インターハイが終わり、ひとつの区切りがついた。夏の結果は優勝という王者に相応しい成果をもたらし、また一つ箱根学園の歴史に輝かしくも見慣れたトロフィーを持ち帰ることとなった。
シングルゼッケンをつけた3年生が引退し、自転車競技部も多くの運動部がそうであるように、本格的に世代交代を意識した編成へ季節と共に切り替わっていく。荒北靖友がエースアシストたる2番ゼッケンを引き継ぐことになったのもその頃だった。
箱根学園の自転車競技部と言えば、何度もインターハイを制した名門中の名門だ。その中でレギュラーを意味するシングルゼッケンは、それを付けるものが絶対的な実力者であることも意味している。
荒北が手にした番号はエースアシストを意味するナンバーだ。6人全てがエース級と言われるレギュラー陣の中でも、さらなる強者であるエースオブエース――ゼッケン1番を牽引するものに与えられる番号だ。
そのナンバリングに少なからず異を唱える者もいたが、言わせたい奴らには言わせておけばいい。全てレースで示してみせる。そう荒北は意気込んでいた。
夏の幻
そんな夏の盛りも過ぎた頃――荒北はまるで陽炎のように終わらぬ夏の激しさを宿した視線に気がついた。それまで何度か見かけていたかもしれないが、それを意識し始めたのは夏休みも終盤に差し掛かった頃だった。
それは太陽の日差しがひときわ強い日だった。アスファルトからの照り返しと頭上から降り注ぐ真夏のそれがジリジリと身体と精神とを焦がす。空を見あげれば蒼穹がどこまでも続くのではないかと錯覚しそうなほどだ。
疲労と熱風とが重しになってペダルを漕ごうとする足を絡めとる。それでもしゃにむにペダルを回しながら、傾斜のある坂をジリジリと登っていく。頂上まであとどれくらいかと、仰ぐように視線を上に上げた時、その姿がまっすぐに飛び込んできた。
抜けるように青い空を背負い、大きな帽子とワンピースの色は白。ワンピースの裾と背中の中ほどまである長い黒髪を風が揺らしていた。その対比が眩しくて、思わず荒北は目を細める。
箱根は避暑地であるが故、夏休み中は家族連れなどで行楽に来るものも多い。少女の服装は”夏のお嬢さん”を絵に描いたような出で立ちだったが、ただそれだけでは済まされない異質さをも含んでいた。
最初のうちはチームメイトにやたらと女ウケするものもいたし、大方インターハイ優勝チームへの憧憬かとも思ったが、そんな浮ついたものではないことには機微に疎い荒北とてすぐに気づいた。ギラギラと、頭上にある真夏の太陽にも劣らぬ情念に燻る眼が、射殺さんばかりにある一点を見つめている。それは明らかに異質だった。
少女の姿は毎日見るほどのものではなく、また決まった場所で出くわすわけでもなかった。つづら折りの坂の途中、クライムポイント付近、ダウンヒルの終着点など、様々な場所でひとり佇み、その特徴的な姿は嫌でも目につく。ロードバイクに乗っている以上結構なスピードを出しているポイントもあるのだが、そんな僅かなすれ違いであっても少女の姿に気付く程度には目立っていた。
殆どすれ違うだけの邂逅ではあったが、数を重ねるうちに荒北は気づいていた。少女の眼差しは風除けになっている荒北の後ろ、主将たる福富寿一に対して明確なまでに突き刺さっている。
はじめは思い過ごしかと荒北も思っていたのだが、そういったことが毎週のように続くとなると流石に気のせいで済ませられなくなってくる。特徴的な白い服装も手伝ってか、終わりゆく夏を無理やり体現しようとでもしている少女は、今や部内でもちょっとした話題だった。
「今日もいたなあ、彼女」
「よく見かけるね、最近。あれはオレのファンと見たがどうかね?」
「いやいや、東堂よりもオレを熱く見つめていただろ」
練習も終わり、疲れと一緒に汗をシャワーで洗い流してしまえば、彼らはどこにでもいる男子高校生へと戻っていく。日々の学生生活、新発売の商品、雑誌の特集記事――まあ自転車の話題が多くなるのはご愛嬌だ――そんなどうでもいい話に花を咲かせる。
最近良く話題に上がるのは、誰が言い出したのか”峠のお嬢さん”についてだった。特徴的な白いワンピースはやはり印象に残るらしく、荒北だけでなく今では部員の半数以上がその姿を目撃したと口にしていた。
