が濃厚になるこの季節だ。箱根はその立地上この時期でも十分に寒い。張り込むにはコースが外れた時のリスクが高く、万一体調でも壊しては身も蓋もない。
さてどうしたものか、と思いを巡らせていたところ、偶然か必然か中学時代の友人より一本の誘いが来た。
「――だったら直接見に来る?」
「へっ?!」
この友人は偶然ではあるが箱根学園へ進学しており、夏の張り込みの際にその日通るであろう練習ルートをリークした人物であった。
突然の提案に目を白黒とさせながらも、電話口の相手にいやいやと否定の声を上げる。
「どーやってやるの、そんなの。校内に入る手段だって無いよ」
「うちの制服着てればいけるって!」
どこから来るのか無駄に自信たっぷりの声で断言する友人に、思わずの心がぐらつく。
まあ確かに高校生なんて制服でも着てなければ見分けがつかないとは思うが、そんなことしてもいいのかというモラルがの心をチクチクと苛む。
もごもごと歯切れの悪いに対し、友人はどこか人の悪い声音で必殺の文句を囁いた。
「――箱学の情報があったら、お兄ちゃん喜ぶんじゃない?」
「行きます」
一も二もなく即答したのブラコンっぷりに、電話口の向こうで友人が爆笑していたが、敬愛する兄――と言っても直接のそれではなく、従兄妹同士という関係だが――のためという人参をぶら下げられては、それに抗う術などは持ち合わせていないのであった。
※ ※ ※
友人にそそのかされ、はるばる千葉から箱根へと出戻った。足をつけるは箱根学園の敷地内だ。どこから調達してきたのやら、友人の用意した箱根学園の制服を身にまとったは、驚くほどに場の空気に馴染んでいた。まあ、所属する高校が違うだけで現役高校生であることに間違いはないのだから、ある種当然といえば当然である。
流石に正門を突破するときはそれなりに緊張もしていたのだが、友人に手を引かれて門をくぐってしまえば開き直るしかなかった。少しは怪しまれるのではないか、とビクビクしていたのだが、さすがはマンモス校。校門を守る守衛も生徒の数が多い為か、いちいち全校生徒の顔を覚えているわけではないらしい。
無事潜入し終えた後、学校の敷地内施設についてのある程度の案内を済ませると、件の友人は「がんばってね〜」と言い残し、さっさと自分の部活へと向かってしまったので、は一人でぷらぷらと学園内を歩いている。向かう先は当然自転車競技部だ。
潜入するに辺り事前に下調べを行っていた為、校内の間取りはある程度頭に入っている。箱根学園はスポーツの推進をしている私立高校なだけに、その敷地内に各種運動施設が揃っているため学内はかなりの広さがある。いくらか歩いてようやく目的地近くまで辿り着くことが出来たが、ここからが正念場だ。いかに怪しまれずに――なにしろ姿こそ偽装しているが、部員の一部には顔も知られている――目的を達成できるかがカギなのである。
話によれば、なんだかんだで校内の人気者である東堂や新開がいるため、女生徒の見学者は毎日ポツポツといるらしい。携帯電話で写真を取ろうとする光景もそれなりによくあること、という。
なるほど確かにそれらしき女生徒がチラホラと自転車競技部の部室周辺に散らばっている。察するに練習を遠巻きに見学しているといったところだろうか。一人であれば悪目立ちしたかもしれないが、片手で数えられないほどの女子見学者がいるのであれば、ムービーくらいは案外余裕かもしれない。
潜入取材、という言葉に当初はビクついていたが、存外にあっさりと成功しそうな気配を感じたことで、は少々気が緩んでいたのかも知れない。やや軽い足取りで無意識に鼻歌を紡ぎつつ呟く。
「……心配しすぎだったのかな?」
