ココロのつぼみ


 初秋も過ぎ、山々の色合いも半ば程が朱に染まり始めた頃。やや薄雲のかかった空が高く広がる週末の事だった。
 箱根学園自転車競技部は学内施設を利用した練習の他に、校外練習を行うことも多い。その場合、ロードコースとして箱根山中を通る国道1号を多々利用している。その昔天下の嶮と歌われたように難所がそこかしこにある難しいコースではあるが、走る機会が多いとなると慣れたもので、気負わずに楽しめるポイントも幾つかある。
 先日の関東大会以後、大きな大会も予定はない。その為ここ最近の活動といえば基礎力の向上がメインであるので、大会前の独特の緊張感は薄い。九十九折の上り坂を登りきれば、眼下の景色を楽しむ余裕もあるくらいだ。
 何本かのタイムアタックをこなしたあと、クールダウンがわりに流し気味に走っているコースもまたそんな区間の一つであった。コースが楽、というわけではないのだがこの季節は両脇に立ち並ぶ樹木が見事に色付くこともあって風光明媚なポイントである。
 そんな馴染みとなった箱根のコースで、荒北は久々にある人物を目撃した。緩い坂道の途中、バス停にて車を待つようにベンチに座る人物は見覚えのある少女だった。
 いつぞやのような人目を引く白装束ではなく、肌寒さを感じる山の空気に合わせてなのか露出を控えた服装の女は、何かを探すかのようにキョロキョロと視線がせわしなく動いている。その人物が座っているのはバス停なのだから、普通に考えればそれはバス待ちをしていると推するのが筋なのだろうが、思わず荒北は漕いでいたペダルの回転数を落とし、ゆるやかな坂の頂上で足を止めた。
 その姿が果たして”彼女”であるのか無意識に確認しようとしたのだろうか。その判断を自分の内側で下すよりも早く、男の視線に気がついたのか、はたまた動きを止めた荒北の姿を確認したのだろうか、少女のほうが早く反応する。
 女はすぐに表情を明るくして腰掛けていたベンチから立ち上がり、男に向けて大きく手を振ってきた。思わず荒北は自分の周囲を確認するが、生憎と単独で走っている最中であり、自身以外にその呼びかけに該当するようなものもいない。
 確認するように片手をハンドルから離し、訝しげに自分を指さしてみれば、YESとばかりに少女がブンブンと首を縦に振る。

「荒北さーん!」

 トドメとばかりに名前まで呼びかけられた。目当ては荒北らしい。
 知らぬ相手でもないし、どうやら本当に自分に用があるようだと判断した荒北は、大地につけていた足を再びペダルと一体化させ、緩い坂道を数度の踏み込みで制していく。
 とは言え、行楽シーズン外とはいえ、本日は週末であるのでそれなりの交通量もあるので、スピードは彼女のいるバス停前で無理なく止まれる程度に程々に抑える。少女からの呼びかけに気づいて1分もしないうちに距離を詰めれば、走行する自動車の邪魔にならぬように自転車ごと歩道に持ち上げた。バス停のベンチに愛車をもたれかけさせ、彼女に声をかける。

「――あー、だったっけ」
「はい! お久しぶりです」

 直接言葉を交わしたのはこれまで一度きりではあったが、何しろ印象の強い少女だったために、その名前は荒北の記憶に焼き付いていた。確かめるように彼女――の名を口にすれば、わかりやすく少女はパッと破顔する。
 こうして荒北が直接言葉を交わすのは、あの夏の日以来だ。あの時に受けた苛烈な印象はその片鱗すらなく、特徴的だった長い黒髪をバッサリと切ってしまったその姿はまるで別人のようですらある。
 尤も、あの時の彼女は荒北から見ても相当に思いつめていた風だったし、今こうしてニコニコと相対するこちらの方が本来の彼女なのだろうと類推出来るほど、その笑みは自然でに似合っていた。

