BIRTH
「宮田くーんっ!」
川原ジムに女性の声が響き渡る。その場にいた殆どの者がその声の方向へと振り向いた。
そこにいた人物は開きっぱなしになっていた窓から身を乗り出し、高く結ったポニーテルを揺らしながら、なおも呼びかけを続けていた。
「宮田君ーっ! 聞こえないのー!?」
ぶんぶんと手を振りながらいうも、呼びかけられている当の本人は黙々とサンドバックを叩いている。
「おや、さん。一郎に何か用ですか?」
「あ、親父さん! お久しぶりです」
最初に彼女――に声をかけたのは、が先ほどから声をかけている宮田一朗の父であった。
「鴨川の皆さんはお元気かね?」
「もー皆元気ですよー。おじいちゃんなんか元気すぎてこっちが困るくらいです」
「鍛え甲斐のある連中が揃ってるからな、あそこは」
は鴨川ジムの会長である鴨川源二の遠い親戚筋に当たる人物で、両親を無くしたを不憫に思い引き取った人物だ。
それ以来、彼女は鴨川会長を父と慕い、ジム内の細かな仕事を手伝っていたりする。
「一郎に用があるのかい? 何なら呼んで来ようか」
「いえいえ。わざわざそうしてもらわなくても大丈夫ですよ。
宮田君が無視を決め込むなら、こちらもそれなりの手段を取りますから」
にっこりと笑う。そして大きく息を吸い込むと、更に窓から身を乗り出し――
「いっちろーくーん、あっそびましょ〜! いい加減返事しないともっと変な風に呼んじゃうぞ〜!」
妙なリズムを付けて、実に楽しそうに大声量で叫ぶ。
これには堪らず、流石の宮田も練習を取りやめの方へやってきた。
「…何か用?」
「やほ、宮田君。相変わらず無愛想だね〜。今日も元気に減量してる?」
「当分試合ないんで、今はそんなにやってねぇよ」
無愛想で悪かったな、と少々眉間に皺を寄せながらも律儀に答える宮田。
「そーかそーか。んじゃぁ今日のこの後のメニューは?」
「ロードで終わり」
ニコニコと矢継ぎ早に質問するに対し、絵に変えたような仏頂面で答える宮田。そして何故かその光景を微笑ましげに見つめている宮田父。
「それじゃあロードの後に私の家に来てね」
「はぁっ!?」
「よし、決定! あ、ちなみに逃げたりしたら”こんじょーなし”って呼んじゃうからね」
そう言うなり「お邪魔しました〜」と一声残し、あっという間に駆け出して去っていった。
有無を言わさずに、この後の予定を決められてしまった宮田は呆然としている。
「相変わらず、彼女は元気だな」
「……竜巻みたいなヒトだからね」
「鷹村を兄と慕ってるくらいだからな」
宮田は一つ溜息を落とすと、グローブを外しはじめた。
それを見て、宮田の父は少々意地の悪い笑みを浮かべながら息子に問い掛ける。
「――一郎」
「何だい、父さん」
「嬉しいだろ?」
「…………別に」
ぷいっと父から顔を背け、宮田はそう言った。
「宮田君、減量まだだから一杯くらい水物大丈夫だよね? 紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「コーヒー。ブラックで」
「判ってるよ」
時は過ぎて、その日の夜。宮田はの部屋にいた。
ワンルームタイプのその部屋は、でっかいウサギのヌイグルミがある他は特別変わったところのない、シンプルな部屋だった。
もう一つ上げるとすれば本棚にボクシング雑誌のバックナンバーがずらりと並んでいるのが、それであろう。
「はい、おまたせ。インスタントでごめんね」
「別に気にしねぇし」
「宮田君らしーわ」
くすくすと笑いながら、もテーブルをはさんで宮田の向かい側に座る。
出されたコーヒーを一口飲んで、宮田は疑問を口にする。
「――で、一体何の用で俺を部屋に呼んだんだよ?」
別にわざわざそんなことしなくてもなど…とも付け加える。
するとはにやりと笑って、宮田をまっすぐ見る。
その視線を受けて、僅かにたじろぐ宮田。
「…気まぐれっていったら怒る?」
「怒る」
の台詞に本気で苛立ちが募る。
そうなのだ。彼女は本気でこういうことを言うのだ。
彼女のペースに巻き込まれてはいけない。あくまで冷静に…
小さく深呼吸をして、もう一度宮田はコーヒーを飲んだ。
「やーねぇ、冗談よ。流石に私でも気まぐれでヒトは家に呼ばないわよ」
「どーだか…」
「勝手に鷹兄とかは遊びに来るけれど、自分から誰かを家に呼んだのって久々よ、私。
だから宮田君が来てくれなかったらどーしようって思ってたもの」
「…なら俺は久々の客って事か」
「そーゆう事。光栄に思いなさいよ〜」
照れくさいのかパタパタと手を振りながら答える。その仕草は妙に彼女に似合っていた。
彼女の事だから自覚はしてないんだろうけど、いくらでも深読みできるような台詞はやっぱり心臓に悪いな…
「ああ、そうだ! 忘れないうちにこれ渡しとくわ」
話題を代えると、はテーブルの上に置いてあった小さな紙袋を宮田へ軽く放り投げる。
「…これは?」
「バンテージ。そろそろ換え時でしょ?