中でも、練習中からレギュラージャージを着る面子については特に視線を強く感じるらしく、新開や東堂などはやれ”自分のファンだ””いいやオレのだと”今日も無駄な張りあいを続けている。
彼らが言っているのは間違いなく、あの燃えるような目をした少女のことを言っているのだろう。鮮烈な印象を残すその眼差しを思い返すが、やはりどうしてもそんな憧れだの恋慕だの、そんな温かなものを源泉とするようなものには思えなかった。
「……ありゃとてもじゃねェが、そんな目じゃねェだろ」
ボソリ、とつぶやきが漏れる。言うつもりのなかった言葉がつい零れた。
この手の話題に参加しない荒北の発言が珍しかったのか、ニヤニヤと人を喰った笑みを東堂は浮かべる。
「目付きのことを荒北には言われたくないよなあ」
「うっせ」
「靖友はもう少し眼力を減らしてもいいくらいだ」
「余計な世話だっつうの」
「目付きどころか口も悪いなあ。寿一だってそう思うよな?」
そう言って、新開はシャワー室から出てきたばかりの福富に唐突に話を振った。
当然のことながら、前後の話を聞いていない福富にとって、一体何に対して同意を求められているのかわからず、濡れた髪を乱暴にタオルで拭きながら首を傾げる。
「……なんのことだ?」
「荒北と峠のお嬢さんの目付きがいいか悪いかだよ」
補足を入れたのは東堂だった。しかしそれでも福富はピンと来ていないらしく、まだ怪訝そうにしている。
自転車以外についてはまるで勘の働かない主将に対し、じれったそうに東堂は言葉を続けた。
「ほら、夏の終わりくらいからコースでちょくちょく見かけるようになった、白いワンピに帽子被った黒髪ロングな女の子! 結構かわいいよなあ、あの子」
「白ワンピはいい。男のロマンだ。素足にサンダルなのも夏っぽくていいな」
「相変わらず目聡いな、新開」
「他校の可愛い子情報とかにも強いぜ」
「ああ、総北にもいるよなあ。確か金城の――」
ケラケラと笑いあう東堂と新開。またいつものバカ話が始まった、と嘆息する荒北だったが、僅かに福富の表情がこわばっていることに気付いた。福富もこの手の話に興味が薄いのはいつものことだが、それにしては表情が硬い。
大きな喜怒哀楽を見せないこともあり、ともすれば鉄仮面などと揶揄されてはいるが、過酷な練習を共に乗り越えた事も手伝って、最近では荒北も福富の僅かな表情の機微に気付けるようになっていた。
なおも峠に現れる白い少女の話題で盛り上がるダブルエースの声を背に、黙々と着替える福富に対し、荒北はそっと声をかける。
「…なァ、福ちゃん」
「――なんだ」
「オレの気のせいじゃなけりゃよ…あの峠にいる女、福ちゃん睨んでナァイ?」
その問いかけに福富は答えない。ただ僅かに眉間にシワが寄った。それ以上の反応はなかったが、その仕草が肯定を暗に示していると何故か荒北は理解出来た。
結局その後福富がいつも以上に言葉少なになってしまった為、荒北はそれ以上の追求が出来ず、うやむやのうちに白い少女の話題は流されてしまった。
※ ※ ※
灼熱の広島を駆けたインターハイと夏休みがあっという間に終わり、新しい学期が始まる頃。
茹だるような暑さは数えるほどとなり、日差しも徐々に柔らかくなっている。風は湿気を孕んだそれから、思わず遠乗りに行きたくなるような爽やかさへと変化して身体を撫でていく。
過ぎゆく季節の中、やはり次の週末も少女は峠に現れた。飽きもせず真っ白なワンピースと大きな帽子を被り、周回を重ねる部員たちに視線を送り続けている。
駆け抜けていく風にワンピースの裾と腰ほどまである黒髪を遊ばせながら、荒北の――正確には箱根学園自転車競技部のジャージに鋭い眼差しを向ける。今日は集団の後方でやや流し気味にペダルを踏んでいるからか、その目線に焦げ付くような苛烈さはない。
周回するごとに嫌でも目に入るその姿。何度も何度も彼女の前を通りすぎる内、荒北の中で疑念が膨らんでいく。いったい何が目的で、彼女はああして佇んでいるのだろうか。
練習も終盤、荒北は集団の先頭にいた。最後は実際のレースを想定して福富を引いていると、彼女はまだコース上に居た。上りカーブの最頂点に佇むその姿は、白で固めた服装も相まって離れた場所からでもよくわかる。同時にこの距離からでもそのプレッシャーが伝わってくるほどの明確な敵意を目に宿し、まるで呪いでもかけるように荒北を、否その後ろにいる福富を睨みつけている。
