ジレンマ


 新学期も始まり、一日遅れの入学式も終わってしばらく立った頃。昨夜までの雨が嘘のように気持ちよく晴れ、降り注ぐ春の日差しが心地よい日の事だった。
 退屈な授業も終わり、ようやく待望の部活動時間ではあるが、ポカポカとした春の陽気と穏やかな風に誘われて思わず零れた欠伸を巻島は噛み殺す。昨日は部活後に裏門坂で小雨交じりの天気の中クライムアタックを繰り返していたこともあり、いつもより消耗が激しかったらしい。本日の授業の大半をうとうとと微睡みながら聞き流し、体力の回復を図っていたのだが、まだ少し身体に疲労感が残っている。濡れた路面でスリップしてすりむいた肘がカッターシャツに擦れてわずかに痛む。
 一年間ほぼ毎日通って慣れた部室までの道のりは、目を閉じていても辿り着けるのではないだろうか。そんな寝言じみたことを弛緩した頭で考えながら気怠げに歩いていると、見慣れぬ少女が部室前に佇んでいた。
 春風にさらりと流れる腰までの黒髪が印象的で、盛りを過ぎた桜の花びらが時折舞う光景と併せて、まるで映画か何かのワンシーンのようにすら思える。真新しい制服を身にまとっているところを見ると、新入生だろうか。
 しかし、彼女が立つ場所は巻島の目的地である総北高校自転車競技部の部室前だ。丁度うまい具合に進路を妨害するようなポジショニングのため、彼女を避けて部室に入ることが難しい。そこに居られたままでは大変に困る。巻島はなんと声をかけるべきか逡巡するも、うまい言葉が見つからずなかなか行動に移せないでいた。
 巻島自身も半ば自覚をしているのだが、どうも自分の物言いは初対面の――特に年下や異性相手には刺々しく届くところがあるらしく、新入部員からも若干心の距離を置かれることが多い。
 参ったな、と心の中で呟きつつ頭を掻いていたところ、少女も巻島の存在に気がついたらしく、カバンを片手にくるりと振り返って彼女から声をかけてきた。

「あの、すみません」
「……なに?」
「自転車競技部の部室はここで間違いないでしょうか」
「カンバンあるっショ? てか、なんでオレに声かけたっショ」
「部員の方ですよね」
「……だからなんでそう思ったっショ」

 巻島の相槌は少々愛想に欠けるものだったが、少女は気にすることも物怖じすることもなく、ニコニコと言葉を返してくる。

「髪の色です。巻島先輩のこともお兄ちゃんが家で話してますから」

 そう言って少女は自分の髪の一房をつまみ上げる。確かにこの学校で玉虫色の髪をした人物は己以外にいるまい。そういう意味で、ある程度有名人である自覚はある。
 成る程、と納得していると、少女は何故か憧憬すら感じさせる眼差しを巻島に向け、口を開いた。

「巻島先輩ってすっごいですよね! 実は以前一度だけ走ってるのを見かけたんですけど、ホント速くてびっくりしました!」
「――はぃ??」

 少女は目をキラキラと輝かせながら、巻島を称える言葉を紡ぎ出す。何の前触れもなしに語りだした台詞に、思わず巻島は素っ頓狂な声を上げた。しかし彼女のマシンガントークはその程度の静止では止まらない。

「先日ちょっと遅くまで残っていた時があったんですけど、夜にあの激坂を登ってましたよね。あんなに楽しそうに坂を登る人、初めて見ました。私、つい見とれちゃって」

 声を弾ませ、語り口調に情熱を乗せる少女の姿に偽りは感じられない。心底そう思っているのだと痛いほど判った。それだけに巻島は気恥ずかしさを隠せない。
 普段否定されっぱなしの自分のスタイルを、こうも真っ向から褒められたことはなかった。不気味だ、異様だ、滑稽だなどとは言われ慣れているが、綺麗だなんて言われた覚えがない。みるみるうちに自分の頬に赤みがさすのが自覚出来る。

