ろくでなし -後編-
「――総北高校前。総北高校前。お降りの際はお忘れ物にお気を付け下さい」
運転手のアナウンスに促されるように席を立ち、運賃箱にジャラリと小銭と整理券を流し入れる。軽く会釈をしてバスのタラップを降りれば、むわりとした熱気が全身を包んだ。
総北高校の所在地は総武線学園上総駅よりバスで15分、房総半島北部の小高い山に位置するが、蒸し暑さをかき混ぜる弱い風には潮の気配が香る。ここが馴染みのある山中ではなく、海に近い場所にあるのだということを改めて実感させた。
バス停から目的地まではほんの目と鼻の先だ。1分もしない内に正門の前にたどり着くと、男――福富寿一はここに至った経緯を改めて振り返る。
今年のインターハイ2日目で福富は自転車競技選手として――否、人としてやってはならない卑劣な行為に手を染めた。魔が差した、無意識だったと言うのは簡単だが、己が犯した行動の結果は覆ることはない。正々堂々とあるべきレース中に、相手のユニフォームを掴んで無理やり落車させるなど言語道断だ。
当然相手は肋や膝など各所に怪我を負い、翌日以降のレース結果にも大きな影を落とした。正直、完走できたのが不思議なくらいの怪我だった。
落車をさせてしまった当日、ゴール後に福富は直接金城へ謝罪をした。その場に居合わせた相手校のチームメイトにも事情を話した。あの時、運営に報告されても当然だと思っていたのだが、被害者であるはずの総北高校の金城真護は、レース妨害を受けたことを運営側に報告することはなかった。
そして――リザルトは残り、箱根学園の総合優勝が正式な記録として刻まれた。その中には福富も名を連ねている。己の拭い切れない罪の意識とともに、大会記録は残された。多くの勝利を重ねてきたが、これほどまでに苦い味のする優勝は福富にとって初めてだった。
こうして総北高校へ赴くことに葛藤がなかったわけではない。それこそ学校に外出届を提出するまでに相当に悩んだ。箱根学園の自転車競技部員たちの中には、インターハイで福富が総北高校と一悶着があったことを知る者もいる。それがどういった理由かまでは詳しく知る由もないだろうが、今頃は心配をかけているのかもしれない。
だが――真実を話せないでいる己は、チームメイトから心配される資格もないのではないだろうか。そう思い、自嘲する。
チームを考えれば、この事件のことはまだ言える時期ではない。今は主力だった3年生が引退し、新しい体制へと切り替わろうとする最中である。新主将に就任した自分がそういった過ちを犯した人間であると知れれば、出来上がったばかりの新チームはいとも簡単に瓦解するだろう。
箱根学園の自転車競技部は元をたどれば福富の父親が創設したもので、初優勝へと導いた立役者でもある。兄も同じくロードレーサーとしての道を選び、福富自身も物心ついた頃からペダルを回していた。そんな環境だったからこそ、福富は当然のように常勝を望まれる。そしてそれが当然だと思っていた。
期待を背負うこと、勝利を義務付けられること。しかし、今年の夏はその全てが崩れ去るかもしれない恐怖を初めて覚えた。己に向けられる厳しくも暖かなそれらが、失望の眼差しへと変貌するかもしれない不安に足元をすくわれそうになる。いや、実際のところ飲み込まれたからこそ、あの時己の手は相手のユニフォームを掴んでしまったのだろう。今ではそう思っている。
今日こうして千葉まで足を運んだのは、一つのけじめをつけようと決意したからに他ならなかった。
学校も違えば校区も、果ては所在県すら違う。かろうじて学年や地方単位での共通しかないのだから、避けようと思えばいくらでも避けられる。あえて自分から飛び込んだのは、そうでもしないとこの先ずっとそれを背負ったままペダルを回し続けなければいけないことへの恐怖心からだ。
けれど――それはほんの建前だったのかもしれない。それを塗りつぶすほどの欲があったのだ。それは、もう一度あの男と勝負がしたいという渇望だった。今度こそ互いの全力を出し切った上で、彼にも己にも打ち克ちたい。内側からこみ上げるその欲求に突き動かされるようにして、今日福富は千葉の土地に足を踏み入れた。