「――福ちゃん、ちょっと前出てくれナァイ」
「構わんが……どういうつもりだ」
「いーから」
荒北が風除けとなり、福富を先導する。それがエースアシストである自分の役割だ。
いつもなら例え練習とは言え、このタイミングで引きを交代することはありえない。ポジションを変えて欲しいと頼んだのは、あることを確かめてみたい思いがあったからだ。
荒北の台詞は練習の上であったとしても利にかなったものなどではなかったが、福富は存外あっさりと風を切って荒北の前に出る。それを確認し、友人の背中に張り付くようにポジションを取った。
風をまとって白い少女の前を通り過ぎると、それまで感じていたよりも遥かに強い感情が荒北に突き刺さる。まるで斬りつけるようなプレッシャーが背中に叩き込まれる。遮られた福富の背に対してのものだろう。
明らかに異常な敵意を背負い、改めて確信する。やはり彼女の目的は福富で間違い無いだろう。
だが、そうなると当然の疑問が鎌首をもたげ始める。すれ違いざまに見ただけではあるが、自分とそう歳も変わらないであろう少女は、何故あのような凄惨な眼差しを福富に寄越しているのだろうか。
「……福ちゃん」
「言いたいことは解る。だが、あれは当然なんだ」
「当然って――どうしてあの女福ちゃん目の敵にするんだよ」
「憎んでも憎み足りない。そうなってしまって当然のことをした。それだけだ」
彼女の前を通りすぎてしばし。後ろに流れる風と景色を見送りながら、回転数を上げて福富に並走をする。集団から身体2つ分離れれば、耳元で唸る風の音も相まってちょっとした会話であれば聞きとられることもないだろう。
それでも注意深く声を落し、隣を走る主将にだけ聞こえるような声で荒北は疑問を投げかける。荒北の意を察してか、福富も声を抑えて淡々と語った。
「彼女にはオレを憎む権利がある。
……むしろあの目があるからオレは救われている」
「ワケわかんねェよ」
納得出来ず、なおも疑念を口にする荒北。
ぼそり、と福富が吐き出すようにつぶやくその言葉は、何かを懺悔するかのようですらあった。
福富は僅かの間、逡巡するように瞼を伏せる。告げるべき言葉を探し終えたのか、再び眼を開く。
「……オレがインターハイで落車したことは知っているな」
「あァ」
「あれは事故ではない」
告解する福富の眼差しには、深い後悔の色が浮かんでいた。荒北は訝しげに尋ねる。
「事故ではないって……接触とか、当たりか? だけど福ちゃん、そりゃあレースじゃ日常茶飯事――」
「山道のカーブ…審判も先導車も観客もいない、オレと金城だけしかいない空白区感だった。何度も仕掛け合い、その内で生じた僅かな隙を見逃さずにオレを抜いた金城の背に手を伸ばし――無理やり落車させた。」
「――なッ」
「アクシデントではない以上事故とは言えん。抜かれたくないという明確な動機があるのだから、傷害という方が正しいだろう。オレの未熟さが引き起こしたものだ」
突然の告白に荒北の息が僅かに止まる。告げられた言葉は予想を上回るものだった。動揺する荒北を知ってか知らずか、福富の懺悔はなおも続く。
「故意に手を出したオレのせいで起きた落車、加えて相手はアバラを折るほどの重傷だ。あいつが申し出れば箱根学園の優勝は即座に取り消されただろう。
だが――言わなかった。リザルトは変わらないとオレを責めなかった。責めて当然のことをしたオレをだ」
「……福ちゃん」
「しかしそれではオレの心の折り合いがつかない。何をどうすれば赦されるのか――そう思いあぐねていた時、彼女が現れた。
あの夏を忘れるなとあの目が言っている。彼女がオレの弱さを教えてくれる。許してくれとは言えないオレを、許さないとまっすぐに突きつける――あの目があるから、オレは言葉の代わりにペダルを回せるんだ」
この男は――福富寿一という男は、おそらくは断罪を受けたかったのだろう。金城が告発、あるいは福富自身がレース棄権を選択していれば、ともに今年のインターハイでの記録はなかった。ある意味で金城は福富が最も堪える選択をしたといえる。
箱根学園が表彰台を占拠するという形で今夏のリザルトは残った。その結果こそが福富を苛むと予見したのであれば大した判断だ。
「……この話は他言無用で頼む」
「――あァ」