「特に印象に残ったのが、バイクを地面すれすれにまで傾けながらのダンシングです。理屈とかそういう細かいことはわかりませんけど、そういうの抜きにしてかっこいいって思いました!
 それから――」
「ちょ、ちょっと待つっショ。結局お前は何の用でウチに来たっショ?!」
「あ、そうでした。忘れ物を届けに来たんです。真護お兄ちゃんの」

 止めどなく零れていく美辞麗句に耐え切れなくなって、慌てて巻島は強く静止するように彼女の目的を問いただす。
 問われてようやく本来の目的を思い出したのか、はっとしたように少女の口から飛び出た意外な単語に、思わず眉を寄せながら男が聞き返した。

「真護……って、金城?」
「はい、そうです」

 コクリと頷く少女の顔を思わず巻島はまじまじとみる。”お兄ちゃん”と呼ぶからには兄妹か何かだろうかと思うも、あまり顔つきは似ていない。確かに人を真っ直ぐに見つめてくる目の強さは似ているかもしれないが、強いて挙げるならというレベルだ。
 金城とはこの学校に入ってからの付き合いであるが、何度か彼の自宅を訪れたこともある。しかし彼女の姿や存在を匂わせるようなことはなかったと思うのだが――と巻島が逡巡していると、

「――じゃないか。どうしたんだ、こんなところで」
「あ、お兄ちゃん!」
「随分と話し込んでいたようだな」

 噂をすればなんとやら、であろうか。彼女の目当てである金城真護その人が、微笑混じりに二人へ近づいてくる。そんな友人へ巻島は半眼で、

「……ところで金城。いつぐらいから聞いてたっショ」
がお前を褒めはじめたあたりからかな」
「だったらもっと早く止めに来いよ!」

 彼の口ぶりから、自分たちのやり取りを観察していたのではなかろうかとカマをかければ、あっさりと金城はそれを認めた。悪い予感は当たりやすいものである。
 自分一人だけならまだしも、第三者に聞かれていたとわかれば忘れかけていた羞恥心が復活してくる。数歩分離れていた金城との間をサッと詰めると、一瞬怪我のことを忘れ、思わずすりむいていた方の腕で彼の首に肘関節を引っ掛け、無理やり身体の向きを動かした。微かに痛みが走るがまゆを少しだけ眉間に寄せることで受け流す。
 それ以外にはさしたる抵抗もなく思惑通り、少女――を背にするように仕向けたことを確認して、巻島は声を抑えて彼に問うた。

「あの子なんで本人目の前にして、滅茶苦茶恥ずかしい事言うッショ?!」
「恥ずかしい?」
「だから、その……フォームだとか、格好良い、だとか……ああっ、テメェで言うのも恥ずか死ねる!!」
「悪い事じゃないだろう? もお前のフォームには特に感心してたからな」
「そうだけど、そういう事じゃなくてェ!」

 この天然共め!! と心の中で叫ぶ。どうせ口にしたところできょとんとされるだけなのだろうが、言葉に出さないのはせめてもの友情と気遣いだ。
 どちらにせよこの件をこれ以上引っ張っても巻島に利益は何もない。やりきれなさは残るが、とりあえず金城の拘束は離してやることにした。

「……あーもういい。これ以上言っても、オレが恥かくだけっショ」
「やけに疲れてるな」
「誰のせいだと思ってるっショ……
 てか、お前に妹がいたって話、聞いたことなかったけど」
「ああ、妹ではないからな。従兄妹だ。うちに下宿している」
です。今年総北に入学してきました。よろしくお願いします!」

 ぺこり、と頭を下げたは、その表紙に何かを思い出したのか、バネに弾かれたようにぱっと顔を上げると、あたふたと手にしていたカバンを弄り始める。

「そうそう、お兄ちゃんこれ忘れてたでしょ」

 そう言ってはカバンから一冊のノートを取り出した。その中に一枚のプリントが折られないように挟み込まれている。細かな数式が書かれたプリントは巻島にも見覚えがあった。数学の課題プリントではなかっただろうか。

「リビングに置きっぱなしだったよ。これの提出期限、今日だって言ってなかったっけ?」
「ああ、そうだ。やはり家においたままだったか。
 さっき先生に一日遅れるといってきたところだったんだが……今から持っていくか。ありがとう、助かる」
「お兄ちゃんって普段しっかりしているのに、時々抜けているところがあるよね」
「あー、あるな」
「巻島先輩もそう思いますよね」
「ああ。自転車関連ならしっかりしてるんだけどな」

