振り返らない君の涙を僕は忘れない
 
 

 裏門坂を中心としたいつものコースをいつものように目一杯走りこみ、疲れた体を引きずって部室に戻った巻島を出迎えたのは、主将のロッカーを前に棒立ちとなっているマネージャーの後ろ姿だった。いつもであれば部室のドアを開けると同時にお帰りなさいと明るく迎え入れてくれる声の主は、部室のある一角で微動だにしていない。

「……おい、ちゃーん?」

 部室に戻ってきた巻島に気づいていないのか、軽く声をかけても微動だにしないその様子に流石の彼も訝しみ、そろりと気配を殺しながら近くまで歩み寄ってぎょっとする。彼女の眦にはキラリと大きな雫が光を反射していたのだ。
 大きな眼をさらに見開いてフリーズしている少女は、少し揺らしただけでもその瞳に湛えた水分をポロポロとこぼしそうなほどだ。
 驚きに息をのみながらも、その原因を探ろうとしてさらによく彼女を観察してみれば、その手に何かの冊子を手にしていた。肌もあらわな女が惜しげなくその肢体を曝していて、
おおよそ年頃の女子が眺めるようなたぐいではない。しかし、その書籍の鮮やかな表紙に男は見覚えがあった。巻島のグラビアコレクションの中の一つである。なんでそんなものを、と巻島は思わず天を見上げた。
 状況証拠の他に、物的材料も加わり、ある程度彼女がここに至った経緯を巻島は推測し出していた。が佇むロッカーは、部長である金城のネームタグが付けられている。ロッカーには鍵なんて上等なものはなく、その気があれば誰でもロッカーを開け閉めすることが可能だ。半開きとなっているロッカーには、金城が普段使用している学生鞄や大きめのスポーツバックがしまわれており、そのうち学生鞄の蓋が開いていた。
 わずかに飛び出た教科書類やファイルフォルダなどをみるに、恐らくは何かプリントあたりをしまう、ないしはその逆で取り出すために彼女がカバンを開けたのだろう。兄妹同然の彼らの間柄であれば、ソレくらいのことは別段不思議ではない。
 不幸であるといえば。先日何かの拍子で”どういう女が好みなのか”という男子高校生らしい下世話な話になった際、だったらということで金城に貸しつけたグラビア雑誌がそのままカバンに入りっぱなしだったことだろう。それでなくとも彼女は己の従兄を聖人君子か何かと思い込んでいる部分があるので、現実とのギャップに打ちひしがれているといったところだろうか。
 そんな推測をしている内に、どうやら彼女の中で思考回路が再起動し始めたらしい。はっとしたように手にした冊子を開いたままの鞄に押し込むと、ついでに某かのファイルもオレぬように添えて仕舞いこむ。どうやらなかったことにしたらしい。
 一仕事終えたとばかりに、出てもいない汗を拭うかのように額を抑えるマネージャーに悪戯心が沸くのは致し方のないところだった。自分の存在にまるで気付いた様子のない彼女の肩に巻島がポンと手を置くと、奇妙な悲鳴とともにその体が数ミリほど宙に浮く。

「うわひゃっ?!」
「なぁにしてるっショ」

 上ずった声をあげた少女に対してこみ上げてくる笑いを噛み殺しつつ、努めて平静を装って巻島はその様子を伺った。
 しばしの間彼女はどう言い繕うか思案するように、あーだのう〜だのと意味のない音を口から漏らし、ワタワタと行き場のない身振り手振りを繰り返す。やがてどうあがいた所で言い逃れが出来ないと悟ったのか、がっくりと肩を落としながらボソリと呻いた。

「お、男の人って……やっぱり、胸が大きいほうがいいんでしょうか」

 そう言って少女は己の胸板に手を当てて考え込んでいる。
 のスタイルは――まあ、控えめに表現してもよいものとはいえない。所謂幼児体型、というものではなく、きちんと腰にくびれなどはあるのだが、その凹凸が平均値から見ても少々下回っているだけだ。
 世間一般的な風潮として、やはり出るとこが出て、引っ込むべきところが引っ込んでいるメリハリの聞いたボディが隆盛であることは否定出来ない。巻島も観賞用としてグラビア誌に踊る肢体を以前と変わらず愛でてはいる。
 が、現実問題自分が手にするものとしては、その何だ――最近控えめボディも悪くないんじゃないかと思い始めている。しかしそんな事を馬鹿正直にそのまま言ってしまうのはさすがに憚られた。

「……人それぞれ好みってもんがあるし?」
「お兄ちゃんは……どうなんでしょうか」
「あー……」

 その問いかけに、巻島は言葉を濁さざるを得なかった。金城にはいつも連れ合いのように側にいる一人の女がいるのだが、彼女は友人であることの贔屓目を差し引いても、ナイスバディと言って差し支えないプロポーションをしている。それを考えれば、まあ答えは既に出てしまっているようなものであった。

「――やっぱり、そうですよね。ないよりあったほうがいいですよね」

 えへへ、と眉を下げて自嘲めいた表情ををは浮かべる。見ているこちらが痛々しい気持ちになるほど、力のない笑みだ。

「でもっ、なくてもいいことだっていっぱいありますから。
 肩が凝らないとか、うつ伏せでも寝苦しくないとか、泳ぐときに抵抗がないとか――」
「――それ以上は、もう止めるっショ」

 涙目で自己弁護と言う名の自傷行為を繰り返す。あまりの痛々しさに思わず巻島は強い口調でそれを咎める。
 それが予想外だったのか、少女はピタリと言葉を止めて、涙に濡れた眼をじっと巻島へと向けた。潤んだそれに見据えられて、思わず巻島の身体が硬くなる。そのまま流れに飲まれて見つめ合っていたのは数秒だったのだろうか。しんとした沈黙と視線に耐え切れずに、自ら目を逸らした巻島はモゴモゴと口の中で篭らせつつも正直な心情を口にした。

「……胸があろうとなかろうと、それで価値が決まるわけ無いっショ。
 それに、うん。グラビアは観賞用ってのもあるし――」
「――観賞用、ですか?」
「見て楽しいのと実際とは違うっつうか……」

 思わず口から飛び出したその台詞にハッとして、巻島は己の口を無理やり手で覆って塞ぐ。問いかけてくるの眼差しが、あまりにすがるような純真さを伴っていたため、うっかりと口が滑ってしまったようだ。
 何が悲しゅうて自身の性癖を真昼間から自分で暴露しなきゃならんのだ、と背中に冷たいものを覚えつつ、これ以上の失言を産まぬように沈黙を守る。
 しばしの後、声を上げたのはの方からだった。

「そう、ですね。観賞用と実際用途は違いますもんね! うん、それならまだ望みはあります!」
「お、おう」

 巻島の言葉から某かの希望を見出したのか、キラキラとした瞳で力強く頷く。
 普段はそう見えないのだが、どうやら随分と自身の体型がコンプレックスになっていたらしい。若干遠い目をする男を知ってか知らずか、眼前の少女はどんどんとヒートアップしている。

 ――グラビアを部室……否、学校に持ち込むのはもうやめよう。

 見つかる度にこんな心労を負っていたのでは、どう考えても割に合わない。
 そう、硬く強く巻島は心に誓ったのであった。

END


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