「済まない。時期が来れば――皆にはオレから話す」
元々表情の少ない男ではあるが、今はことさらに深く沈んでいた。この話が広まれば、確実に士気は下がる。ただでさえ世代交代直後の不安定な時期だ。告げる頃合いは選ばなければいけない。だからこそ福富もこれまで己の胸の内だけに秘めていたのだろう。
思いがけぬ真実に、荒北は掛ける言葉を見つけられないでいた。元々口が回る方ではないのでなおさらだ。形容しがたいやるせなさを込めて、せめてもの代わりにペダルを回す。クリートでつながったそれは、足の力をあますことなく伝えていく。シフターを操作し、重ギアに変えればさらに加速は進んだ。
重苦しさを打ち払うようにスピードを増していくロードバイクに身を任せ、ただがむしゃらにペダルを回すしか出来なかった。
※ ※ ※
精神をも焼き焦がすような残暑も終わり、せっかちな木々が少しずつ紅葉し始める。標高のある箱根にひと足早い秋の気配が漂うようになっても、少女は変わらない白いワンピース姿で佇んでいた。
今日の天気は生憎の雨だった。先日福富から語られた事実を未だ消化できず、胸に靄がかかったままの荒北にとって、それはまるで自身の心象のようにすら感じられた。
だが、どんな天候であってもロードレースは行われる。故にしとしとと降る雨の中だろうと、荒北たちはいつものコースを走っている。路面は雨で滑り、お世辞にも状態がいいとは言い切れない。加えて道の端などにはところどころに気の早い落ち葉が固まっており、雨で湿って余計にスリップしそうになる。
まさかこんな日までいる筈がない、という荒北の淡い期待は周回一周目であっさりと打ち砕かれた。
何とかの一つ覚えなのか変わらぬ服装で――ただ違うのは白い大きな帽子が同じ色の傘に変わっていたくらいか――今日も峠に現れた。普段は帽子で隠されている表情が、今日は顕になっている。帽子越しでも強く感じた彼女の瞳は、一際燃えるような憎しみを宿していた。その視線にゾワリと背筋に寒気が走った。
ひと月以上にわたって続く彼女の情念への怖気もあったろう。あるいは今日の気温のせいだったのかもしれない。
なにせ練習で上がった体温に冷えた空気と雨が染みこんで肌寒さを覚えるくらいだ。動いている自分ですらそうなのに、夏仕様のワンピースでは更に顕著だろう。見ているこちらが寒くなる。白い服装は泥ハネだって気になるだろうに、そんなものは物ともしないと強い眼差しが主張している。
何度周回を重ねても、同じポイントで少女は彼らを、否――福富の背をただただ睨みつけている。それを繰り返すうち、荒北はもともと長くはない自身の堪忍袋の緒が切れる音を感じた。
少しばかりペダルを回すペースを落とし、わざと自分から集団の後方に下がる。練習中、荒北がこうしてクールダウンをすることはよくあるので、誰も気に止めなかった。
もっとも下がったとは言っても、トップを走る福富の背は見える程度だ。雨で烟るとはいえ、その距離は守る。
そうして少女が待ち構える場所で、いつもと同じように彼女が福富に呪いの眼差しを送っていることを確かに確認する。彼女の想いはチギれていない。季節が移ろう中、今もまだ夏の幻のように佇んでいる。
雨で濡れる路面を車体ごと傾けて滑るようにターンをする。道路脇の緩衝地帯に立つ彼女に寄り添うようにタイヤが軌跡を描く。
まさか自分の目の前でロードバイクが足を止めるとは思わなかったのだろう。飛沫を上げて弧を描くそれに驚きでもしたのか、少女は目を丸くして荒北を見つめていた。ブレーキングも完璧に決めて少女と対峙した荒北は、ぱしゃりと水音を立てて荒北は両足をアスファルトへつけ完全に停車した。
荒北の前方にいた集団は、あっという間に雨の箱根路を駆けてもう姿が見えない。それを確認した上で、何事かと己を見据えてくる少女に向け、荒北の方から口火を切った。
「――アンタ、ずっと見てるよな。それもスゲェ目で」
「…それがどうしたのよ」
不躾に本題へと斬り込めば、相手も眉間にシワを寄せて返答した。意識して眼力を入れて彼女を睨みつけても、一歩も引く気はないとばかりにまっすぐに視線は返ってくる。
その一本気さが、何故か酷く荒北の心をささくれさせた。
「オレは福ちゃんの……アンタが睨みつけてる相手のアシストだ。