 少女からの金城評が存外に的確で、思わずしみじみとした言葉が出てくる。1年という限られたつきあいの中ではあるが、色々と思い当たる節がありすぎた。

「今日も部活で遅くなるんだよね。怪我しないよう気をつけてね、お兄ちゃん」
「ああ、ありがとう」
「巻島先輩も気をつけてくださいね。今日は雨上がりで、裏門坂のコーナーとかにはまだ湿った葉っぱとかがあるみたいでしたから」
「お、おう」

 自分にも気遣いの言葉が来るとは予想できず、巻島はとっさにそんな一言を返すのがやっとだった。それ以上の礼を言うまもなく、は再び小さく頭を下げると、ぱっとその身を翻して駆け出していく。ひときわ強い春の風が巻島の長い髪を揺らし、一瞬視界を塞いだ。それをかき分け、再度クリアな世界を取り戻した頃にはすでに彼女の姿は見えなくなっていた。もとよりこの部室棟近辺は死角が多いので、大方どこかの建物の影にでも入ったのだろう。
 の心配は有難いのだが、すでに僅かながらではあるが怪我をしている身としては少々バツが悪い。どこかむず痒いものを抱え、言葉にできぬそれをごまかすようにガリガリと頭をかきむしった。
 そんな友人の仕草に何かを察したのか、金城はその口角を僅かに上に向ける。

「――さて、来て早々だがオレは一旦職員室に寄ってくる。練習参加は少し遅くなると伝えてくれ」
「あぁ、わかったっショ」
「手当はちゃんとしておけよ」

 言って金城は軽く己の腕を指し示す。その場所は昨日巻島が擦り剥いた場所と同じ箇所を正確に指している。
 慌てて自分のそれを見てみれば、白いシャツにほんの僅かではあるが赤い染みが付着していた。先ほどの戯れの際にどこかの瘡蓋が剥がれてしまったのだろうか。しまった、と思うがもう遅い。