無意識のうちに自分の足が止まっていることに気付いたのは、額から滑り落ちた汗が頬を伝っていった感触を覚えてのことだった。正門前で仁王立ちしたまま、どれくらい思索に耽っていたのか。
この期に及んで往生際の悪い自分に呆れながら、意を決して敷地内へと足を踏み入れる。砂地のグラウンドをザクザクと突き進みながら、ふと根本的な問題に思い至った。
――自転車競技部の部室はどこだ。
我ながら間抜けな話だが、ようやくその事に気づいた。ざっと周囲を見回すが案内板のようなものはないし、それらしき建物も見当たらない。
グラウンドでは運動系の部活であろう走りこみをやる生徒の集団や、帰路につこうとする幾らかの者たちが疎らに通りすぎようとする。しかし制服の違う自分を訝しんでか、微妙に避けて通ろうとするので声もかけづらい。
さてどうしたものかと、考えをめぐらす福富の視界の端で、どこか既視感のある後ろ姿が写った。腰まで伸ばした黒い髪の女生徒が空を見上げている。どうやら福富には気付いていないようで、何やら憂いを秘めた眼差しで視線を空へと投げていた。
少し幼い顔立ちや体つきから、恐らくは下級生だろうか。夏の熱気を孕んだ風に長い黒髪を遊ばせる彼女の横顔から目が離せない。どこかで見覚えがあるのだが、どうしても思い出せないのだ。
しかしいつまでも眺めているわけには行くまい。気を取り直して少女の近くまで歩み寄り、福富は声をかける。
「すまない、道を訪ねたいのだが」
「――ッ」
男からの呼びかけに、少女は弾かれるように勢い良く振り向いた。零れそうなほどに目を大きく開き、驚愕に満ちた顔でまじまじと福富を見つめてくる。
急に声をかけてしまったので驚かせたかとも思うが、それにしてもこの反応は大げさではないだろうか。一瞬だけそう思うも、気を取り直して少女の警戒を解くように努めて言葉を続ける。
「急に声をかけてすまない。自転車競技部の部室はどこにあるか教えてもらえないか?」
福富の台詞に合点がいったのか少女はにこりと、手本のような笑みを浮かべる。最初の驚いた表情が感じられないほどに模範的といってもいい。
「――ええ。他校の方ですか?」
「ああ」
「どうぞ、こっちです」
そういうが早いか少女はさっと背を向けて、福富を先導するように歩き出す。口頭で案内してくれるだけでも十分だったのだが、わざわざ案内しようとする少女の態度に福富は内心で感嘆した。恐らくは帰宅途中であっただろうに手間を掛けさせてしまって申し訳ない、とも思った。
親切な少女はぴんと背筋を伸ばし、迷いのない足取りで福富を導いていく。その確かな足取りが、彼女が自転車競技部の関係者なのだろうかと推理させた。
少女を追うように一歩離れた距離を保って後ろに続けば、自然とその背でゆらゆらと左右に動く長髪が見える。やはり拭いきれぬ既視感を覚えるも、これから一世一代の謝罪をしようとしているのに、それを彼女に問うのはさしもの福富とて躊躇われた。ヘタをせずとも単なるナンパだし、本当に初対面であった時に気まずい思いをするのは避けたい。
考えがあらぬ方へと飛んでしまうのは、これから己が立ち向かうことへの逃避なのかもしれない。そんな自分を苦々しく思う内に、先行する少女の足が止まった。それに倣い福富も立ち止まると、半身を振り向かせた少女がほっそりとした指をある一点へと向ける。
その指先が示す方に、こじんまりとした一階建ての建物が見えた。ちらりと見える看板にその部の名称が記載されている。
「あの部室棟の外れにあるのが、自転車競技部の部室です」
「ありがとう。助かった」
「いえ。では私はこれで」
その短い言葉とともに、少女は自転車競技部と看板の掛かった離れではなく、その近くの二階建ての建物へとさっと駆けていった。見れば様々な運動部の看板がかかっており、このあたり一帯が部室群であることが窺い知れる。自転車競技部の部室へ入らなかったことを察するに、部室が近所ではあるが所属は違うのだろうか。
