ジレンマ 後編


 生憎の雨模様だった週末も明け、退屈な授業と待ち望んだ部活動を繰り返すこと三度。
 週の半ば、その日も催眠術じみた授業と補習をなんとかやり過ごし、やや猫背気味に巻島は部室への道程を歩いている。
 太陽は相変わらずギラギラとその熱を地表へと振りまいているが、時折吹き抜ける風は存外に爽やかで、一雨ごとに季節が移り変わっていることを実感させた。広がる空に漂うは入道雲と鱗雲が混じって、暦が動いていることをアピールしている。
 巻島の今夏はインターハイの終了とともに幕を下ろし、次なるステージへの準備へと気持ちを切り替える時期に差し掛かっていた。しかしチリチリと肌を焼く強烈な日差しが、どうしてもあの夏を思い出させようとする。これではいけないと理性では判っているのだが、感情がまだ納得していない部分が残っているのだろう。
 春から続く自転車シーズンもいよいよ終盤、あと半月もすれば秋大会が開かれる。競技人口が少ない自転車競技においては、開催地域である千葉だけでなく、東京や神奈川などの周辺県から多くの自転車乗りが集ってくる。多くの学校で三年生が引退し、これが事実上の関東地方における秋の新人戦だ。
 今年のインターハイで、総北高校は落車の影響もあって総合17位と不本意な成績で終わった。しかしこのままで終わるつもりは毛頭ない。最上級生が抜けたあと、戦力が大きく変化することはどのスポーツであってもよくあることだ。それに――金城の怪我の回復具合から見て、その大会が復帰戦となる考えていいだろう。ならばなおのこと大会に本腰を入れるべきだ。
 レース展開などの作戦は己よりも金城のほうが得手ではあるのだが、なにしろ現時点でクライマーは巻島ただ一人。坂のスペシャリストとしての判断を下せるのは自分しかいない。来年のIHで優勝を狙うのであれば、万が一不測の事態が起きた時でも最良の判断を下せるように意識をすこしずつ改めていく必要もあるだろう。
 しかし、それよりも前にやらなくてはいけないことも山ほどあった。具体的には部室の掃除である。普段よりも多く練習時間が取れる夏休み中はひたすらそれに明け暮れていて、部室の荒れ具合から目を逸らしてばかりだったのだが、流石にそろそろ現実を見るべきではないだろうか。ほぼ男所帯であり、他の部室棟からはやや離れた場所にあるせいで、少々物があふれた所で誰から苦情が出るものではないのだが、足の踏み場がなくなるより前に着手せねばとは思う。
 今日はまずは片付けからか、と思うと部室に向かう足取りもやや重くなるが、こればかりはどうしようもない。放置していた所で悪化こそすれ、良くなることはないのだから覚悟を決めて――と思いつつ部室のドアを開けると、予想外の光景が広がっていた。
 昨日まで雑多に放置されていた洗濯物やら、使い古しのホイール、或いは出しっぱなしだった工具類。そういった物が尽く消え失せていた。否、消えていたのではなく、きっちりと用途別に分けられて整頓されている。物が溢れて酷く手狭に感じられていた昨日までの部室が、今日はなんだかぐっと広く見える。
 あまりのビフォーアフターぶりに巻島があっけにとられていると、その背後から元気の良い声がかけられた。

「お疲れ様です、巻島先輩!」
「……え、ひょっとしてちゃん?」

 聞き覚えのある声と、見覚えのない姿を同時に認識し、一瞬巻島の反応が遅れた。
 肩口で切りそろえられた髪に、動きやすさを重視してだろうか。学校指定のジャージを身に纏った見覚えのある少女――がニコニコと元気よく巻島へ挨拶をよこす。
 その表情と声は確かによく見知った彼女のそれだが、印象深かった長い黒髪はこれまた思い切りよく切られており、一瞬イメージが相違してしまう。どちらかと言えば大人しめの印象だったのだが、髪型のせいだろうか今は快活さのほうがより前面に現れていた。

「あれ、巻島先輩ってを知ってるんですか?」
「あー……ちょっとな」
「……は、今日からマネージャーでうちに入部することになったんです」

 の後ろから続いたのは、両手に洗濯かごを抱えた手嶋と青木の後輩たちだった。彼らの持つ洗濯かごには、見覚えのあるタオルやらが山と積まれている。おそらくは部室内のそれらを集めて洗濯している途中なのだろう。
 淡々とした調子で青八木が事態の補足をする傍ら、面識があることに意外だと驚く手嶋が誂うように言った。

「今までさんざん誘ってもそっけなかったのに、急にどういう心境の変化なんだか」
「い、いーでしょ別に。手があったほうが助かるのは確かなんだから」
「それは……間違いない」
「青八木くんは正直者だねー それに比べて手嶋くんときたら」
「うるせーよ、!」
「……じゃれあってないで、洗濯の続き」
「あ、そうだね。じゃあ巻島先輩、練習がんばってくださいね!」
「オレたちもすぐに合流しますんで」