ちゃん……だっけか。気づいてた?」
「多分な。あれで細かいところに気がつくんだ」
「……まァ、今日は転けないようにするっショ」
「そうしてくれ」

 照れくさそうに言葉を返すと、それに応えるように金城も破顔する。目敏いチームメイトとその従兄妹に脱帽するように巻島は肩をすくめた。

※ ※ ※

 夏休みがあけても、まだまだ太陽の隆盛は続いていた。それでも一日ごとに落陽が早くなっていることを思えば、季節は確実に次のステージへと進んでいるのだということを知らしめていた。
 いくらか勢いの減ったセミの合唱をBGMにペタリペタリと覇気の無い足取りで、玉虫色の髪をした男がポケットに手を突っ込みながら廊下を歩いている。男――巻島裕介は己の所属する自転車競技部の部室へと向かう途中なのであるが、大体月に一度の割合で回ってくる部活動の予算申請書作りに時間を取られ、今の今まで教室で書類を作成していた。部室で行うとどうしても作業を放り出して練習に明け暮れてしまうため、敢えて放課後人気のなくなった教室で領収書などと格闘していたのだ。
 おおまかな部分は新部長となった金城が作成してくれているとはいえ、どうにもこういう作業は性に合わない。しかし、何でもかんでも部長へ押し付けるのも座りが悪いので、後輩にクライマーのいない巻島が会計担当、面倒見のいい田所が後輩たちの指導育成を担う事となったのはつい最近のことだった。
 夏大会は終わったとはいえ、秋の新人戦代わりになる地方大会は目前に迫っている。今は一分一秒でも練習に時間を費やしたいのだが、いかんせんそううまく回らないのが現実というものであった。
 今度の大会は三年生が抜けてから初めてとなる試合ということもあり、試金石的な位置付けにある。エントリーは既に済ませているが、距離も比較的長めであることから、途中で補給地点がある本格的な試合でもあるので、補給物資の手配や配布メンバーの選定も必要となる。今までそれらは上級生が主に取り仕切っていたことだが、これからは自分たちが中心に取り仕切る必要が出てくる。単純にペダルを回すだけではなく、そういった細々とした作業で練習時間が削られるのはどうにも歯がゆい。
 やれやれと、慣れない作業で凝り固まった首をコキコキと鳴らしながら、窓の外をなんとはなしに眺めると、うっすら帯状に伸びた雲越しに薄い青空が広がっている。日差しはまだまだ強いが、日常のあちこちで季節の移ろいを少しずつ感じることが出来るようになってきた。
 そんな景色の中に、ぽつんと佇む見覚えのある後ろ姿を見つけた。巻島のいる二・三年生の教室が主に入っている旧校舎と、一年や専門教室を多く抱える新校舎を繋ぐようにして渡り廊下があるのだが、二階部分については筒状の構造に、三階部分は撥水タイルを敷いて転落防止用のフェンスを設置しただけの露天廊下となっている。
 そんな渡り廊下の三階部分のほぼ中央に彼女――はいた。ちょうど自転車競技部の部室に行くには、その渡り廊下の二階か三階部分のどちらかを利用するのが一番近い道程である。暫くの間、巻島は彼女の行動を窓越しに観察してみたが、どうにもが動く様子はない。男は数秒間迷った末、己の足を件の渡り廊下へと向けた。
 もともと巻島がたまたま立ち止まった地点から、彼女がぼんやりと彼方を見ている渡り廊下までは大した距離はない。ややもせぬうちに渡り廊下を仕切るアルミサッシの扉の前まで到達する。
 より距離が近づいてみて判ったことは、の表情に対しての違和感であった。春に部室の前で金城の忘れ物を届けに来た時の秋名への印象は、素直かつ目端の利く利発な少女といったものだった。事実、その後に時折校内ですれ違ったりした際には、ぱっと表情を明るくして会釈してきたり、あるいは金城が時折溢す話題に登場する彼女もまた天真爛漫さを感じさせるものだった。
 それが今はどうしたことなのだろうか。キラキラと輝いていた彼女の瞳は、霞がかったかのようにどんよりと濁っていた。
 その原因として一番に思いつくのは、先日起こったインターハイにおける金城の落車事故であることは想像に難くない。あれほど敬愛している金城が大怪我をしたのだから、その落ち込みようは仕方がないとも言えるが、それにしては様子がおかしい。否、おかしいと言うよりも、彼女を見ていると心の奥が不穏にざわつく。悪い予感、とでも言えばいいだろうか。自慢ではないが、己のこういった悪い予感はよく当たるのだ。ありがたくないことに。
 今の彼女は何か行き場のない感情を持て余している、とでも言うのだろうか。迷いや焦燥、もしくは戸惑い。そういうものを自分の内側に溜め込めるだけ貯めこんで、暴発寸前――あるいはすでに爆発させた後なのかもしれない――のように見えるのだ。
 ともすれば今にも己の眼前でフェンスを乗り越えてしまいそうな気さえする。そんなはずはないと思いながらも、もしかするとという不安がこみ上げてくる。
 そんな馬鹿げた妄想を首を横に振って払い、そっと彼女の側に近寄る。放課後特有の小波のような喧騒に紛れてか、少女が巻島の気配に気づく様子はない。小さく丸まるの背中を前に、一瞬だけ躊躇をして巻島はその細い肩にポンと手を置いた。

「よう、ちゃん」
「うひゃ?!」

 ハッと、その感触でようやく気付いたのか、は素っ頓狂な声を上げながらその身を翻す。
 振り返った先に見知った顔がいることに安堵したのか、へにゃりとこわばった表情をほぐして巻島と対峙する。

「あ、巻島先輩。こんにちは」
「……何してんの、こんなトコで」
「チャリ部の様子を見てました。ここからだと、部室前がよく見えるんです」

 アルファベットの”H”のように繋がれた渡り廊下は、向かい合わせた校舎の三階同士を繋いでいる。その通路は両脇に落下防止のフェンスがある程度で、ほぼ吹きさらしだ。
 彼女が立つ所から視線を同じ方向に向けると、部室長屋の外れに立つ自転車競技部が思いの外よく見えた。少々遠目ではあるが、見るものが見れば人物の把握はできる。あの坊主頭は金城だろう。その隣にいるひときわ大きな男は田所に違いない。二人は何が歯科髪を見ながらあれこれと話しているようだ。流石にこの距離では会話の内容までは把握できないが、なんとはなしに雰囲気は伝わってくる。