――それから、誕生日オメデト」
「ああ… そういや」
中を確認すると、確かに真新しいバンテージが一組入っていた。
「お礼の一言もなしかな、宮田君?」
「…サンキュ」
「いえいえ、どーいたしまして。どーせ宮田君のことだから忘れてるとは思ってたけどね」
図星でしょ?と笑いながら聞いてくる。
実のところ、宮田は今日が自分の誕生日だという事は覚えてはいた。
ただ誕生日が来て浮かれるような歳でもないし、そんな性格でもない。ついでに正直期待もしていなかった。
だからからのプレゼントは思いもかけないものだった。単純に嬉しさがこみ上げてくるが、宮田はそれを押し隠す。
それを知ってか知らずか。続けては――
「さて、んじゃベットに横になってもらえるかな?」
とんでもない爆弾発言をかましてきた。
「…………は?」
流石に宮田もその発言に脳内が混乱している。
あっけに取られている宮田の腕を取り、はなおも続ける。
「今日は天気が良かったから、宮田君のためにお布団干しといたんだ〜。
ふかふかで気持ちイイところに一番のりっ! くぅぅっ! 羨ましいねぇ!」
女性とは思えないくらい力強く腕をつかまれ、半ば無理やり立ち上がる宮田。
そこへがエイと突き飛ばし、宮田は訳が判らぬままベッドに腰を落とした。
「さん、アンタ…一体ナニをする気なんだ?」
「ナニって… マッサージに決まってるじゃない」
はきょとんとした表情で、ベッドに腰掛ける宮田を見下ろす。
――それならそうと言えよ…
宮田は心の中でそう呟くと、どっと疲れが押し寄せる。
変にいろいろ想像してしまった自分が馬鹿のようだ。
「これがもう一つの誕生日プレゼント。何考えてるか知らないけど、さっさとうつ伏せになったなった」
「…わかったよ」
そう言うと、宮田はごろりとベッドに横になる。
シーツに顔をうずめると、途端に鼻をくすぐる洗剤や柔軟剤の芳香とは異なる、乾いた独特の匂い。
なるほど、確かに彼女の言う通り、その布団からは太陽の気配がした。
「んじゃ失礼しまーっす」
言うなり彼女は宮田の背中に馬乗りになった。鍛え上げられたそれではない、柔らかな肉の感触が布越しに伝わり、これには宮田も慌てる。
ぐっと上半身を起こし、首をひねって彼女へ懸命の抗議を突きつけた。
「ちょ、ちょっとさん!?」
「おとなしく寝てなさいって! こうやった方がやりやすいんだから」
軽く拳骨で頭を殴られ、渋々もとのうつ伏せの体制に戻る宮田。だがその心中は複雑だ。
さしもの宮田一郎とて、年頃の男なのだ。好意を持った女とのゼロ距離に理性がもつか、そら怪しい。
そんな宮田のことなどお構いなしに、「これでもちゃんと勉強したのよ〜」といいながらは手際よくマッサージを行う。
背骨にそって手の腹で体重をかける。首筋から肩にかけて揉み解す。腰の筋肉の筋にあわせてゆっくりと押す等など。
の腕は確かで、効率よく筋肉の疲労を解いてゆく。
宮田は触れ合う肌の感触や、間近に感じる彼女の息遣いに意識をとらわれていたが、そんな事は口が裂けてもいえない。ただいま、理性と衝動の間で崖っぷちである。
柳眉を寄せてしかめっ面になりかけている宮田に、は問い掛ける。
「どう宮田君? 気持ちいいかな」
「…まあまあ」
少し間をおいてそう答える。本当はかなり気持ち良い。
日々の過酷なトレーニングによる疲労は、どうやら自覚外のところで蓄積されていたらしかった。身体から余計な力がゆっくりと抜け落ち、活性化された血流も手伝って、筋肉に降り積もっていた疲労物質が排出されていくような気さえする。
「ほんっと、可愛げ無いわねー」
くすくすと無邪気に笑いながらも、マッサージをする手は休めない。
彼女の手の体温がシャツ越しに伝わる。時に優しく、時に力強く。の手がまるで魔法のように宮田の身体を、そして心すらも揉み解してゆく。
ここは大人しくしておくか…
うっとりとしたその心地よい感覚に宮田は自然に目を閉じる。背中越しに伝わる彼女の真心を感じながら、宮田は僅かに微笑んだ。
「――やけに大人しくなってると思ったら寝てるし、宮田君」