エースをゴールまで持っていくのがオレの役目。アンタの目はその邪魔だ。目障りなんだよ、文字通りな」
「――そう。ならやめない」
「ハァ?!」
少女はゆらゆらとその眼を憤怒に染め、凄絶に嗤う。立ち上る気迫が全身から沸き立ち、少女の口からは呪詛がとめどなくこぼれ落ちた。そこには歪んだ歓喜さえ感じられる。
「やめないわよ。少しでもコレがあの人の妨げになっているんだったら、絶対にやめない。 少なくとも、お兄ちゃんみたいにアバラやられるくらいの目にあってもらわなきゃ――」
そこまで言って、少女はハッとしたように言葉を止める。言わなくてもいいことを勢いで言ってしまった、とその顔に書いてあった。
荒北もそのやけに具体的な例は聞き覚えがあった。少女が纏う夏を引き摺るような服装も併せて、ほとんど第六感のようなものだったのかもしれない。
「テメェ、まさか金城の――」
「。従兄妹よ」
男が漏らした微かな問いかけに、少女――は肯首する。パズルのピースがはまるように、荒北は福富がこぼした台詞を思い出していた。
『彼女にはオレを憎む権利がある』
成る程、確かに身内であれば落車の原因となり、肋骨骨折という大怪我をさせられた相手である福富を憎むのも当然と言える。それが偶然の事故ではなく、故意であったのであれば尚更だ。
「だからって――当人が気にしてねぇって言ってるのに、アンタが福ちゃん恨む筋はねぇだろ」
「じゃあ貴方が私の立場だったら、あの人がお兄ちゃんと同じ目にあったら、私のようにならないって言えるの?!」
「――ッ」
その問いかけは、酷く身に突き刺さるものだった。
荒北にとって福富はどん底から拾い上げてくれた恩人といってもいい。口にこそ出さないが、彼を強く信頼し、友人として大切に思っている。
だからそんな彼を傷つけるような、ましてや彼が愛してやまない自転車に乗れなくなるようなことになってしまったら――確かに、恨みの感情を抱かずにはいられないかもしれない。
「あの人に関わることは調べたわ。貴方のことも知ってる。荒北靖友――中学時代は野球部、新人賞を目前に故障で投手生命を絶たれ、野手転向はせず。そのまま野球部のない箱根学園に。自転車競技部には中途入部」
荒北の一瞬の迷いに気づいたのか、あるいは気づかなかったのか。は尚も言葉を強めていく。
「怪我の恐ろしさを貴方は知っている。だったらあの人がやったことがどれほどのことか、解るでしょう?
私はお兄ちゃんが怒らない分、憎まない分! あの人を――福富寿一を憎まずにはいられない!! あの人が手を出さなければ、お兄ちゃんたちはもっと上にいけた。惨敗しなかった。エースはエースの仕事が出来た!!」
指が白くなるほどに力を込め、傘の柄を握りる。は吼えるように感情を吐露させる。激しさを増すそれに、さしもの荒北も言葉を挟めない。
「まだ夏は終わっていない。終わらせない。
あの怪我で、もしかしたらお兄ちゃんは自転車に乗れなくなっていたかもしれない。私を見て少しでも思いだせばいいんだわ。自分がしでかしたことの大きさに!」
彼女の心情は痛いほどに理解し、同時に荒北はその危うさも感じていた。
確かに、自分が彼女の立場であれば、そして福富が第三者の手によって怪我を負ったとすれば、その相手を憎まずにはいられなかっただろう。そう告げるのは簡単だ。
しかしそうすることで――少女は戻れないところまで落ちてしまうのではないか。底の底、引き返すこともできないくらい深い絶望の中へ。その深淵に片足を踏み入れたことのある荒北だからこそ、次の言葉は自然にこぼれた。
「――オレはてめェみたいにはならねェよ」
「……そうね。そうかもしれない。貴方はペダルを回せるものね」
ギリッ、と。悔しげには唇を噛み締める。だが彼女が次の言葉を言うよりも早く、荒北は台詞を続けた。
「確かに怪我の恐ろしさはよく知ってる。アンタが調べたように、オレが野球やめざるを得なかった原因だからな。だから、アンタの気持ちだってよく分かるさ」
「だったら――」
福富から真実を告げられて以降、モヤモヤとした蟠りが荒北の中にあったのは事実だ。別に公明正大さを売りにしているわけではないが、金城と福富のやり取りに納得が行かなかったのは間違いない。実際その場にいたわけではないので、何も口が挟めなかったのが悔しかっただけなのかもしれない。