「へぇ……上手いこと見えるもんだな」
「私だけの穴場ですからね」

 感心するような巻島の言葉に、少しだけ得意げに頷く少女。
 くるりとはプリーツスカートを翻して身体を巻島ヘ向け直す。にこりと手本のような笑みを浮かべて、そう言えばと問いかけた。

「先輩こそどうしてココに?」
「あー、予算の申請書作りで時間取られてな。大体作り終わって、ようやく解放されたところ」
「二学期分の申請ですか。ふふっ、お疲れ様です」

 言っては微笑む。朗らかなそれに杞憂だったかと安堵しかけるが、それが彼女なりの強がりなのだと示すものを見つけてしまい考えを改めたる。
 薄い笑みの奥、隠し切れない憂いの気配が目元のクマとして現れている。確かに夏の隆盛は夜にも及び、随分と寝苦しい日々が続いてはいるが、睡眠を阻害するほど、なにか思いつめているのだろうか。
 間近で接して改めて感じる不穏な空気に、巻島は言うべきか迷った言葉をそっと囁くように紡いだ。

「……金城が心配?」
「――?!」

 その一言であからさまにの表情が変わった。微笑みのベールが崩れ、焦燥が表に出てくる。カマをかけたつもりだったが、どうやら一発目で当たりを引いたらしい。

「……なんで、そう思うんですか?」
「穴場って言ったろ。てことは、ウチのチャリ部を見れる場所を幾つか知ってるってことッショ。んで、そうまでしてちゃんが見たがる奴は、考えるまでもなく金城しかいねェ」
「……」

 巻島もただ当てずっぽうで言ったわけではない。それなりに根拠を持っての推理だったわけだが、どうやら的を得たものだったようだ。
 なおも続く男の台詞を、少女は唇を一文字に固く結んで静かに聞いている。

「おまけにあいつは病み上がりだ。そりゃあ心配で仕方ないッショ」
「そう、ですね。お兄ちゃん、自転車のこととなるとすぐに無茶をするから……心配です」

 指摘を受けて崩れた笑顔の仮面の下には隠し切れない影がちらついていた。親身になって話を聞くほど親しいわけではないが、それでも見知った顔がしおれている姿というのはどうにも居心地が悪い。
 何しろ先に声をかけ、が取り繕っていたそれを暴いてしまったのは他ならぬ自分なのだ。彼女に関わらないという選択肢があったはずなのに、敢えて踏み込んだ事実は変わらない。
 それでも、小さく丸まった背中を放置することは出来なかった。寂しさや焦り、あるいは無力さを抱え込んだ姿を放っておけなかった。何しろ彼女には恩がある。否定されがちな自分のスタイルを真っ向から認めてくれたことを巻島は覚えている。照れくさくはあったが、あの言葉が嬉しかったことは間違いのないことだった。
 がどれほどの葛藤を抱えているかは巻島には判らない。だが、内側に飲み込むだけよりは、多少なりとも吐き出させたほうがマシにはなるだろう。そう思い、巻島は敢えてあっけらかんとした口調で提案する。

「だったら、もっと近くで見張ってればいいのに。それこそマネージャーとか」
「マネージャー、ですか」
「万年人不足だし。多少のことは皆で分担してやってるけど、それより練習に打ち込みたいってのが本音っショ」

 言いながら巻島は大仰に肩をすくめる。あんな肩の凝る申請書づくりに時間を取られるよりも、その分ペダルを回すことに傾けたいと思うのは巻島も同じだ。
 男の言葉を受け、はフムと何かを思い出すように小さく頷く。

