主人公名:ちづる(愛称:チヅ) 枢軸3人が何故かオタク。
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始まりはいつも突然だ。予期せぬイベントに惑わされるうちに、事態は戻れない所まで進んでしまう。そうなれば流れに身を任せ、せめて多少はマシな護岸に流れ着くことを祈る他ない。
「父さん、転勤決まっちゃった」
あまりにあっけらかんとした一言の為、思わずちづるは聞き流しそうになったが、60秒ほど経った後でようやく事の大きさに気がついた。
「…え、じゃあ私もまたついてくことに?」
元々転勤族であるから、急な都合での引越しは慣れている。今回もそうだろうと問いかけてみれば、父は意外な言葉を口にした。
「ああ。引越しと転校はしてもらうことになると思うんだが… どうも今回の転勤先、長く持たないみたいなんだよなあ」 「ええー、じゃあまた何ヶ月かしたら転勤?」 「そう。だから父さん考えた。今日からは菊君のところに世話になればいい」 「いやいやいや、それこそなんで。今の家に私が残れば転校も引越しもしないでいいから、万事オッケーじゃない」 「そりゃお前はしっかりしているし、家事に関しちゃ問題もないけどな。未成年の女の子を一人暮らしさせるほどとーさんは能天気じゃないんだよ」 「だからといってその娘に何の相談もなく一方的に決め付けるのはどーなのよ!」 「親の保護下にあるうちは、ある程度の理不尽には耐えなさい。それが食わせてもらっているものの義務だ。 あ、新しい学校への編入届けは出しているから。推薦枠で無試験合格だぞ。新学期になっても安心だな」 「…ッ、卑怯な!」
さらり、と外堀は攻略済みと告げられ、ちづるは白旗を揚げざるをえなかった。娘の降伏宣言に満足したのか、父はニコニコと微笑む表情を変えぬまま小さく呟いた。
「まー、それに菊君ならお前任せても安心だ。――いろんな意味で」
※ ※ ※ 走馬灯めいた悟りを脳裏に描きつつ、大きなボストンバック片手にちづるは途方にくれる。眼前にはこじんまりとした戸建住宅。表札には『本田』と太明朝体で記載されていた。 事の始まりは数時間前。総合商社に勤める父が発した一言だった。 当時のやり取りを思い出し、ちづるは痛むこめかみをぎゅっと押した。まさかあのやり取りの後、本当に追い出されるとは思わなかったのだ。これまでの経験にて荷物に関しては最低限必要なものだけをある程度纏められたが、また後日自宅から運び出さねばなるまい。ちなみに当の父も同じくして赴任地へと旅立った。あの行動力はどこから湧き出るものだろうか。 父の話を信じるならば、既に学校や菊には話がついているらしい。新たな学び舎になるであろうWW学園の下見にもいかねばなるまい。父曰く、話は付いているから新学期に職員室に顔を出すだけでオッケーだとか言っていたが、事前準備を行うことは重要だ。 今後世話になるであろう菊とは従兄妹の関係にあるが、ここ数年はあった記憶がない。何しろ彼は引きこもりがちで、昔彼の家に遊びに行ったときでも、まともに姿を現すことはそれこそ数えるほどだった。風の噂で、少々強引な方法で脱引きこもりをしたとかしないとか聞いていたが、果たして現状はどうなっていることやら。そういえば彼もまたWW学園に在籍しているというから、案内を頼むのもいいかもしれない。 あれこれと考えを巡らせながら、若干緊張した面持ちでちづるは玄関のドアベルを鳴らす。そのまま暫し待つものの反応はない。不審に思いながらも2度目、3度目と押していくがやはり玄関が開く気配はない。これはまさかの留守ということなのだろうか。勘弁願いたい。 焦りが手汗として滲み出し始めた4回目。ようやく家の奥から人の気配が近づいてきた。がちゃり、とドアのカギが開く音がして安堵した瞬間――奥から出てきた人物は、ちづるの記憶の隅にある菊とはかけ離れた容姿をしていた。 上背があり、筋骨隆々という言葉が相応しい眉間に皺を寄せた彫りの深い顔立ちの男。金の髪を無造作に後ろに撫で付けているが、少々ほつれ髪が額にかかっている。青い瞳に似合わぬ、やややつれた表情には隈が目立つ。明らかに寝不足の症状だった。 あまりに予想外の展開に、ちづるの思考能力がフリーズする。おかしい、確か菊は自分と同じく東洋人だったはずだ。こんないかにもジャーマニーな容姿はしていなかったはずだ。なにより整形をしたってここまでムキムキにはならんだろう! ぐるぐるとどうしようもなく現実逃避を始めた脳内を叱咤しつつ、何とかちづるは口を開いて尋ねた。