目前に今日の目的地が現れたことで、改めて福富はぐっと拳を握った。逃げていても始まらない。鉛のように重い己の足に叱咤を入れ、慎重に歩を進める。そのまま足を進め、あと数歩で入り口まで辿り着こうかというところで、その進行方向に目的の人物がいることに気付いた。
「――箱根学園自転車部主将、福富寿一だ。
金城、おまえに話があってきた」
体格の良い坊主頭の男へ向け、声をかける。その言葉に男はゆっくりと振り返った。
※ ※ ※
福富が箱根への帰路につく頃には僅かに陽が傾きかけていた。運動し、汗をかいたこともあってか少し肌寒さを感じさせる。
駅行のバスを待ちながら、バス停に添えられたベンチに深く腰掛けて体重を預ける。夕暮れに染まりつつある街並みはどこかもの寂しい。
謝罪に来たはずが、紆余曲折の末今日は天気がいいと思いがけず誘われて繰り出したツーリング。借り物の車体であることも手伝ってか、最強最速に向けてひたすら邁進するようなものではなく、ごくごく軽いそれこそサイクリングと呼ぶほうが相応しい回転数でペダルを回した。
自転車用の道路が整備された川沿いの道を風を切って進む。キラキラと太陽光を反射する水面が眩しい。行き交うレーサーたちも様々で、本格的にレースジャージをまとったもの、あるいはそれこそファミリー向けの自転車に乗った母親と子供などとバラエティに富んでいる。開放的なコースということもあってか、初めて通る道だというのに酷く穏やかさを感じさせた。
言うはずのなかった身勝手な願いを口にしてしまったのは、きっとその穏やかさもあったのだろうと今にして思う。
結果として――福富の願いは聞き遂げられた。全力の勝負がしたいという福富の一方的な申し出を、無論だと不敵な笑みすら浮かべて金城は承諾したのだ。
金城のその言葉に安堵する一方で、何かが心の奥底で引っかかったままである。不相応なまでに望みが満たされたというのに、何故か違和感が拭えない。
その正体がわからないまま、徐々に西の方角から夕焼けに染まろうとする空を見上げる。
己の欲求は全て叶えられているというのに、この座りの悪さは一体何なのだろうか。どうしてもそれが気になって仕方がない。
「――こんにちは。またお会いしましたね」
ベンチにぼんやりと座っているところに声を不意にかけられた。
聞き覚えのある声に上に向けていた視線を戻す。夕陽を背負っているせいか、逆光気味でまっすぐに表情を伺うことは難しいが、黄昏時の冷たさを乗せた風に腰まである長い髪がさらりと流れた。
「ああ。先程は案内ありがとう」
「ご用事はすみました?」
「……予想とは違ったが、一応は」
声をかけてきたのは、先程福富を自転車競技部まで案内してくれた少女だった。にこにこと何かの手本のような笑みを浮かべ、明日の天気でも尋ねるかのような口調で尋ねてくる。
彼女の台詞に自嘲するように福富が声を落とすと、そうですかと少女から言葉が続く。
「一体何をしにこちらに来られたんです?」
「――謝罪、だろうか」
と、僅かに間をおいて福富は言葉を溢す。それが耳に入った途端、ほぼ反射的に少女は表情を歪めていた。
「――今更?」
それはほんの小さな一言に過ぎなかった。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの声量であったが、冷えた塊を臓腑に押し込められたかのような違和感が福富の身体に走った。
腰掛けていたベンチから思わず立ち上がり、はっとした表情で男がまじまじと少女を見つめる。無理も無いだろう。今の今までにこやかに対応していた年下の女生徒がいきなりその雰囲気をガラリと変え、隠しきれない敵意を乗せて吐き捨てたのだ。
冷や汗が背中を伝う。動揺を押し殺しながら、ゆっくりと福富は問うた。
「……おまえは、何者だ」
「名前訊くなら自分から名乗るのが筋でしょ、箱根学園自転車部主将さん」
「オレを知っているのか」
「ええ、とても。インターハイでのあなたのろくでなしっぷりもね」