「ああ……そういえば、手嶋くんや青八木くんがチャリ部に入らないかってたまに言ってきますねえ」
「なに、知ってんのウチの二人」
「クラスメートなんです」

 意外なところで繋がりがあるものだと、内心巻島は偶然に舌を巻いた。
 友人である田所を慕う彼らが時折部室で雑務をこなしている際に、『アイツがマネージャーになってくれればいいのに』だの『……無理強いは良くない』だのと堂々巡りの会話をしていたことを思い出す。成る程、時々あの二人が話題にしていたのは彼女のことだったのか。
 自分よりよほど馴染みがあるだろうクラスメートからの誘いを受け流すからには、既に何かしらかの部活に所属しているのだろうかと問いかけてみる。

ちゃんはなんか部活入ってるっショ?」
「いえ、特には」
「だったらどう?」
「そうしたいのはやまやまなんですが――」

 しかしその言葉にはより一層表情に影を強く落とした。躊躇うように僅かな間をおいて、ドロリとした感情が溢れる。

「――近くにいすぎると、見たくないものまで見えちゃいますから」

 地雷を踏んだ。
 男がそう思った時にはすでに遅かった。一度開いた釜の底がそう簡単に閉まるはずもなく、彼女自身も鬱屈した感情のはけ口を求めていたのだろう。とつとつと語り始める。

「最初は、そのつもりだったんです。
 箱根から千葉に来たのも、少しでも多くお兄ちゃんと一緒にいたかったからってのがありますし」
「箱根、から?」
「高校に通うためにお兄ちゃんのところに下宿しているのは知ってますよね。
 私の実家は箱根で、お兄ちゃんが通っている学校にどうしても行きたくって。でも流石に実家から総北に通うのは難しいから、説得とか色々頑張りました」
「頑張りましたって……」

 確かに総北高校は学校としての取り組みで、越境入学制度を取り入れている。その為、一学年に片手分ほど県外からの入学者というものがいた。千葉県内でも珍しく自転車競技部があったりすることで、制度を利用して遠方から志望してくる生徒も稀にいる。
 しかし、学校や部活が目的ではなく、たった一人だけを理由に飛び込むものがいるなんて思ってもみなかったことだ。
 さらりとなんでもないようにいう割に、結構な無茶をやっている。率直に巻島はそう思った。
 男の内心の戦慄をよそに、なおもの独白は続く。

「これでも色々と楽しみにしてたんです。今まで知らなかったお兄ちゃんをたくさん知ることができるって。
 でも、近くにいるからこそ見えたものもあって――これ以上近くなったら、私耐えられないんじゃないかなあって。本当はスゴク見たかったけど、自転車競技部にはあまり近寄らないようにしてました」

 こんな風に、とは戯けるように片方の掌で僅かに見える自転車競技部を指し示す。少し目を離している間に、金城と会話を交している相手が変わっていた。スラリとした長身の、遠目からでも凛とした雰囲気が伝わってくる女生徒である。
 巻島にはその人物に心当たりがあった。己のクラスメートであり、金城の幼馴染。そして校内では知らぬものはいない文武両道の女は、概ね金城の連れとして認識されている。アレでまだ付き合っていないとか言われても俄に信じがたいのだが、割りこむスキがないことには変わりない。件の女はちょくちょく自転車競技部に顔を出しては差し入れをおいて行ったり、あるいは他愛もない世間話を交わすこともある。
 そういえば、少女と部室近くで遭遇したのはあの春だけだった。その時もごく僅かなやり取りを交わしたあと、まるで逃げるように身をくらませている。その後にと言葉を交わしたのは校舎内であったり、あるいは金城家にミーティングがてら遊びに行った際に出迎えの挨拶を受けた程度だ。
 巻島はひとつの疑念を抱く。金城を慕うあまりにわざわざ箱根から飛び込んできたにしては、彼が時間の大部分を費やしている自転車競技に関わらないというのは不自然に過ぎた。
 単純に”兄”として好意を抱いているのであれば、当然接点の多いところに来るのは理解できる。学生が最も時間を過ごしているのは学校内だ。しかし例え通う学校が同じでも、学年が違う以上、より同じ時間を過ごすことを求めるのであれば趣味や部活をすり合わせるしか無い。しかしそれをしない理由はなんなのだ――と逡巡し、巻島はふっとある結論に至った。