一通りのマッサージを終えて宮田の様子を見てみると、彼は小さな寝息を立てて眠っていた。
起こさないようにそっと身体から離れベッドから降りる。
は眠っている宮田の顔を見つめた。
…悔しいけど、下手な女よりよっぽど美人よね、宮田君。
肌白いし、睫毛なんてビューラーいらないし。
そう思うと少々憎らしくなり頬を突付いてみる。
減量前の宮田の肌は、見た目通り綺麗で弾力があった。減量中はこれが見る影もなく荒れ果てるのだが、十分な栄養があればこれこの通り。ついでに髪の毛を梳いてみると、これまたサラサラの極上品。宮田のことだから、ろくに手入れはしていないだろう。それなのにこの美しさ。こうなると逆に憎らしくなってくる。
「…そーだ」
ふつふつと湧き上がる女としての嫉妬感。
そして、何か思いついたのか――は含みのある笑みを浮かべた。
宮田が目を覚ましたのは、意識を手放して小一時間ほどあとだった。
ぼんやりと半身を起こすと、身体から掛け布団がずり落ちた。どうやら寝ている自分の身体にがかけてくれたものらしい。
ふと彼女の姿が無いのに気付き、視線を部屋全体へ彷徨わせる。
程なくの居場所はわかった。テーブルにつっぷしてすやすやと眠っていたのだ。
――相変わらず無防備だな、オイ。
自分もマッサージの心地よさに負け、眠っていた事を棚に上げてそう思う宮田。
ベッドから降りて大きく身体を伸ばす。身体にたまっていた疲労はすっかり抜けていて、軽く感じる。
眠っている彼女の方へ歩み寄ると、規則正しい呼吸が聞こえる。
「おい、さん――」
軽く肩を揺さぶるが眠る彼女は起きる気配が無い。小さく唸りながら首をごろりと宮田の反対方向へ向ける。
無意識下でも起きる事を拒否しているようである。
なおも数回肩を揺さぶるがまるで効果なし。宮田は起こす事を諦めた。
「…せめて机じゃなくてちゃんとしたとこで寝かせるか」
呟いての腰へ手を回し、腕を肩へ回す。意識の無いの身体はそれにしたがって宮田に体重を預けてきた。
現役ボクサーの筋力は伊達ではなく、宮田はベッドまで難なく運んで横たわらせる。そこまでしてふと気付き、彼女が自分にしてくれたように軽く身体に布団をかけてやった。
こういう気配りが…出来るヒトなんだよな、本当は。普段は騒がしいくせに。
くつくつと思い出すように声を殺して笑うと、宮田は眠る彼女を見る。
安心した様子で――自分の家なのだから当然だが――眠る彼女はいつもの騒がしさがないせいか、雰囲気が違って見えた。
特徴のある鋭い眼光は伏せられた目蓋の裏に隠れることでなりを潜め、幾分幼さを感じさせる。いつものトレードマークのポニーテールも珍しくおろしているせいもあるだろう。
「ホント、こうしてたら普通の女みたいだ」
不規則に広がる彼女の長い髪を一すくいすると指に絡めとる。常日頃、は宮田の頭髪を見ては「男のクセに、何でそんなに綺麗なんだ!」と愚痴を面と向かってこぼしてくるが、宮田から言わせて見ればよっぽど彼女の髪の方が綺麗だと感じていた。それを告げれば、きっとらしくなく顔を染めて、恥らう様子を見せてくれるのだろうけれど――残念ながら、彼女が起きているときには言えそうにはない。
「――今日はありがと。…さん」
この言葉も、が起きていたら多分言えそうに無いから…今ココで言っておくよ。
そう心で告げ、手にした一房の髪に唇を合わせる。手で感じるよりも柔らかく、そして甘い匂いすら感じた。
くすり、と小さく笑ったその瞬間。
「……た…」
女の唇が僅かに動く。ギョッとしての顔を見つめる宮田。反射的に彼女の髪の毛を指から放す。
――起きたか? それとも…単なる寝言か?
神経を集中させ、彼女の様子を伺う。
するとはこの上も無く幸せそうな寝顔でこう呟いた。
「…ねぎぬた〜」
……
……………
何でよりによって”ねぎぬた”なんだよ。
がっくりと肩を落とし、全身の力が抜けた宮田だった。
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