「今日ここを箱学の皆さんが通るって聞いてたんで待っていましたけど、ビンゴでしたね」
「なんでこのコース知ってンの? 夏もそうだけど」
「友達が箱学生でして。ほら、自転車部に東堂さんっていう人がいるじゃないですか。その子、東堂さんファンクラブの一員なんです。応援用のポイントとか、どの日にどのコースを回っているのかのスケジュールとかよく知ってるんですよ」
「……すげぇなファンクラブ」
「ですよねー」

 渋面を作る荒北に、明奈も釣られたのか苦笑する。
 自転車競技部は箱根学園の数ある部活動の中でも全国レベルの実力を持っているので、周囲の噂に疎い荒北ではあるが校内外にファンが居ることは知っている。概ねその矛先は同学年のチームメイトである東堂尽八や新開隼人に向けられていることも知ってはいたが、まさか校内にファンクラブまで存在しているとは驚きであった。
 ついでに言えばコース予定などは確かに定期ルートではあるが、細かな走行範囲などについては部内の人間しか知らない情報もあるはずだ。しかし現にこうして外部者にまで漏れているということは、部内に情報を外部に流している不届き者がいるということなのだろうか。
 そんな頭の痛い問題に密かにぶち当たっている荒北を知ってか知らずか、にこにことは言葉を続ける。

「そうそう。先日のレース、優勝おめでとうございます」
「お、おう。そういやあの日お前見たな」

 思いがけない祝福の言葉に、思わず荒北は鼻白む。てらいなく言われた言葉は発された通りの意志を含み、心からそう思っていることは誰の目にも明らかだ。
 先日の秋大会で荒北は久々にトップでゴールテープを切ることが出来た。主な役回りがアシストという立場上、真っ先にトップゴールを決めることは少ないのだが、その大会では荒北の方が上り調子であったこともあり、ともに出場していたエースである福富からの提案を受けて普段の役割を交代しての一位獲得であった。
 ゴール前で荒北・福富コンビと共に接戦を繰り広げたのは千葉の総北、田所・巻島コンビ。総北自転車部の主将でありエースでもある金城は、病み上がりの調整がメインだったのかトップ争いにこそ参加はしなかったが、総合順位としては上位に食い込んだ。インターハイこそ散々な結果であったが、強豪として新戦力が確かに育っていることを知らしめ、その存在感を確かに感じさせたレースであったと思う。
 だが入賞こそしたものの、金城びいきのの口から自身の優勝を祝福するような言葉が聞けるとは、荒北は欠片も思ってもいなかった。
 しかし、その言葉に僅かながらに引っかかるものがある。それは彼女の物言いではなく、むしろその秋大会時の彼女についてだ。
 ふと、荒北は今さらながらの疑問を口に乗せる。

「――つうか、その時総北のロゴ入った服着てたろ。総北生なの?」
「はい。実家は箱根なんですが、高校は総北です」
「箱根のガッコじゃなく、わざわざ総北?」
「えっと、その。お兄ちゃん…じゃない、うちの金城主将と同じ高校に行きたかったので、両親説得して総北に入学したんです」

 だから箱根に帰ってくるのって今日みたいな週末くらいなんです、とは続けた。その言葉に荒北の中でひとつの疑問が氷解する。
 例え金城の身内と言えども、あれほどまでに苛烈に福富を逆恨むことに疑念がなかったといえば嘘になる。だが、相手を慕うあまりに越境入学をしたり、おまけに高校生という身で実家を飛び出してしまうほどには情熱を持っていたとすれば、なるほど少し納得した気がした。
 しかしそうなると彼女が再びこのコースに姿を表した理由は一体何なのだろうか。そんな次なる疑問を口にするよりも早く、予想外の第三者の声が闖入してくる。