彼女と自分は言ってしまえば蚊帳の外の人間だ。外野が何を行った所で今更何か変わるわけでもない。それでも、心の何処かが納得出来なかった彼女は、こうして怒りをぶつける相手を探し――毎週のように峠に現れるようになったのだろう。
「――だが、憎んだ所で先に進めるワケじゃねェ」
荒北はきっぱりと断言する。自分でも驚くほどにその言葉は自然と内側から出てきた。
てっきり同調するものだと思っていたのだろうか。の顔には驚愕の表情が浮かんでいる。
まるで過去の自分を見ている気分になった。荒北自身迷いはある。立場が違えば、確かに彼女のように憎しみを拗らせていたかもしれない。
だが、それでは変わらない。変えられない。彼女は踏み込み過ぎた。ここですくい上げなければ、きっと戻ってこれない。確信じみた焦りが、荒北の口を動かす。
「前を向かなきゃ前には進まねェんだよ。
”あの時ああしていりゃア”なんてのは無意味だ。考えれば考えるほど捕らわれる。それに、どうやったってリザルトは――インターハイの結果は今更変わらねェ。
それが判ってるから、金城は福ちゃんを恨まずにいる。そうじゃねぇのか」
荒北は金城という男をそれほど深く知っているわけではない。だからこれは完全な憶測だった。ただ、福富が脅威を感じ、そして敬意を示す相手であることは知っていたから、自分の仮説に確信を持っていた。
だが果たしてこの言葉は彼女に届く自信はなかった。10分とも2秒とも取れる奇妙な空白の感覚。さあさあとふりそそぐ雨粒が体を冷やしていく。静けさを打ち破ったのは、ふるえる少女の声だった。
「……そんなの、とっくにわかってるもん」
涙なのか雨の雫なのかわからないものが眦からこぼれて頬を伝う。それを乱暴に手の平で拭いながら、は胸をかきむしるようにして、身体に巣食う澱みを掠れた声と共に吐き出していく。
「でも私は回せない。性別も違う、学年も違う私はお兄ちゃんをゴールまで連れていけない。
だから――代わりに責めるくらいしかできないのよ…ッ」
「別にペダル回せなくったって、デキるこたァあるんじゃナァイ?」
「――え?」
荒北の言葉はにとって完全に想定外だったようだ。それまでの剣幕が嘘のように、気の抜けた音が口から漏れる。
「ロードレースはサポートだって重要だからな。機材・補給・回復それこそ山のようにあらァ。実際に金城背負ってペダル回せなくったって、アンタだからできることもあるだろうよ」
「……私だから、出来ること」
ぱちぱちと、まるで音でもしそうなほどに大きく見開かれた眼が瞬く。鱗が落ちる、というのはきっとこんな表情なのだろうと頭の片隅で荒北は感じた。冷え切って色を失っていた頬が、まるで花咲くように薄紅色へ染まっていく。
尚も驚愕したままのの頭を撫ぜたのは、ほとんど無意識だった。自分で気づかぬうちにその手を伸ばし、雨風でしっとりと濡れた彼女の髪を梳かすように撫でる。一瞬ではあったがそんな自分の行動に驚き慌てて手を引くも、も男の行動に驚いたのか更に顔を赤く染めている。
行き場を失った手をごまかすように、ハンドルへ添える。改めてサドルに腰を下ろして、なんとなしに視線を宙へと浮かせて気付く。いつの間にか雨は止んでいた。太陽が雲の切れ間から顔を出し、箱根の山にピンスポットライトのように光が差し込んでいる。
僅かにオレンジに色付く光に夕暮れの気配を感じ、荒北はペダルを強く踏み込む。シューズと一体化したそれを軽く回し、装着の具合を確かめた。
「まァ、決めるのはアンタだ。そのままでいるか、前を向くか好きにしな」
クリートを踏み込み、ハンドルを傾けて旋回する。後はそのままペダルを回し続ければ、あっという間にタイヤはアスファルトを蹴って進んでいく。
秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、あっという間に暮れてしまう。生憎今日は夜間装備を持ち合わせていないため、完全に日が暮れるまでには山を下ってしまう必要があった。気恥ずかしさから逃げたいという気持ちも何割かは含まれていたかもしれない。
そのまま後ろを振り向かず、どんどん回転数を上げていく。加速度的に強くなる風が、火照った頬に心地よい。後ろのほうで誰かが呼び止めるような声が聞こえたような気もしたが、流れる景色と風に遮られて聞こえないことにした。