凄絶に少女が嗤う。夕陽が落とした影だけではない、仄暗い何かを瞳に灯し唇を歪めているその表情に、ぞわりと背筋を怖気が走った。
この感覚は以前にも味わったことがあった。あれはインターハイが終わってそう日も経たない頃、箱根山中のコース上で初めて感じたそれだ。
隠すことをやめたことで敵意に満ちた少女の眼差しが、正面から福富へと向けられた。ピリピリとしたプレッシャーが遠慮なくぶつけられる。
最初に彼女に覚えた既視感はこれだったのだ。確信を持って福富は呟く。
「その目――箱根で見覚えがある。そうか……おまえだったのか」
「どうだっていいでしょ、そんなの」
闘争心と敵愾心、色こそ違うがこの眼差しの強さには見覚えがあった。忘れられるはずもない。初めて敗北を覚えた男の意志と重なるその強さだ。どんなに隠そうと押さえつけても、にじみ出る思いを無意識下で感じ取ったのだろう。
インターハイが終わり、盆が過ぎた頃から箱根学園自転車部では、ある噂が実しやかに囁かれていた。峠に現れる白い少女についてだ。
毎日のように走行コースのあちこちに現れる白いワンピースと同じ色をした幅広帽を被った長い黒髪の少女。曰く交通事故にあった少女の霊だの、いや熱烈なファンだのと様々な憶測を読んでいた存在だが、福富はその少女から送られる強すぎる眼差しが明確に己を目的としていることを理解していた。
まるでレース中のような苛烈さを含んだそれは、どのシーンにおいても真っ先に福富へと注がれていて、初めて見た時にその鮮烈さにハッと息を飲んだ。その後会うたびに彼女の視線は恐ろしいほどまっすぐに福富に向かってきていて、何かの意思を伝えようとしてくる。
目は口ほどにものを言う、とはよく言ったもので、彼女の強い眼差しからはたった一つの峻烈なある意志を感じていた。許すものかという純粋な怒り――その感情を向けられる心当たりは一つだけだ。
少女の名は。この夏に因縁の生まれた金城真護の従兄妹である。だが、その名や立場を尋ねる暇すらなく、少女は再び口を開いた。
「――金城主将に何の用だったの」
「何故金城だと断定する?」
「県内や隣県ならまだしも、箱根と千葉よ。そう簡単に来れる距離じゃない。
それに――貴方がそれ以外の理由で総北に来るなんて思えない」
きっぱりと言い切るの言葉に迷いはなかった。福富は苦笑してそれに応える。
「……その通りだな。
来年のインターハイでもしまた競い合えることが出来たなら、全力で勝負して欲しいと言った」
「どの面下げてそんなことが言えるのよ! それを捨てたのは貴方自身でしょう?!」
ギリッ、と音がしそうなほどには強く強く奥歯を噛み締める。正論中の正論に返す言葉もなく沈黙していると、彼女は殊更に強い光を瞳に込めて福富を見据えた。
「――やっぱり、私は許せない。例えお兄ちゃんが事故だって言ったって、認めない。何が最強よ。ただの強がりじゃない、この卑怯者。
私は、絶対に――貴方を許せない。許すもんですか……ッ」
眦に力を込め、全ての激情を封じ込めた鋭さでは福富をまっすぐに睨みつける。ともすれば涙の代わりに血でも溢れそうな眼は、彼女自身も持て余しているであろう怒りによってうっすらと充血していた。
「……そうか」
少女の言葉を真っ向から受けながら、福富の心の中で何かが解けた。心の底よりも更に奥、自分でも意識していなかったもう一つの望みが満たされている。罵倒されているにもかかわらず、福富は穏やかさにも似た充足感を覚えていた。
少女の言葉がナイフのように突き刺さり、その奥に溜まっていた葛藤という名の膿を吐き出させる。傷口が開かれぬままであれば、きっと己は内側から腐り落ちていただろう。
償いたいと思えども、その方法が分からずもがいていた自分がいた事に今更気付く。少女の言葉と瞳がそれを改めて指摘してくれた。
「おまえはオレが欲しかった言葉をくれるんだな」
断罪の言葉がザクザクと心に刺さるが、その傷みが今はありがたい。
思わず零れた福富の言葉に、が驚きに目を見張る。まさかそんな言葉が帰ってくるとは思わなかったのだろう。