 そう言いながら後輩たちはそれぞれに抱えた洗濯かごと一緒に部室から離れていく。あの量の洗濯物を一度に干すには部室裏手の物干し場では足りないからだろう。
 彼らをなんとなしに見送った後、小綺麗になった部室に足を踏み入れ自分のロッカーにたどり着く。制服から練習着に着替えるべく脱いだ洋服をしまおうとして自身に割り当てられているそれを開けると、小さな籠が扉裏に備え付けられていた。これも昨日まではなかったものだ。装飾小物が多い巻島にとっては地味にありがたい。
 手早くサイクルジャージへと着替えたあと、ロードに出る前の軽い準備運動をしつつそれとなく周囲を観察する。隣のロッカーはそれぞれ金城と田所に割り当てられており、金城のロッカーは彼の性格通りきっちりと使われていたのだが、反対隣の田所のそれは色々とものが昨日までははみ出していた。しかし今はそういった雑多さはなく、代わりに田所のロッカーの上に大きなかごが置いてあった。どうやらその中にあふれていたものを緊急避難させているらしい。置き場所をきちんとするだけでも随分と印象が違うものだな、と感心する。
 出来ることからすこしずつと言った風ではあったが、の僅かな心配りが室内の印象を良い方向へと変化させていた。

「巻島先輩、なにか他に洗濯物とかありますか?」

 ひょい、と部室に顔を出したのはだった。手にした籠には先程とは違う布の山が出来上がっている。その様に他の連中はどれだけ溜め込んでいたんだ、と内心頭を抱えこむ。
 個人のタオルなどは都度都度持ち帰っていたので、巻島の現在の手持ちには汚れ物はないので、ひらひらと手を振ってそれを告げた。

「いや、オレはきたばっかりだし」
「わかりました。何かあったら言ってくださいね!」

 こくり、と頷く少女の髪がさらりと揺れる。素直なところは髪が長かった頃とさほど違いがないのだろうが、やはり見た目の印象というのは侮れないもので、先ほど手嶋や青八木とじゃれあっていた時もそうだが、より活発な印象を受けた。
 思わずまじまじとを見つめていたものだからか、少女が少しばかり不思議そうに小首を傾げながらもおとなしく巻島の視線を受け止めている。遠く潮騒のように部活動に励む声が空いた窓から風とともに入り込んできて、ようやっと我に返った巻島は慌てたように視線を切り離すと、ごくごく単純な感想を口にした。

「――そういや、髪。切ったんだな」
「はい。結構ざっくり切っちゃいました」
「最初に会ったときは、腰くらいまであったッショ」
「ありましたね」
「キレイな髪だったのにもったいない」
「んー、えーっと…… まあ、一言で言えば、ぐちゃぐちゃだった気持ちの整理のため、ですかね」

 なんかあった? と意地悪く僅かに言外に含めて巻島が少女に問うてみれば、は行き場のない感情を表すように、もじもじと手指を組んだり解いたりを繰り返しつつ弁解しだす。 

「髪伸ばしていたのは、以前にお兄ちゃんが前に褒めてくれたからで…… 切ったのはまあ、別の理由というか、ある意味勢いというかそれもあったんですけど。
 あ、あと――当たり前なんですけど、髪の毛を切った分頭が軽くなったんです。目線も少しだけ上を向けられたというか……同じ景色が、今までとは少し違うように見えるようになりました」

 単純に重みが減っただけかもしれないですが、と言いながら彼女は照れくさそうに笑う。つられるようにしてへらり、と巻島も表情を崩した。

「少しは楽になったっショ?」
「はい。あんまりウソついたり思いつめたりするのって、私に向いてなかったみたいです」
「……オレはまだあんまりちゃんとの付き合いはないけど、そういうのが得意そうには見えねぇっショ」
「あはは、ありがとうございます」

 困り顔のままは乾いた声を上げると、微妙に唇の端を歪めて口を閉ざす。肯定をしたはずなのに奥歯に物が挟まったかのような表情をしているのかと、と巻島が内心で首をひねっていると、数瞬の間をおいて話すか話さないかを迷ったように恐る恐る巻島に視線を送ってきた。

「……前に福富さんに会った時に道を聞かれただけだって言いましたよね。覚えてます?」
「ん、ああ。部室への道を聞かれたって言っていたっショ」
「あれ、本当は半分ウソなんです。
 実際は福富さんに会って道を聞かれた後、どうしても我慢出来なくって、帰る途中のところに文句言いに押しかけちゃったんですよね、私」
「――ハァ?!」