「ひょっとして、従兄妹ちゃんは金城のこと――」
「……ヒミツですよ?」

 それは一種の天啓のようなものだった。思いついた次の瞬間には口からはみ出していたため、問うか問わざるかを選択する暇さえなかった。
 案の定、それは彼女の真実を貫いていたらしく、冗談めいた口調で唇に人差し指を添えるの目には、今にも零れ落ちそうなほどの雫が溜まっている。
 近づいたからこそ見えるものもある。確かにそうだろう。金城に近づけば近づくほど、その側に寄り添う存在がはっきりと見えてくる。互いが想い合っていることを嫌でも認識してしまう。校内で女を避けるために確実なのは、出没しやすい場所に近寄らないこと。そこには当然自転車競技部も含まれている。
 破れることが判ってしまった感情を、それでも認めきれずに誤魔化しながら持ち続ける。それはどれほどの息苦しさだろうか。
 恋の痛みにもがき苦しむ少女は、ぎゅっと拳を胸に寄せてなおも感情を吐露させている。

「それと――多分まだ納得できてないんです。あの落車を事故だって言い切るお兄ちゃんに」
「……落車のこと、知ってるっショ」
「無理を言ってお兄ちゃんに当時の状況を話してもらいました。この間、総北に相手の人も来てましたね」
「福富に会ったっショ?!」
「ええ、部室への道を聞かれました。偶然って怖いですよね」
「道聞かれただけ?」
「……そうですよ。それだけです」

 眉を寄せ、苦みばしった表情はただそれだけとは到底思えなかったのだが、ここで詳細を聞き出そうにも口を割らせる自信や材料を巻島は持ち合わせていなかった。
 追求を諦めた代わりと言っては何だが、男はふと湧いた疑問を口にする。それは純粋に好奇心と言えた。

「――ちゃんは、金城の落車の話聞いてどう思ったっショ」
「正直に言っていいですか?」
「勿論」
「――許せない。そう思いました」

 きっぱりとした口調で、迷いなくは断言する。しかしそれに続く言葉は、苦悩に満ちたものだった。

「でも――今更外野がどう言おうと、確定した事実は変えられない。終わったことなんだってのは判ってるつもりです。ただ、それを認めるのが……悔しいんです」

 多分ですけど、と少女は自信無さそうに眉を下げる。

「すみません。こんなどうしようもない話、聞いてもらっちゃって」
「いいや。最初に突っ込んだこと訊いたのはこっちだからな。ちょっとは楽になった?」
「そうですね…… 今まで言えなかった分、少しスッキリしました」
「なら良かったッショ」
「ごめんなさい、部活前にヘンなこと」
「気にするなっショ。まァ……気持ちは判らなくもないし」
「やっぱり巻島先輩も許せないですか?」

 苦笑交じりにが問いかける。おそらくは他意なくその疑問を口にしたのだろう。だがその言葉に、巻島は静かに動揺していた。鏡返しのように返ってきたそれに、ざくりと見透かされた気すら覚える。
 はぁ、と重いため息を巻島はつきながら、言葉を選ぶようにゆっくりと台詞を口にした。

「……まあそっちは当然として、どちらかというと――自分が情けねェッショ」

 ぽつり、と平坦な声が場に溢れる。男が漏らしたそれに、少女ははっとしたように表情を強張らせた。
 金城の落車は事故ではなく過失に基づく事件であったと巻島は考えている。しかし、当事者である金城がそれを否定する以上、とやかく言うつもりはない。そのスタンスは変わらない。
 しかし最近になって――金城の考えはこの件を表沙汰にすることで大会自体がノーゲームになることを危惧したのではないだろうか、と思うようになった。
 落車後の彼は”エース”として、次に繋がる走りを出来うる限りやってくれた。巻島が悔いることがあるとすれば、その負担を彼に多く背負わせてしまったことに尽きる。許せないとすれば、自分自身の不甲斐なさに対してだ。もっと己に力があれば、余裕を持って勝負を仕掛けられた、そうすれば福富が手を伸ばすこともなかったのではないか――そんなどうしようもない”もしも”を考えざるを得ない。