※ ※ ※
インターハイも終わり、夏も終わった。一時期部を騒がせた峠の少女も、あの雨の日以来めっきり姿を現さなくなった。季節は完全に秋へと移り、峠の少女の話題も立ち消えになりかけた頃、新たなメンツで挑んだ大会だった。
関東を中心とした大会であるが故、神奈川だけではなく東京・埼玉・千葉などバラエティ豊かな顔ぶれが揃っている。個人参加の他にも学校単位で出ているものも多く、世代交代後の実力を図る大会として各々が力を入れているようだ。
秋晴れの空には夏とは違うやや色の薄い青のキャンパスに鱗状の雲が浮かび、程よく太陽の日差しを和らげている。いわゆる行楽日和というやつで、運動をするにはもってこいの陽気だ。
その空気に釣られたのか周囲の参加者もどこか和やかで、インターハイのように背筋がそばだつような緊張感も薄い。規模の大きな大会ほど、あるいは強い相手がいるほど燃える性質のある荒北としては今日のような大会だと高揚するほどでもなく、どこか収まりの悪さを感じていた。
気合を入れなおさなくてはと思うものの、微妙に雰囲気に馴染めない。気分転換代わりに出場者でごたつくスタート地点付近で、気の向くまま流し気味にペダルを踏む。さてどうしたものかと短く息をこぼしたその時、ふと風に乗って聞き覚えのある声が耳に入った。思わず反射的にそちらへ視線を向ける。
黄色いジャージを身にまとう彼らには見覚えがあった。レーシングジャージに刻まれたその名は――総北高校自転車競技部。今年の夏、福富と争った”石道の蛇”こと金城真護を筆頭に、”頂上の蜘蛛男”巻島裕介、”暴走の肉弾頭”田所迅を擁し、雪辱戦を飾ろうと気合が感じられる。
そんな彼らの傍らに彼女――はいた。何名かで揃いの襟付きポロシャツを着ており、それには部の名称がプリントされている。他の部員と一緒にボトルや補給食を持ち合い、出場する選手らに手渡しながらレースに出る彼らを励ましているようだ。周囲のざわめきにかき消され、会話の内容まではわからないがその雰囲気は和やかだ。
ちょこまかとよく働くその後ろ姿に僅かな違和感を感じたが、その正体はすぐにわかった。腰ほどまでった長い黒髪が、動きやすさを重視したのかバッサリと肩口で切り揃えられていたのだ。軽やかに踊る襟足と、まっすぐに前を向く視線。かつて憎しみに染まった眼差しはまるで今日の空のように高く澄み渡っている。楽しげに彼らと言葉を交わすを見て、きっとこちらが本来の少女なのだろうと、理由もなく理解した。
荒北の視線に気がついたのか、不意にが振り返る。ヤバイ、と思い視線を外そうとしたが何故か体が動かなかった。案の定ばっちりと目があってしまい、仕方なくへらりと笑って片手を振ってやると、は照れくさそうにペコリと頭を下げた。
言葉も無くジェスチャーだけの、たったそれだけのやり取り。だというのに、荒北の心には不思議と湧き上がるものがあった。ふつふつと滾り出す闘志にも似たそれに居ても立ってもいられず、バイクをターンさせて仲間の元へと戻る。
既にチームメイトは所定の場所で準備をしていた。荒北もレーススタートに向けて戦闘態勢を整えていく。サコッシュをサポーターである部員から受け取って中身を確認する。ボトルよし、補給食よし、機材よし。全てオールグリーンだ。
それらをユニフォームの背ポケットに入れたり、ボトルホルダーへと設置するうちにドンドンと気分が良くなっていく。そんな荒北の高揚を感じ取ったのか、福富が声をかける。
「気合が入っているな、荒北」
「そう見えるゥ?」
「ああ」
即座に返ってきた肯定の声に、僅かに鼻白む荒北。断言されるほど浮かれていたのだろうかと、自嘲気味に口の端を持ち上げた。
「……まァ否定はしねェよ。今日のオレは絶叫調だ」
「この規模の大会にしては珍しいな」
「敵に塩送っちまった分、実力を見せつけてやらなきゃいけないんでね」
「――そうか」
つい、と福富の視線が動く。ごった返す人の波で遮られて入るが、その眼差しは確かに総北メンバー――先ほどまでがいた方向を見据えていた。迷いなくその方向を見たということは、福富もどうやら彼女の存在には気づいていたらしい。
しばしじっと見据えた後、ポロリと福富の口から言葉が溢れる。
「近頃姿を見かけないとは思っていたが……お前が彼女を変えたか、荒北」