「――えーっと。コチラ、本田菊さんのお宅ですよ…ね?」 「ああ、間違いない」 「では貴方は――」 「失礼した。俺はルートヴィッヒという。本田に一体何の用だ?」 「いや、ええっと、その……今日からコチラにお世話になるものなのですが」 「――もしや、きみがちづるか?」
暫しの沈黙の後、合点がいったとばかりにハッとした眼差しを男――ルートヴィッヒはちづるに向ける。何故か既知であった自分という存在に、ちづる自身が戸惑いを隠せない。
「本田から話は聞いている。入りたまえ、彼のところまで案内しよう」 「あ、はい。お邪魔します…」 「よければ荷物を預かろう。女性には少々難儀な大きさのようだ」 「い、いえ。自分のことくらいは自分でしますので。お気持ちだけ頂いておきます」 「――む、そうか」
若干ルートヴィッヒの威圧感に警戒しつつも、ちづるはおずおずと本田家の軒を潜る。大柄なルートヴィッヒには日本家屋は窮屈そうで、ひさしを潜るたびに背を丸める彼の姿に先ほどとは別の感情が湧き上がる。やや無愛想だが、親切な人であることは間違いなさそうだ。
「…そういえば、菊さんは在宅しているんですよね」
ぽろっと尋ねたその一言に、ルートヴィッヒの足が止まる。不思議に思い、彼の様子を窺っていると、ルートヴィッヒは肺の奥底から吐き出すように、深く溜息をついた。
「いるには…いる」 「な、なんですかその反応」 「いや、その……我々は今、」
どうにも歯切れの悪い回答である。ちづるは先を促すように真っ直ぐ視線をルートヴィッヒに向ける。逸らす男と見つめる女。先に折れたのはルートヴィッヒのほうだった。
「俺と本田、それにもう一人で合宿を行っている。春休みに入った直後からだから…もうかれこれ1週間か。ここ数日は所謂修羅場になっていて、正直そろそろ言動が可笑しい。一番まともな精神状態なのが俺だったため、ふらふら出て行こうとする本田を制して玄関先まで様子を見にきた」 「…はい?」
修羅場だとか、まともな精神状態のが自分だけとか、相当不穏な単語が飛び出してきた。胡乱な視線でちづるはなおもルートヴィッヒに状況の確認を促す。
「お前の事は本田から聞いている。従兄妹が下宿することになるとな」 「はあ」
生返事を返すうち、いつのまにやらルートヴィッヒの足が止まっていた。どうやら目的地に着いたらしい。閉ざされたドアのノブに手をかけ、ことさらに真剣な顔で彼はちづるに告げる。
「――ここから先は若干、多少……いや相当苛烈な世界が待ち構えているやも知れないが、まあめげずに頑張ってくれ」
どういう意味だ、と問いかけるよりも早く、ルートヴィッヒがドアを開け放つ。 そしてその先にあった光景に、ちづるは文字通り立ち尽くすこととなった。 場は異様な空気に包まれていた。得体の知れぬプレッシャーが室内に満ちている。 恐らくは居間なのだろうが、本来団欒の場所となるべきそこには、まるで万国旗のようにA4サイズの何かが洗濯バサミで吊り下げられていた。よくよくそれを認識してみれば、コマ割がされていたり、美しい色合いで表現されたイラストレーションであったりとさまざまだった。 ふと床に目を落とせば、グラデーションや砂目、網点と各種揃ったスクリーントーン、あるいはアルコール系マーカーやカラーインクの瓶が点在、ないしは書き損じの原稿用紙が散乱している。 そしてそういったカオスの中心部では二人の男が一心不乱に机に向かっていた。一人はカリカリと、一人はぺたぺたと同じような姿勢で紙に何がしかを描きつけている。 黒髪の男は鬼気迫る表情で黙々と。明るい茶髪の男は、なにやら半べそをかいた表情で壊れた調子のメロディを口ずさみながらも、それでも手は両者ともに止めずにいた。どうやらちづるが訪問していることにも一切気付かずに、ひたすらに打ち込んでいるらしい。
――なんだこれは。
あまりに呆然としすぎたのか、ちづるの手からボストンバックが零れ落ちる。どすん、と落下音があまりに大きく響き――ゆらりと2対の双眸が彼女を射抜いた。幽鬼さながらのそれに、喉までこみ上げた悲鳴をどうにか飲み下す。
「――あ、もしかして。君がチヅ?」
弱弱しい問い掛けに、こくりと頷首すれば少年はその表情を柔らかく緩ませた。
「おれ、フェリシアーノ。ごめんねぇ、情けないところ見せちゃって」 「い、いえ。ちょっと…びっくりはしましたが」
ほっとした風にちづるが返せば、フェリシアーノもまた同じように表情を崩す。ほわりとした暖かな何かが辺りを包もうとしたそのときを見計らったかのように、次なる人物が口を開いた。
「お久しぶりですちづるさん。ようこそいらっしゃいました」 「――は……ひっ」
