Seventh Heaven
1/31: Mutation
朝というものは、世間一般的に見れば爽やかなものだろう。
晴れた日であれば窓から差し込む朝日に目を細め、混じりけのない済んだ空気に心を落ち着ける。曇りの日であれば、少々先の心配をしながら。雨が降っていれば、湿り気に少しの身震いを感じるかもしれない。
それでも、一日の始まりは大抵は穏やかなものだ。夢幻の世界から現へと意識が覚醒してくる瞬間は、それこそ重力から解き放たれたかのように感覚が浮ついている。
だからこそ――はこんな朝など認めたくなかったのだ。
視界を覆う幕と化した髪、扱いに困る冗長な手足、どこの世界記録保持者かといわんばかりの手の爪。
確かに以前にも似たような事はあった。しかしそれはそれぞれ別個に起き、このように三種同時というのは流石に初体験だった。
朝の目覚めとしてはそれはもう最悪。起きた瞬間から青ざめる一日などロクな予感がしない。
しかしそうぶすくれていたところでどうしようもない。さしあたって、ベッドから這い出して寒々しい格好をどうにかしようと思う。
以前に身体が急成長した際に、世話になっている神父から幾らかの服を与えられていた。先見の明があるのは良い事だが、事態の根本的な解決はいまだ見出せていない。現状では糸口すらも見えてこないのだ。
伸びすぎた爪に四苦八苦しながらも、とりあえず丈違いのパジャマから何とか外に出てもおかしくない服装に着替えることが出来た。多少引っかいて肌に紅い筋が出来てしまったが仕方ない。服を着れば隠れる範囲だ。そういえば、この服を与えられた時に外野が『何でそんなモンもってんだ』と不信そうに聞いていたなあと思い出す。
鏡の前に立って全身をチェックする。だが、長すぎる前髪と爪がバランスというものを吹き飛ばしていた。むう、とは唸る。とりあえず、髪の毛はよいしょとばかりに後ろへ長し、強引に視界を開かせた。ピンでは追いつかなそうだったので、髪用のゴムで結んで固定した。
そしてようやく自室を出る。取りあえずは言峰の私室に彼がいないかどうかを確認してみようと思った。
幾らかの経験を経ているので、最初のように狼狽して走ったりはしないが、それでもウンザリとはしてくる。
一体今回はどれくらいで元に戻れるのだろうか…
そんな事を考えながら歩き慣れた廊下をてくてくと歩いた。
髪の毛と爪を整えるのに暫らくかかった後――神父の私室にてこの教会に住まう者達が膝をつき合わせていた。
ちなみに今回も見事なまでに言峰が全ての手はずを行った。騒ぎを察知したランサーやギルガメッシュが乱入し、その手並に感心するやら気味悪がるやらでなかなかに賑やかではあった。
「しっかしまあ…今回は酷いな」
腕など組みつつ槍兵がぼやく。髪と爪からようやっと解放されたもこくこくと頷く。
なにしろ切る前など怪談に出てくる幽霊じみていた。三点個別でもそれなりにインパクトがある事象だというのに、それが一緒くたにこられたからにはそれはもう筆絶しがたい程の仰天事だ。
「しかしあの爪などはある意味見事だったな。上手くつかえば武器にでもなるのではないか?」
「えー、それきっと痛いよ」
「いや、そーいう問題じゃねェだろ」
ボケとボケの会話にたまらず横槍を入れる。どこかでストップをかけないと、限りなく会話の方向が明後日へと脱線していくのだろう。どうせ育つなら中身の方も育ってくれ、と口には出さないが割と本気でランサーは思う。
「――原因らしきものが判ってはいても、それが真実であるかもわからん。現状では経過を観察する他あるまい?」
三人の会話に聞き覚えのある声と影が割り込んでくる。切りに切りまくった爪や髪を始末した言峰が部屋に戻ってきたようだった。感情に乏しい声からは、それが本音か建前なのかもわかりづらい。
彼の台詞に対し、ギルガメッシュは小さく鼻を鳴らす。
「フン、悩む必要などないではないか。早く我の元に放り込んでしまえば済む話ぞ」
「あのなぁ… そういうの、本人の前で言うなよ」
「いくら先延ばしにしようと結果は同じだ。元々そのためにはここにいるのだからな」
「ハッ、そう簡単にお前らの筋書き通りにはならないとは思うがね」
なァ? とランサーがに尋ねる。しかし彼女には暗喩だらけの話の半分も理解出来ていなかった。それでも不思議そうな顔をしながら、
「…ここは頷いておいた方がいいのかな?」
「そーしとけそーしとけ。嬢ちゃんだって、自分のやりたい事やれなくなったらイヤだろ?」
「――うん。イヤだよ」
少しだけ間を置いて、は大きく首を縦にした。それを一方は上機嫌に、もう一方は不機嫌に見やる。
その中で唯一表情を微動だにしなかった神父は、ふむと考えるように呟いた。
「――しかし、こうも度々起こると面倒だな。
あまり外部の手は借りたくはないが、他の者の意見を入れてみるのも一つの手だろう」
「…ほう、よいのか言峰」
「だけを診せるのであればそう問題はなかろう。何しろ魔術とは無縁の人間だ。
丁度別件で連絡を入れなくてはならないことだしな。そのついでに打診してみよう」
そう言うと言峰は再び足を出入り口の方へ向ける。電話でもかけに行くのだろう。
足音もなく場から去ろうとしていたが、丁度部屋を出るか出ないかの境でふっと言葉を漏らした。
「時節が近づいているということか…」
彼にしては珍しく色のある声であったからだろうか――僅かな響きであったが、しっかりと根を張るかのように言葉は場に広がった。
それに合わせるように蒼い男の表情は険しくなり、英雄王は不敵な笑みを口の端に浮かべる。静寂が広がり、室内からは音が消えた。
男達の言い知れぬ雰囲気に、の全身にゾクリ、とした口上しがたい悪寒じみたものが広がる。
それは――時折見る『恐い夢』から目覚めた時に似ていると、何となく感じた。
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