「……なんのことだよ、福ちゃん」
「それはお前が一番わかっているだろう?」
「――わかんねェよ」
口を尖らせて白を切るが、それならそれでもいいさとばかりに福富は僅かに唇を動かした。まるで何かを名残り惜しむかのように微笑する。
「これからは少し背中が寂しくなるな」
「だったら――今度は違う意味で、背中魅せつけてやりゃあいいんじゃナァイ?」
「……違いない。オレは自転車でしか贖罪することができないからな」
自嘲するように笑う福富の肩へ、ガッと片手を叩きつけるように置く。虚を突かれたのか、反動で前のめりになる友人の背に乗り出すように体重を預ける。からかうように薄く笑みを浮かべて問うた。
「ところでさ、福ちゃんは知っていたんだよな」
「何をだ?」
「アイツが金城の従姉妹だってのに」
「ああ、やはり身内か。そうだと思った」
「は?! ひょっとして知らなかったのかよ!!」
なるほど、と合点がいったように頷く男に、思わず荒北の言葉が跳ね上がる。『オレを憎む権利がある』と言い切るからには、何らかの形でが金城に近しいものだと知っているものだと思い込んでいたが、どうやらそうではなかったらしい。
「詳しい関係まではな。だがあの目は間違いなく金城の関係者だと確信はしていた」
「根拠はナンだよ」
「諦めない目をしていた。あの男とそっくりのな」
「それだけ?! まさか名前も知らねぇとか――」
「知らんな」
「フツーアレだけガン見されたら、相手の素性とか気になんだろ?!」
「そういうものか?」
「そーいうモンだよ!!」
不思議そうな顔で問いかけてくる友へ対して、思わず荒北は声を荒げた。視線の鋭さだけで確信を得ていたとけろりと言い切る福富。結果的にその勘は的を射ている訳だが、流石にもう少し言葉でコミュニケーションを取るべきではないだろうか。
まあ、今回の件については直接福富が出向いた所で、色よい解決になったとは思いにくいが――おそらく自分が彼女を説得できたのは、お互い当事者の近しいポジションに居るが部外者同然であったという共通点も大きかっただろう――言葉が少ないことで拗れてしまうことだってある。
大物すぎる福富の反応に、はあと荒北は溜息をこぼす。あるいは単純に自転車以外の物事に対して鈍いだけかもしれない。さして長い付き合いではないが、おそらくは後者の色が強いと荒北は思う。
『――まもなくスタートです。出場選手の皆さんは所定の位置についてください』
会場アナウンスが流れると、弛緩気味だった空気が一気に張り詰めていく。スタート前の緊張感が高まる中、傍らの男へ改めて声をかけた。
「――もーちょい落ち着いたら、福ちゃんも声かけたら?」
「オレが、か? お前のように受け入れられるとは思えんが……」
「さっきの様子じゃ、大丈夫だと思うがね。話してみたら解決することってのは案外あるもんだぜ」
肩をすくめながらの荒北の台詞に、珍しくも福富は困ったように眉を下げたままだった。フォローのために荒北は言葉を足す。
「まっ、まずは目の前のレースから片付けておこうぜ。悩むのはそれからでもいいんじゃナァイ」
「ああ――そうだな」
短くそれだけ返した友人の横顔をちらりと伺えば、いつもの鋭い眼差しでレースに挑もうとする姿が目に入る。こと自転車に関して、気分の切り替えはさすがに早い。
荒北もすっと息を吸い込むと、軽く目を閉じて精神を集中させる。集中力の高まりを表すように喧騒が遠くなり、五感が弓引くように引き絞られていく。
その独特の感覚の中、自分たちへ向けられる意識を感じた。以前ほどの鋭さはないが、身に覚えのあるそれをたどれば、当然のようにがいる。恨みがましいそれではなく、ただただまっすぐな瞳で彼らを注視していた。
まるで挑戦状を叩きつけてくるかのような少女の眼差しに、ゾクゾクするような高まりを胸に抱える。夏の終わりのあの日、前を向かねば前には進めぬとにへ啖呵を切った手前、荒北とて無様な結果を残すわけにもいかない。
今や遅しとスタートの合図を待つ男たちへ、ピストルの音と火薬の匂いが張り詰めた糸を断ち切る。場に響く号砲と共に、獰猛な笑みを浮かべて荒北は強くペダルを踏んだ。
END
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