言葉こそ何の変哲もない、所謂挨拶の定型文といえる物だったが、滲み出る殺気に近い何かにちづるは紛れもなく戦慄した。 居間彼女の眼前にゆらりと立ちふさがるのは、数年前の記憶にある従兄妹の姿とはかけ離れたものだった。やや小柄で線の細い彼からは想像が付かないほどの、内から発せられる鬼気が立ち込める。 彼――本田菊は笑っていた。能面と揶揄されるものではなく、それは見事な笑みだったが、残念ながらそれは優美さにかける凄絶なものであった。貼り付けた笑みと礼儀正しくも有無を言わせぬ迫力で、菊はさらに言葉を続ける。
「貴方をお待ちしておりました指しあたってはご飯の支度とこちらの部屋の片づけをお願いします何しろ時間がありません速やかにかつ迅速にああそれが終わりましたらゴムかけとトーン整理をお願いしたい素人でもそれなら問題なく出来ますでしょう次の締切まで24時間を切ってますもう後がありません5割増は回避しなくてはいけないのです…ッ!」 「き、菊さん! 息吸って、息ッ!! 死んじゃうから!」 「原稿が完成するなら息などしなくても結構!!!」 「うわあ言い切った!!」
くわぁっ! と啖呵を切る従兄妹に、ちづるは二の句が告げなかった。数年ぶりに再会した従兄妹は立派な同人作家と成り果てていました。本当にありがとうございました。 ようやく、ここにきて彼女は先ほどのルートヴィッヒの言葉が正しかったということを思い知る事となる。既に二人はちづるのことなど最初からいなかったかのように、再び机に噛り付いていた。フェリシアーノの歌はますます調子外れとなっているし、菊から立ちこめる闘気は最早鬼と呼ぶに相応しかった。 あっけにとられるちづるの肩に、ぽんと優しく大きな手が置かれる。振り返れば、眉間に深く皺を刻んだルートヴィッヒの姿があった。彼の手には既に先ほど取り落としたちづるのボストンバックが抱えられている。
「…まあ、こういう状態だったんでな。理解したか」 「ものすごくしました。 ところで、ルートヴィッヒさんはあの中に加わらなくてもいいんですか?」 「今回俺は原作担当だからな。既に完了している。あとは出来上がった原稿のチェックくらいか。 …まあ、そのおかげで世話係になっているんだが」
はあ、と重い溜息を一つを零す。ああ、この人も苦労してるんだ…とちづるの中で同情めいた感情がわきあがりかけたが、それは寸出のところで霧散した。 口元が僅かに弧を描いている。単純な笑みではないその表情に、ちづるの背が僅かに震えた。
「…ルートヴィッヒ、さん?」 「だが僥倖だ。今日よりは援軍があるのだからな。さて…この地獄に足を踏み入れる覚悟は出来たかな、フロイライン。返事はjaのみを認めよう」
”Nein”といえるならばよかったのだろうが、残念なことに目の前の人物がそれを認めてくれるはずもなかった。彼もまた、修羅場の魔物に取り憑かれていたのだ。 ちづるの肩に置かれた手がしっかりと彼女の逃げ場を奪っている。後戻りできる道はなく、ただ目の前にあるのは約束された地獄だけ。 祈る神など持たぬ少女はただ、己の父に対して心底からガッデムと悪態をつく他なかったのだった。
――それから3日の間。本田邸にて4人の修羅場は続くことになる。加速度的に崩壊する人格とその中で唯一素面であった筈のちづるも、その気に中てられ段々と通常の感覚を失っていった。やることはごまんとあった。製作作業にかまけて二の次になっていた洗濯や食器の後始末、散らかった部屋の整頓作業、生きる糧となる食事の準備。なにより睡眠不足からなる言動崩壊を防ぐべく、ちづるは出来る限りの努力を行った。 寝たら起きれないと脅迫観念に縛られていた菊を必死に説得し、ほぼ舟をこぎながら着色を行っていたフェリシアーノを宥めすかして横にした。真面目な顔して発言がどんどん際どくなってきたルートヴィッヒを寝かしつけるのに一番苦労したが、睡眠の必要性を説明し、何とか納得してもらった。 4人が4人とも、己の分野における精一杯の行動を行った結果。つい数時間前にバイク便で最後の原稿を送り出すことに成功した。 ぼろぼろになった4人で集荷に来た配達員を見送り、居間で万歳三唱後、糸が切れた人形のように全員その場に倒れ附す。ちづるも緊張状態から開放されたことにより、頭の片隅ではせめてベッドに…と思いつつも心地よい睡魔に負け、ぷつりと意識を手放す。
余談ではあるが――少女が泥のような眠りから目覚めたとき、真っ先に視界に入ったのは深々と見事なまでの土下座を決めている男衆で、寝覚めの光景としては恐らく最悪の部類に入るその現実に耐え切れず、発作的に二度寝を決め込んだというのは言うまでもない。
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