「うわ、荒北が女の子ナンパしてる!」
「チゲェ!!」

 聞き覚えのある誂い混じりの台詞に、振り向きざまに荒北は鋭く否定の声を上げる。それに一瞬驚いたように目を瞬かせたも、彼に続けとばかりに口を開いた。

「そ、そうですよ。違いますよ! どちらかと言えば逆で――」
「ヒュー、やるねお嬢さん」
「テメェらまとめて黙れ!!」

 の告白を更に煽るように男の声がその場に響く。最初に揶揄してきたものとは異なるが、こちらもまた荒北のよく知る人物が発したものだ。
 最初の一人が森の忍者――もとい、山神こと東堂尽八。後から声をかけてきたもう一人は箱根の直線鬼こと新開隼人である。ともに箱根学園自転車競技部のチームメイトであり、言動はともかくとして自転車においては双方折り紙つきの実力派である。
 突然現れた――おそらくは荒北と同じようにコースを回ってきた所で、荒北らを見かけたので声をかけたのだろうが――二人の男らは、そのまま通りすぎればいいものをわざわざブレーキどころか完全に足を止めた。おまけに自転車を抱えて、車道から達が話しているバス停付近まで歩み寄ってくる。
 荒北がそうしたように二人もまた自車をベンチやバス停に預けると、何が楽しいのかニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていた。面倒な奴らが来やがった、とばかりに顰めっ面の荒北を尻目に、人懐っこい笑みを浮かべてが会釈する。

「えっと、東堂さんと新開さんですね。はじめまして、です」
「ご丁寧にどーも。オレ達の事知ってんだ」
「はい、お二人とも有名ですから」
「まさかファンクラブなんてモンが出来るほどたァ思わなかったがな」
「はっはっは。女子によく怖がられる荒北にとってはうらやましかろう。最近出来たようなので公認しておいた」
「したのかよ、このボケナス!」

 まさかの発言に思わず荒北の声のトーンが跳ね上がる。ぎゃあぎゃあと掛け合い漫才をしている二人を尻目に、新開はまじまじとを観察するような眼差しでナンパのテンプレート文言を口にしていた。

「んー……ねえキミさ、どっかで会った事ない?」
「そうですか?」
「ハ? 腹減りすぎてボケたのかよ、新開」
「でもオレこの子どっかで見覚えがあるんだよなあ」

 新開が何かを思い出そうとしているのか、コツコツと己のこめかみを人差し指でつつく。その台詞に一瞬荒北はぎくりと身を強張らせるが、がサラリとその矛先を別の方向へと向けた。

「新開さんもこの間のロードレース大会に来てましたか?」
「ああ。出てはないけど、見物はしてたよ」
「だったら、私もマネージャーとして総北の皆と一緒にいたので、それじゃないですかね。どこかですれ違ったのかも」
「え、総北? 総北は千葉ではないか。ここは箱根だぞ?」
「まあ自主偵察みたいなものです」
「しかも荒北目当て!」
「まあそこは個人的な趣味ってことで」

 冗談交じりにポンポンと言葉をかわす間に、あっさりと話題の流れが変わる。それが意識してなのか無意識なのかは分らないが、あの夏のことを引き合いに出されるのは荒北にとって居心地が悪いので丁度いい。
 があの夏の少女であることは事実であるが、そうするとこの好奇心旺盛な東堂と新開がその真意を聞き出そうとすることは想像に難くない。だが彼女の動機を話すことはすなわちあの事件の真相を話すことと同義であり、そうなれば福富の過ちが白日のもとに曝されることとなる。
 福富は時期を選び真実を話すと言っていた。ひょんなことから明るみに出てしまうのは出来れば避けたい。しかし、彼女が自ら進んで話してしまうとなれば、荒北にはそれを止められないとも思っていた。
 一人悶々と思い悩む間にもトークテーマはくるくると変わっていく。その次なるターゲットは思いがけず荒北当人へと回ってきた。