「ヘェ、ナニが?」
「――――ッ?!」
ぽん、と気配なく近付かれた背後の何者かから肩を叩かれる。全身をバネ仕掛けの人形のようにビクンッとはねさせたは、ギギィっと、錆びついた動きで首を回した。
その耳朶に響いた声には聞き覚えがあった。そして振り返ると少女の予想に違わず、眉間に皺をくっきりと刻んだ三白眼の男が少女を睨めつけている。
「あ、荒北さん」
「ヨォ」
ニタリ、と目つきの悪い男――荒北靖友が鮫のような笑みを浮かべる。
しまった、油断した。あまりにやすやすと接近できたために、疎かになった己の警戒心を内心で罵倒しても後の祭りだ。
だらだらと蛇に睨まれた蛙の面持ちで、視線を盛大に泳がせつつも必死では言葉を続けた。
「えっと、お久しぶりです」
「……チャン、総北じゃなかったっけ?」
「いえ、その。これには色々と理由が――」
「――ひょっとしなくても、敵情視察ってコト?」
言葉のやりとりに何処か既視感を覚えながら、は油じみた汗をかきつつ目を逸らした。真っ直ぐに射抜いてくる男の視線を受け止めるには、の動機が不純すぎて後ろめたかったのだ。
そんな少女の行動に腹を立てたのか、男の手が明後日の方を向いたままのの顔をグリッと無理やり向かせる。筋が違えそうなその力強さに、思わず妙な悲鳴が唇から漏れた。
「ひゃ、ひゃいっ」
「――いい度胸、してるじゃナァイ?」
ギラリ、と野獣の瞳がを射抜く。その眼窩に揺らめく色は、はっきりと警戒色を宿していた。まあ通常自分たちを直接偵察に来る輩に友好的なものはいないだろうから、荒北のそれは当然の反応といえるだろう。
肌を焼くような激しい感情に身を竦ませながらも、見つかってしまってはどうしようもない。腹をくくったは、負けてなるかと顔を上げる。
「か、勝つ為に私ができることがあるなら、何でもしますよ!」
ぐっと眦に力を入れてはそう宣言する。
荒北の前で弱気になることはあってはならない。彼の前では常に前を向いていたい。だからあえて胸を張る。心臓はバクバクと早鐘を打っているが、表情に出さないように押し込めた。
しばしそのまま睨み合った後、先に均衡を崩したのは意外にも荒北の方からだった。
「ククッ……まァ、そんなに身構えんじゃねぇヨ」
「……へ?」
「ウチはしょっちゅう他校のスパイどもが遠巻きに練習伺ってきてるからなあ。チャン見たく、あんまり堂々と来た奴っていねえんだよ」
どこか面白そうに目を細めた男は、の両頬から手を離すと尚も言葉を続ける。
「オレとしちゃあそういうガッツがあるのはイイと思うが、まあ一応規則ってもんがあんだヨ。見学や取材したいんならちゃんと筋は通しな」
「筋……ですか?」
「顧問か部長に話するだけしてからでも遅くはねェだろうが」
「じゃ、じゃあ顧問の先生に――」
「ああ、言い忘れてた。うちの顧問今出張だわ」
「えええー!」
「ま、どっちにしろ部長のほうが話は早いぜ。うちは生徒が中心だからな」
にやにやと口の端を上げて男は言う。その言葉にはグッと言葉をつまらせた。
勿論今回も敵の本拠地に乗り込むだけに予め下調べはしている。IH後の箱根学園自転車競技部の状況も事前にある程度の把握をしてはいた。だからこそ真っ向からではなく回りくどく潜入取材という方法をとったのだ。
何故ならば――
「今の部長って――福富さんですよね」
「そ。やっぱ知ってるンじゃナァイ」
「……あのですね、荒北さん」
「ナニ?」
「私、個人的に福富さんと大変顔を合わせづらいんですけど」
IHで起きた出来事に対して、何も出来ない自分への苛立ちと、それに伴う行き場のない感情の捌け口として派生した福富への苛烈といえる憎しみは今でこそなくなった。