「オレがもっとペダル回せてたら、違った結果だったかもしれないって思うとな」

 今更だけど、と自嘲するように唇を片方だけ釣り上げる。
 男のその様子に、自分が何やら触れてはいけない部分に触れてしまったのではないかと、がオロオロと気遣わしげに焦りをにじませている。よくよく思っていることが表情に出やすい少女だな、と思わず巻島は苦笑した。
 何もが悪いわけではない。少女の告白が多少の呼び水になったのは確かであるが、巻島も自覚の薄かった澱みの底に堆積していた鬱憤だ。巻島自身も、己が吐き出した台詞で、ああ自分はそう考えていたのかと自覚したくらいである。

「――それと、あともう一つ」
「はい?」

 彼女の物言いたげな視線を振り切るように、わざと声のトーンを上げておどけた調子を装う。
 きょとん、と毒を抜かれたような彼女の意識を誘導するように、渡り廊下から見える自転車競技部の様子を親指を立てて指し示した。その先には、金城とかの幼馴染が仲睦まじく話している光景が見える。結構な時間、巻島とは話し込んでいたはずなのだが、なおもあの二人は話題が途切れぬのか、もしくは別の何か重要な話でもしているのか、離れる気配は一向に無い。いっそ苛立ちを覚えるほどに仲睦まじい限りだ。
 ちらり、とが意図を探る為か巻島の横顔を伺うように見る。その視線に肩をすくめてに笑い、巻島も先ほど彼女がしたように人差し指を己の唇に当てた。

「オレもヒミツ」
「……はい。ヒミツです」

 その仕草だけで巻島が言外に何を言いたかったのか通じたのだろう。はにかんだ笑みをは浮かべる。おそらく彼女は今日話した巻島の秘め事を口外することはないだろう。今感じている寂寂にも似た感情を共有するものとしての勘だった。無論、巻島もべらべらと彼女の柔らかな部分を吹聴するほど愚かではない。
 言わなくてもいいこと、あるいは言えなかったこと。それをお互いついつい話してしまったのは、二人が同様に抱えているジレンマがそうさせたのかもしれない。そうして言葉にしなければ自分達の本音を理解することもなかっただろう。
 巻島にはのように想い人のために見知らぬ環境に飛び込んでいけるほどの果敢さはないけれど、もぎ取ったぬるま湯のような居心地のいい場所を手放せる勇気を待ち合わせない臆病さは大いに共感できる。叶わぬ恋心の厄介さは誰よりも巻島自身も身に染みて判っていた。
 互いに心の奥底に溜まっていたものを吐き出しきったからか、数秒の無言が場に落ちる。どちらからともなく顔を見合わせ、へらりと表情を崩した。

「さて――そろそろ部活行ってくるわ」
「話聞いてくれてありがとうございました。お気をつけて」
「いや、こっちこそ変な話して悪かった。じゃあな」

 言って、巻島は本来の目的地である部室へ向かうべく歩き始める。しかし、数歩足を進めたところで、ふと何かを思い出したように動きを止め、首を空へ上げた。少し雲はかかっているが、気持ちのよいスカイブルーが広がっている。その爽やかな色合いに、迷いは消えた。

「――ああ、そうそう」
「何ですか?」
「マネージャーの話、割と本気だから」
「へっ?!」
「金城の――オレ達の夢に付き合ってくれたら嬉しい」

 考えといて、と背中を向けたまま言葉だけを放り投げる。先刻の冗談交じりのそれではなく、今巻島が口にしている台詞は紛れもなく本心からのものだった。
 我ながら酷いことを言っていると思う。けれど、彼女の金城を想う気持ちは本物だ。そしてその感情は、きっと金城の夢であり、総北港港自転車競技部の夢であるインターハイ優勝を助ける大きな原動力になるだろう。それを知りながら利用しようとする自分は悪辣極まりない。
 けれど、見たいと思ったのだ。単純に助けになるからという損得だけではなく、彼女がどのように動くのか、が懸命になる姿をこの目で見てみたいと――願ってしまった。
 が戸惑う気配がするがあえて振り返ることはせず、そのままヒラヒラと手を振ってやりすごす。今は彼女の目を見て話せる余裕はない。しかしそんなことはおくびにも出さず、巻島は悠然とその場を去った。

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