「つうか、オレは久々に荒北を怖がらない女子を見た気がする」
「ああ、確かに。荒北は目付きも態度も口も悪いからな」
「よし東堂、そこ動くなよ。全力で殴ってやる」
「乱暴はよしたまえ!」
「やれやれ、手癖まで悪いとは更に手に負えないな」
「でも中身はすごく優しい人ですよ」 

 さらりとの口から零れた台詞に男三人の動きが止まる。特に荒北はそれが顕著で、東堂に対して振り上げた拳を中空で止め、それこそ錆びついたロボットのように音を立てて固まってしまった。
 爆弾を投下した張本人は、男たちのその反応を不思議そうに首をかしげて見ている。その真意を図るためなのか、新開が恐る恐る少女に訊ねた。

「え、それガチでそう思ってんの?」
「はい。荒北さんって優しい人ですよね」
「……荒北、お前この子を今のうちに捕まえといたほうがいいのではないか。割と本気で」
「同感だ。ここまで言ってくれるなんて男冥利に尽きるじゃないか。可愛い彼女は潤いのある高校生活に不可欠だぜ」
「今後こんなにまっすぐお前を見てくれる稀有な人材が現れるとは限らんのだぞ!」

 何故か本人よりも真剣にそう諭してくる友人二人に対して、凍結した思考を再起動させた荒北は手加減せず拳骨を彼らの頭に落とした。ゴン、と容赦無く鈍い音が箱根の秋空に2度響く。

「痛ッ、暴力反対!!」
「黙れ! 殴り足りねェよ、オレは!」
「八つ当たりも反対なのだぞ!!」
「皆さん仲がいいですね」
「……マジでそう見えンのか?」
「はい!」

 一瞬の迷いなく言い切ったに、思わずグッと言葉を飲み込む荒北。同時に殴る気もいせてしまったので、再度鉄拳制裁を食らわそうとしていた己の拳をしまう。
 すっかりと削げてしまった報復の意志を振り払うように、半ば忘れかけていた何故彼女が今日この場で荒北を待ち構えていたのかを改めて問いただす。

「つーか、なんでここにいるンだよ」
「ああ、そうだ。皆さんとの話が面白すぎて忘れるところでした。荒北さんにお礼を言いに来たんです」
「……オレ、礼を言われるような大層なことはしてねェぞ」
「しましたよ?! 少なくとも私にとってはすごく!」

 あの日、彼女に対して告げた言葉は要約すれば「悔やむな、前を見ろ、出来ることを探せ」と言った荒北からすれば至極雑で陳腐なものだったと思う。
 あの言葉がに届いたというのならば、彼女自身も変えられぬ過去を恨むという不毛さに心の奥では気付いていたからに他ならない。そうでなければ当事者ではない荒北の声はただの雑音としての中をすり抜けるだけだ。
 だからこそ大したことは言ってないと荒北は言い切ったのだが、どうやら少女にとってはそうではなかったらしい。

「と、とにかくですね。何でもない一言だったかもしれないけれど、荒北さんのお陰で考え方を変える事が出来ました。そのお礼と差し入れです」

 言いながら彼女はベンチにおいていたキャンパス地の袋を手にとって荒北に差し出す。小ぶりな肩掛け紐がついたそれは、ロードレーサーにとってとても馴染みのあるものだ。
 受け取ったそれを開けても良いかと視線だけでに問いかければ、どうぞとばかりに少女は淡く笑む。許しを得て中を検分してみれば、これまた馴染み深いパワーバーや高カロリーゼリー飲料などの補給食がぎっしりと入っていた。

「改めまして――先日は大変お世話になりました。おかげさまで何とかやっています」
「……まあ、くれるってんならもらっとくわ。サンキュ、な」
「はい!」

 面と向かって真っ正直に礼を言われるようなことなど慣れていないので、どうしても照れが入る。それを誤魔化すように普段の5割増しで愛想のない返事しか荒北は出来なかったのだが、そんなことは気にしていないのかは受け取ってもらえたことに純粋に喜んでいるようだった。