しかし、だ。会えば暴言しか出てこないから顔も見たくない、というような当時の状況とは別意味で現在のもまた彼と顔を合わせづらく思っている。
何しろ殆ど八つ当たりだったのだ。冷静な思考を取り戻した今となっては暴走状態だったと自覚しつつあるあの夏は、割と思い出すだけで恥ずかしくて穴を掘って埋まりたくなる思いだ。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、悪辣と言っても差し支えのない表情で荒北が笑う。
「あァ、だろうな」
「じゃあ何で――」
情報の小出しといい、の反応を見て楽しんでいるのがバレバレだ。さらに言えばそれを隠そうとしないのが余計に性質が悪い。
察しているのであればどうして意地の悪いことを言うのか、と咎めるような眼差しの少女に向けて荒北はズバリ切り込んだ。
「さっきの啖呵はウソだってのか? 勝つために何だってやるんだろ」
「――ッ」
「だったらテメェの小さなプライドなんぞ捨てちまえ。ンなもん、何の役にもたちはしねェよ」
「……わかり、ました」
からかい混じりの態度を一転し、真摯な瞳で告げる荒北に痛いところをグサグサと刺され、キリキリと胸が痛む。それはまさに魚の小骨のようにひっかかっていた懸念であり、それをまさに指摘されてしまったのだ。
だが、もここまで言われて引き下がれる性質ではなかった。
細く息を吐いた後、すぅっと大きく空気を肺に取り込む。目いっぱいまで吸い込んだところで息を止めて唇を真一文字に引き締めると、ぱぁんッ!と渇いた音が秋の澄んだ空に響いた。少女が自らの両の手で勢い良く両頬を叩いたのだ。
いきなりの行動に何事かとぎょっとする荒北をキッと睨むと、は改めて宣言する。
「――女は度胸! お兄ちゃん達のためなら、私の恥なんてないも同然です!!」
「よーし上等だ。そうこなくちゃな」
「そうとなれば善は急げですよ! 福富さんはどこにいらっしゃるんです?!」
「お前の後ろ」
さらりと告げられた驚愕の事実に慌ててが背後を振り返ると、確かに言葉通り先ほどまで話題の中心になっていた箱根学園自転車競技部のユニフォームを纏った男がそこに居た。
男――福富寿一は唐突に槍玉に挙げられたことに対して、どこか不思議そうに首を傾げる。
「――オレに何か用か?」
「うぇひゃぁぁああああっっ?!」
「……どうした?」
「どうもしませんっ!!」
「あーコラ、逃げるな」
荒北は反射的に回れ右をしてその場を脱しようとするの首根っこを掴むと、くるりとその身体を半回転させる。当然再度ばっちりと少女は福富と真正面からご対面することになるのだが、心の準備が出来ないままであるため、アワアワとするばかりだ。
そんな様子を荒北はどこか面白そうにニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているし、突然引き合いに出された福富は彼らの意図がわからずどこかきょとんとしている。
――荒北さん……イジワルだ!!!
様々な感情がない混ぜになって、思わず視界が潤みそうになるが、そんな醜態を――特にこの眼前の男相手には――晒すわけにも行かず、ひたすら心のなかでお兄ちゃんのためだと呪文のように繰り返す。
「ほ、本日は、お日柄もよく」
「ああ。いい天気だな」
「み、皆様におかれましては、ますますのご繁栄を――」
「おい、脱線してんぞ」
「えっと、その、あのですね」
ぐっだぐだなの態度に一言も文句も言わず、福富はじっと彼女の意図を把握すべく次の言葉を待っている。荒北の茶々入れに背を押されるようにして、ようやくはその目的を明らかにした。