そう――きっと自分は自分の行為が許されざるものだと真っ向から否定されたかったのだ。インターハイでの事件当日、金城のチームメイトから右ストレートを食らったが、あれだけでは足りなかった。あの時、彼は金城の意思を尊重してそれ以上の制裁を加えることはなかった。それが福富の中で消化不良を起こし、今も尚罪の意識に囚われ続ける羽目になったのだ。
「許されないことは判っている。犯した罪は変わらない。
だからこそ――見ていて欲しい。これからオレがどうするのか、また道を踏み外さないように見ていてくれ」
「……随分虫のいいこと」
「自分でもそう思う」
正直な気持ちを素直に言葉に乗せる。男の言葉に少女はしばし沈黙し、ややあって吐き捨てるように台詞を返した。
「――言われなくても見ている。私には見続けることしかできない。
貴方の弱さも何もかも、ずっと見ているわ。例え貴方が忘れそうになっても、私を見て思い出せばいいのよ」
「ありがとう。おまえがオレを見続ける限り、それに恥じない走りを見せる。改めて約束しよう」
まっすぐにの瞳を受け止めて答える福富に、何故か彼女はわずかに眉間に皺を寄せて口を噤んだ。
純粋な怒り一色だった眼に、陽炎のようになにか違う色の揺らぎが光る。だがその意味を福富が見咎める前に、沈んだ場の空気を切り裂くような甲高いクラクションが響いた。
はっとしてその音が鳴る方を見れば、駅前経由と記されたバスがいつの間にやら目前にその姿を表していた。気づかぬ内に随分と話し込んでいたらしい。
福富の意識がバスに移ったのを見計らったかのように、ふと気がつけば少女は彼の側から離れていた。先程まで手を伸ばせばすぐにでも捕まえられそうなほどに近くにいたはずなのに、もう男への用は済んだとばかりに校舎へ戻るその背はすでに遠い。
そんなの後ろ姿に思わず手が伸びそうになり、かけるべき言葉が無いことに気づいて拳を握る。今はまだ彼女に話せることなどない。
名残惜しむかのように佇む男に向け、乗るのか乗らないのか急かすように再びバスのクラクションが鳴り響く。我を取り戻した福富があたふたとバスに乗り込むと、席に着くかつかないかのタイミングで慌ただしくバスが発車した。
一般生徒の下校時刻からは遅く、さらに部活動時間帯であるという中途半端な時間のせいなのか、ガタゴトと揺れる車内には福富以外の乗客の姿はない。エンジン音と無機質なアナウンスだけが響く車内で、福富はゆっくりと胸に詰まっていた空気を吐き出した。
深呼吸をするようなそれと同時に、凝り固まっていた己の身体が徐々に解れる。シートに深く身を預けながら、そこでようやく自分がひどく緊張していたことに気付いた。
肩の力を抜いて、車窓に流れる夕暮れの街をぼんやりと眺める。予想外のことが起こりすぎたが、今日この場所に来れてよかったと福富は心底思った。
それにしても、頻繁にその姿を見かけるので、てっきり地元の人間だと思い込んでいたが、あの峠の少女がまさか総北の生徒であるとは思わなかった。
敬愛する金城の落車の原因が福富にあると知り、居ても立ってもいられなくなった彼女が、自分にできるたった一つのことだとばかりに箱根の山中に佇んでいることを福富が知る由もない。
ふと、そういえば名前を聞きそびれていたことを今更ながらに思い出す。だが、今はそんな小さなことはいいかと思える余裕があった。
彼女はきっと、これからも己の行く末を推し量るために姿を表すだろう。たとえ名前など分からなくても、真っ直ぐな眼差しはどんな状況でも変わらずに届くに違いあるまい。そう思うことで、ようやく自分の足場が固まったような気さえした。
「――見ていてくれ。これからのオレを」
思わず零れた言葉は、彼女に向けてではなくむしろ己に向けたものだった。
少女の鮮烈な強さをすべて受け止めることが出来れば、己の弱さも同じように乗り越えられる。そんな奇妙な確信を福富は抱いていた。
END
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