「おっ、パワーバーもバッチリとは気が利いているな」
「人のモンに手ェ出すな」
「いいじゃないか、ひとつくらい。ケチくさい」
「ウッセ」

 食べ物を確認するやいなや、新開の手がパワーバーに伸びた。近づいてきたそれを阻むようにさっとサコッシュごと避けてやると、恨みがましい視線が荒北に突き刺さる。

「しかし世話になったとは… 一体何をしたんだ、荒北」

 結構な量だぞ、とサコッシュを示しながら東堂は疑問を口にする。下世話な話であるが、パワーバーなどの補給食は1本あたりそれなりの値段がする。補給のお手軽さに比例するかのように、財布から飛んで行く金も羽が生えたかのようになくなる。確かにこの差し入れはありがたいものだが、同じ学生という身分上懐への打撃も同レベルであることは間違いない。
 東堂の至極もっともな質問に、しかし荒北とはまるで示し合わせたかのように顔を見合わせる。数瞬の間の後、口を開いたのはからであった。

「……荒北さん」
「なんだヨ」
「皆さん、例の件は知っているんですか?」
「――イヤ、知らねェ」

 例の件、と声を潜めて呟くの目に一瞬鋭さが混じったことには荒北も当然気付いた。彼女のその眼光が示すものといえば、福富と金城の落車事件に他ならない。の迫力に気圧されまいと僅かな間を置き、荒北は苦々しく言葉を吐いた。
 その空白で何かを察したのか、はフッと表情を緩め、困ったように眉をハの字に下げて東堂の質問に曖昧さを含ませて答える。

「ごめんなさい、今はまだ秘密です」
「こんな可愛い子と秘密の関係…うむ、知らないうちになかなかやるなあ、靖友」
「ウッセ! オメーは言い方がいちいちウゼェんだよ!!」

 コレやるから黙ってろ、とサコッシュの中から1つだけパワーバーを投げつければ、素早く新開の手がそれを掴む。
 躊躇いなくパッケージを開け、パワーバーを頬張り始めた級友を目ざとく見つけた東堂が抗議の声を上げた。

「新開だけ贔屓ではないか!」
「あーもーマジウゼェ!」

 元野球少年の面目躍如とばかりに綺麗なフォームでサコッシュの中から適当に掴んだパワーバーを球替わりに、藤堂の顔面めがけて投げる。しかし東堂はそれが顔面に達するよりも早く、半歩だけ身体を横へずらして危なげなく飛来してきたパワーバーを捕獲した。
 戦利品を上機嫌で食べ始める二人にやれやれと荒北は肩を落とす。やたらと口の回る彼らを黙らすには、とりあえず何か別のもので塞いでしまえばいいととっさに思ったのだが、予想以上にそれは効果をあげていた。
 ちらりと隣を伺えば、そのやり取りが面白かったのかクスクスと笑いをこらえるの姿が目に入った。荒北は先程のやり取りで生まれた一つの疑問を口にするかしないか、一瞬だけ迷う。だがひとつ迷いを吹っ切るようにして左右に首を振った後、だけに聞こえるほどの声で小さく呟いた。

「……よかったのか」
「なにがですか?」
「その、福ちゃんの――」
「ここで私が言うのはフェアではありませんから」

 曖昧に言葉を濁しながら尋ねる男に対して、女はきっぱりと迷いなく言い切った。正直な話、彼女のその言葉は荒北にとって意外なものだった。
 それに、と更には言葉を続ける。

「多分ですけど、あの人ならいつかご自身で皆さんに話すでしょう?」
「……なんでそう思ったんだ」
「この間のレース見て、ですかね。伝聞や資料では何度も見たこと有りましたけど、実際に福富さんがレースで走るのを実際に見るのは初めてだったんです。
 福富さんがエース、荒北さんがエースアシストだとは聞いていましたけど、あの試合では逆でしたよね。ゴール前での攻防の時、荒北さんも福富さんも密接しての協調行動に躊躇いは有りませんでした。そんなことが出来るくらいにお互いを信頼しているんだなって、そう思って」