「――箱根学園自転車競技部の取材をさせて下さい!!」
「ああ、分かった」
「「……はいぃっ?!」」
ほとんどノータイムで帰ってきた肯定に、どころか荒北でさえも驚きの声を上げざるを得なかった。
慌てた様子でその意図を確認するべく主将へと食ってかかる。
「え、ちょっ――マジでいいのかよ?!」
「かまわん。もとよりそのつもりでここへ来たんだろう? そうでなければここにわざわざ来る理由がない」
「あ、はい。そうです」
「それに――約束をしたからな」
「あ――」
福富の言葉に、の顔色がさっと変わった。慌てふためくそれから、あの夏のような揺らぎをその瞳に宿す。その変化に福富はわずかに口の端を持ち上げ、荒北は少し怪訝そうに眉を動かした。
あの夏の日。眼前の男は自分を見て欲しいと告げた。再び道を踏み外さないように。己が好敵手と堂々と渡り合える人物であることを見極めてもらえるように。
対する少女は身勝手だと罵った後それを受け入れた。自分を見る度に自身のしでかしたことを思い出すように。罪も弱さも忘れさせないと言うように。
「おまえが望むなら、オレは拒まない。見てほしいといったのはこちらだからな。全てを見てもらった上で、判断をして欲しい」
「……わかり、ました」
神妙な面持ちで頷くを、どこか安堵すら感じさせる眼差しで男は見つめる。だがその表情は一瞬で、すぐにいつもの鉄面皮が戻ってくると、矢継ぎ早に言葉が続いた。
「隠し立てをするつもりはないが、こちらにも練習スケジュールがあるからな。取材が空振りにならないように事前に連絡をもらえると助かる。顧問もいるが、オレを通したほうが話が早いだろう」
「あ、はい。分かりました。でしたらその場合はメールか何かを……?」
「ああ。それで構わない。メモか何かはあるか? あいにく練習前なので携帯を所持していないが、オレの連絡先を教えておこう」
「えっと、じゃあここに書いてもらってもいいですか?」
そう言うとはカバンの中から手帳を――どうやら総北の生徒手帳のようだ――取り出すと、罫線の引かれた自由入力頁をペンとともに差し出した。小さな紙の上に少しだけ乱雑な福富の文字が記されていく。
目の前でトントン拍子で事が運んでいる様子を、荒北はぽかんと見守る他なかった。おそらくの方も状況に流されている部分があるのだろうが、それでも箱学の取材という目的のため必死に状況に食らいついているようだった。
何よりも意外だったのは、福富が彼女からの”取材”を至極あっさりと受け入れたことである。箱根学園自転車競技部はその筋では名門であり、シーズンともなれば他県からの斥候が来ることも少なくない。所属生徒が出場するレースでの調査、練習コース上での偵察、あるいは校内練習に対してのピーピング……どれも珍しくない。
だがそれらに対しての部のスタンスとしては放置することが多く、こんなに便宜を図っていることなど目にしたことがない。ましてや相手は関東地方の雄といって差し支えない総北高校の関係者だ。福富もそれを知らないはずがない。
荒北個人の感情としては彼女の”役に立ちたい”という精神は好ましいが、部の長たる福富がここまで積極的に彼女の侵入を受け入れるというのが不思議で仕方がなかった。
「これがオレの連絡先だ。あとで空メールでも送ってくれればこちらでも登録しよう。寮生活だからあまり深夜に連絡が来てもすぐには返せないのは勘弁してくれ」
「は、はいっ! 分かりました!」
「ああ、それから」
「はい?」
逡巡するように僅かに言葉を切り、迷いを一瞬だけ眼の色に載せる。しかし一拍の後に福富はその台詞を口にした。
「……名前を教えて欲しい」
「へっ――あ、そうか。名乗ってなかったんだ!