 ふふっ、と悪戯を告白する子供のように少女は言葉を告げる。しかしそのセリフは思った以上に過激だった。思わず男の声も跳ね上がる。
 巻島がと福富の件の話を覚えていたのは、ひとえにあの時の彼女の様子が尋常でなかったからだ。何かを押し殺すような思いつめた表情をしていた少女を前に、追求できるほどの関係性や説得材料を持ち得なかった。そのために見送らざるをえなかっただけに、巻島の中で小骨のように引っかかっていた出来事である。

「ナイショですよ。お兄ちゃんにも言ってないんですから」

 しーっ、と唇に人差し指を当てるジェスチャーを交え、限りなく明るい口調の
 可愛らしくはにかみながら言う台詞じゃない。思わず巻島の背中にひやりとした汗が流れる。しかし男のそんな気持ちを知ってか知らずか、少女は恥ずかしそうに頬を掻いた。

「まあ、頭に血が上っていたんでしょうね。許すもんかって真正面から言ったんです」
「そりゃ強烈だな……
 それで――アイツなんて言ってたっショ」
「――なにも」

 巻島の問いに僅かに俯くようにしては答える。伏せたまつげの影の奥、静かな瞳で少女はとつとつと語り出した。

「言い訳はありませんでした。その代わり……かは判りませんけど、何故か感謝されました。おかしいですよね。私、喧嘩売りに行ったのに。
 あの時の私の行動はどう考えたって逆恨みだって今なら思えるんですけど、その言葉が欲しかったんだって福富さんに言われちゃって――それで、余計判らなくなっちゃったんですよね。私、一体何しているんだろうって」

 くすり、と小さく微笑む。それはまるで自らを嘲笑するかのような表情だった。掛ける言葉が思い浮かばずに、思わず口を閉ざした巻島を尻目に、の独白は尚も続く。

「見続ければ答えは出るのかなって、漠然と思いながら夏休み中は時間が許す限り箱学の練習とかも見たりしてみましたけど、結局見ているだけじゃ今と変わらないってことがわかっただけでした。
 このまま何も変われないんじゃないか。じゃあ、私は何ができるんだろう。そんな事をグルグル考えてました」
「…………」
「私はロードバイクに乗れません。お兄ちゃんが目指す総合優勝を直接一緒に目指せるわけでもない。
 でもそれは――逃げてたんです。自分にとって都合の悪いことを避けようとして、楽な方に流れてました。
 でも……ペダルを回せなくてもやれることはきっとあります。お兄ちゃんの夢を叶えるために、私だから出来ることもあるのかもしれないって今は思ってます。何もしないで後悔するより、なにかやって後悔したほうがすっきりしますしね」

 これだってヒトからの受け売りですけど、と苦笑する。苦々しさは含まれていたが、そこには腹をくくった人間特有の、何か清々しいものもにじみ出ていた。

「――んで、考えた結果ここに来たってことか」
「はい。巻島先輩の言葉に甘える形になりました。
 いろんな人からいろんなことを言われましたけど、ここに入ろうって最後に決めたのは私ですから……自分で決めたからには、とことん納得するまでやるつもりです」

 ぐっと握りこぶしを作って宣言をする少女の眼差しはどこまでもまっすぐだ。何時ぞやに見えた深淵の縁を覗きこむような危うさは、今や欠片も感じられない。そのことに巻島は密かに安堵を覚える。自分の言葉に甘えた、という一言は少々くすぐったくはあるが、まあ悪くない。

「――動機も不純な不束者ですが、精一杯やらせて頂きます。
 お兄ちゃんや皆さんの夢のお手伝いをさせて欲しいです。どうぞ今後ともよろしくお願いします!」

 その言葉に偽りなどは微塵もない。少女は真っ直ぐな眼差しで自分達の助けになるためにこの場にいることを宣言している。
 きっとは、この決断を下すまでに様々に思い悩んだのだろう。自分に何が出来るのか。傍観したままでいいのか。その末に選択された内容は、総北高校自転車競技部にとっても――無論巻島の個人的な感情としても――大変喜ばしいことだ。

「ああ、頼りにしてるっショ」
「はいっ!!」

 大仰に90度近く腰を折るの頭を優しくポンポンと叩いてやる。少女の表情、態度。それらが先ほど発したの言葉に偽りなど無いことを物語っている。
 今日この時から、彼女はこのチームの一員となる。共に来るべき大会にて頂点を奪取するため、のサポートは重要なものとなるだろう。頼もしい仲間が増えることは何よりもありがたい。
 巻島がかけた言葉は心底から出たものであり、同じく偽りなど無いものだ。彼女が懸命になる姿を見てみたいと思った数日前の願望が現実のものとなり、胸の奥からは負けていられないとふつりと湧き上がるものがある。
 さあっ、と開けっ放しの扉から爽やかな風が吹く。季節が変わり、人も変わる。の――そしてチームの新たな出発を後押しするような、清々しい秋風だ。その風に自身の玉虫色の髪を僅かに遊ばせながら、巻島は新たに始まるだろう様々な物語の予感を噛み締めるように口の端を持ち上げた。
 

END


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