 ゴール前の競り合いは感情の高ぶりからか、周囲のことなど気付く余裕もないのだが、どうやらはその様子をつぶさに見れる位置を確保していたようだった。
 レースの光景を反芻するように、言葉の途中途中で小さく頷きながらは更に語る。

「なんででしょうね。自分でもよくわからないんですけど、あえて言うなら……荒北さんがすごく福富さんを信頼しているようなので、私もちょっとだけ信用してみようかなって」

 そう言っては小さくはにかむ。そこにはかつて彼女が福富に抱いていた怨嗟はなく、すべての感情をリセットして見つめ直した結果がその微笑みに浮かんでいた。
 その語り口は穏やかで、あの日の福富と荒北のレース運びがに何かしらかの影響を与えたのは明白である。それがどの程度の強さかまでは分らないが、彼女の語り口から察するに少なくとも悪い方向ではないことは確かなようだ。
 ”今度は違う意味で、背中魅せつけてやりゃあいい”と福富に冗談交じりに言ったことがどうやら実現出来ていたらしいことに、荒北は何故か口の端がにやけ出す。
 それをに気取られぬよう渋面を作るが、彼女の言い分には1つだけどうしても問うておきたい部分があった。

「なんでオレが福ちゃん信頼してるからってのが理由になるんだヨ」
「…それを訊きますか」
「訊かなきゃわからねぇだろうが」
「あーまぁ……その、私が荒北さんなら信頼出来るって思ってるから、です」

 瞼を軽く伏せ、恥ずかしそうに搾り出すようには言葉を紡ぐ。恥じらいからかその頬は桜色に染まり、行き場のない思いを誤魔化すように両の手を閉じたり開いたりを繰り返していた。
 状況が違えばまた違った意味にも捉えられる言動に、思わず荒北の顔にも熱が篭る。

「――お前、よく素面でそういう恥ずかしいこと言えるな」
「あ、荒北さんが言えって言ったんじゃないですか!!」
「馬鹿正直に答えると思わなかったんだよ!」
「いよっ、お二人さんアツいねー」
「うむうむ、仲良き事は美しき哉」

 外野からの合いの手に、荒北とは同時に振り返った。うっかりと存在を忘れかけていたが、そういえば東堂と新開もこの場に居合わせていたということを今さらながらに思い出す。

「お、お前ら、まだいたのかよ!」
「パワーバー一本分は静かにしてやったぞ」
「完全に二人の世界だったからな。ありがたく思い給え、荒北」
「そのまま帰ってろ!」

 はやし立てるギャラリーに怒鳴るが芳しい効果は挙げられず、からかい混じりの言葉が二つ返ってくる。あまりのいたたまれなさに穴でも掘って新開と東堂をを突き落とした後に埋めてやりたい気分にかられるが、アスファルトと石畳で舗装された車道や歩道にそれを求めるわけにも行かない。
 結局のところ効果的な言い返しの台詞も思い浮かばず、荒北はひたすら苦虫を噛み潰しながら火照った顔の熱が取れるのを待つしかなかった。
 ちらりと横を見れば、も今さらながらに自分の発言に恥じ入っているのか両手で顔を隠してそっぽを向いている。羞恥に晒されているのはも同じ様子ではあったが、それをネタにからかってくる者がいない分まだましなようだ。
 そんな生温い空気を切り裂くように、坂の上からけたたましくクラクションが鳴る。その音にはっとしたようにが顔を上げ、クラクションの元になった車両に目をやり、その上部に設置された表示板を見て声を上げた。