改めまして……です。どうぞよろしくお願いします」
「福富寿一だ。こちらこそよろしく」
頭を下げあう男女に、荒北は内心複雑な思いを抱くしかなかった。
しかしそんな戸惑う彼を尻目に、彼らはどんどんと状況を変化させてゆく。
「あ、あのっ! 早速なんですけど、改めて今日のスケジュールとかをお聞きしてもいいですか?」
「ああ。今日はレギュラーメンバーについては紅白戦をする予定だ。学園外周を五周ほど回る。それ以外の者はマシントレーニングがメインだな」
「なるほど……あ、もし良かったら動画で撮らせてもらってもいいですか?」
「ああ、かまわない」
「やった! えっとカメラは……」
福富の回答にぱっと表情をはじけさせると、は手にしていた箱根学園で通学用に指定されているサブバックをがさがさとあさり始める。制服だけでなくこの手の小物も揃えているのが空恐ろしい。守衛はもっと仕事しろ、とあさっての方向の非難を心の中で荒北は呟く。
あれでもないこれでもないと手持ち荷物の捜索をしているを横目に、荒北はそっと半歩分身体を福富側へと寄せる。潜めた声でも十分に会話が可能な距離まで接近したことを確認した後、傍らの男へと声をかけた。
「……ナァ、福ちゃん。部の連中にはどう説明する気なんだヨ」
「正式な取材依頼を受けた、と言う。間違っていないだろう?」
「そーだけどサァ」
正々堂々と申しこめと入れ知恵をした荒北本人としても、その説明をされてしまえばそれ以上口を挟むことは出来ない。まさかこうもあっさり許諾してしまうとは思わなかったのだ。荒北としても想定外の出来事といえる。
「……まァ、福ちゃんが決めたってんなら、もうこれ以上はツッコまねェけど」
「スマンな」
はぁ、とわざとらしいため息を吐いて荒北は肩を竦める。最初の問いかけはジャブのようなものだ。むしろここからが主題といえる。
ちらり、と視線だけでの様子を探る。カメラはかばんの中から発掘したようだが、どうやらバッテリーが外れているか切れているらしく、動作確認がうまくいかないと首をひねっていた。これならばまだ話を続けても気づかれることはあるまい。
「それから――チャンのことだけど」
「何だ?」
「もう流石に名前知ってたんじゃナァイ?」
そうカマをかけると、福富は二度ほど瞬きをし――どこか言葉を選ぶような身長差を台詞に滲ませながらその問いかけに応じた。
「――東堂や新開がたまに話題にしていたから一応は。だが、彼女自身からではなかったからな。
おまえが言うように、話してみることで少しは分かり合えることもあるだろう。挨拶や名乗りはその一歩だ」
確かにいつぞやのレース前、福富に対してそんなことを言ったような気がする。荒北とて彼と知り合ってそう多くの年月を過ごしてきたわけではないが、こうと決めたら一直線なところがあるのは感じていた。今回の彼女の対応にしてもその一種なのだろうと荒北は結論付けることにする。
しかしどうしても若干の違和感が消えることはなかったので、明確な答えが返ってくることはないだろうと半ば予測をしながらも、彼は最も聞き出したかったその疑問を口にする。
「あとさぁ……約束ってナニ」
「――それは、言えん」
案の定、福富はにべもない。荒北もこの反応は予想通りであるので、カメラの準備をするの気が向かないよう、更に声を抑えながらもうひと押しの言葉を続ける。
「いいじゃねェか、ちょっとくらい」
「ダメだ。オレだけのものなら構わんが、との約束だからな。彼女の同意があれば話そう」
「ンだよ、勿体ぶって」
「オレにとっては大切な約束だからな」
そう言ってごくごくわずかに福富は口の端を持ち上げた。その表情はまるでなにか大事なものを誇らしげにするかのようで、およそ荒北が見たことのない類の笑みであった。
福富と。それなりに気に入っている二人の関係がギクシャクしたままではこちらが疲れる、という動機で取り持ってやるつもりだったのだが、予想以上に進展した二人のそれに、どこかモヤモヤとした言葉で表すには難しい感情が荒北の内側で蟠る。
そりゃあ変にギクシャクするよりはずっといいはずなのだが――と、荒北は自分で自分の感情が理解できず、首を傾げた。
「……なんだかなァ」
「あれ、荒北さん。どうしましたか?」
「なんもねェヨ」
何処か不貞腐れたような男の雰囲気に気がついたのか、機材の準備が終わったが心配げに問いかける。しかし問われた当人も自身の感情を掴みかねていたので、返す答えはなかった。
行き場のないもやもやとした感情を誤魔化すように、ガリガリと頭を乱暴に書きながらぶっきらぼうにそう呟く。ぽつり、とこぼしたその一言が何故か妙に重たく熱を持ったままで荒北の胸の中に燻っていた。
END
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