「あ、バス来た!」
「何だ、お嬢さんは帰るところだったのか」
「はい。明日学校ありますから千葉に戻らないと。また走ってるところ見に来ますね」

 彼女に釣られるように見たバスには『箱根湯本駅行』と記載されている。一時間に2本しかない貴重なバスだが、客の入りは中途半端な時間のためかあまり良くはない。
 あたふたと荷物をまとめ、停留所に接近してきたバスに乗車の意思を示すように道路際に駆け寄った。新たな乗客を認めた運転手がちかりと左に寄せるためにウィンカーを灯し、徐々に速度を落とす。路肩に寄せられたバスが止まると、駅行きのアナウンスと共にゆっくりと前方のドアが開いた。

「――おい、!」

 乗車しようとバスのタラップに足をかけたの背中に、思わず荒北は声をかける。やや驚いたような表情で振り返った少女に、呼びかけたものの何を言うべきか考えぬままだったことに気がついた。
 数瞬の間のうち、荒北は真っ白の思考回路の中からなんとか1つだけ探り当てた言葉を躊躇いがちに口にする。

「……偵察目的以外でだろうな」
「あははっ、勿論個人的にも見に来ます!」

 荒北の台詞に対し、は屈託なく笑う。バスに乗り込んだ後も、その出発を見送る3人に向けてやけに楽しげに手を降っていた。
 やがてディーゼルのエンジン音を響かせながら駅行のバスが発車する。なんとなしに無言でその後ろ姿を見送っていた男たちだったが、その姿がカーブで見えなくなった頃ぼそりと荒北がぼやいた。

「――アイツ、偵察ってところ否定しなかったぞ」
「強かだねぇ、女の子は」
「まったくだ」
「で、荒北。実際のところ、あの子とお前の関係ってなんなのだ」

 の逞しさにため息をつく荒北へ向け、きらりと東堂の目が好奇心で輝く。その言葉に乗っかるように、新開もまたウンウンと頷いた。

「空気読んで黙ってたけど、あのやりとりはただごとじゃないよなぁ。寿一も関係あるっぽい口ぶりだったが」
「というか、やっぱり夏にいた――」
「ウッセ。も言ってたろ。秘密だヒミツ」

 終わった、あるいは誤魔化した話題をほじくり返されるのは荒北とて本意ではない。
 があの夏に現れた少女であることは、多少勘の良いものであれば気付く可能性は高い。だが、それを荒北の口から告げるつもりはないし、彼女もまた自分から名乗り出ることはないだろう。
 が峠に立っていた理由、そしてその原因であるあの落車事件の真相は、自分が話す訳にはいかない。それを口にしていいのはその当事者たちだけだ。そういう意味で、もまた自身からそれを語ることはないだろう。
 口の達者な二人に対してどこまで誤魔化しきれるかは分らないが、それでも新しく部の主将になった友人の為にも当面の間は口を閉ざさねばなるまい。

「それよかいい加減戻らねぇと福ちゃんから叱られんぞ」
「確かにな。じゃあこの話はまたあとでじっくり聞くとしよう」
「オレは言わねーからな」
「えーっ」

 これ以上聞かれた所で答える気はないことを示すように言葉を切れば、口を尖らせながらではあるものの友人たちはそれ以上の追求をするつもりはないようである。
 しかしこの調子では折にふれネタにはされるのだろうな、と今後の展開が容易に予想され、思わず荒北の口からはため息が漏れた。
 やれやれと、これからの追求に頭を痛めながら荒北は空を仰ぐ。先程まで薄く広がっていた雲はいつの間にか吹き消され、蒼穹が視界一面に展開されていた。
 なんにせよ、淵から自力で彼女が立ち直れたということは素直に喜ばしい事だ。しかしようやく芽吹いた心の蕾を外野の野次で潰されてはたまったものではない。今の荒北が福富やのためにできることといえば、沈黙を守ることくらいなのだ。
 秘密を抱え込むなんて自分の柄には合っていないが、自らの言葉で友人が皆に真実を告げられる日が来るまで付き合ってやるか、と頭上に広がる青空を見上げながら、荒北は胸の奥だけでつぶやいた。

END


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