ろくでなし -前編-
には心底から好いた人物がいる。少女の懸想の相手の名は金城真護。”お兄ちゃん”と呼び慕う一つ年の離れた従兄妹同士という間柄だ。物心ついた時に最初に側にいた異性であり、意識した男性である。どこがそんなに好きなのかと問われれば、待っていましたとばかりに滔々と語りだす為、女友達からはその後問われなくなる程である。
少女曰く、鍛え上げた身体や強い意志を感じさせる聡明な眼差しもさることながら、中身である人柄に特に惹かれているという。公明正大、謹厳実直、質朴剛健などなどと、いくら言葉を尽くしても足りぬと思う程度には想いを拗らせた結果、箱根にある実家を飛び越えて、千葉の総北高校を受験し合格。晴れて学業のためという大義名分を得たは、従兄妹という立場を最大限に発揮して金城家に下宿するという形でひとつ屋根の下で過ごす日々を送っていた。
夢にまで見た同居生活は決して夢想したような甘いものではなかったけれど、側に居られることの喜びを噛み締めながら楽しく毎日を過ごしていた。そう――少なくとも、今年のインターハイを迎えるまでは。
夏休みも1/3が過ぎた頃に広島で実施されたインターハイで、金城は肋骨骨折を含む酷い怪我を負った。自転車競技――ロードバイクには転倒や接触、それに伴う落車は茶飯事であると金城本人からも聞いていたし、事実日々の練習であちこち生傷を作っているのも知っていたので、落車に伴う転倒で怪我をしてしまうのも想定内といえばそうだろう。
金城が怪我をしたことは無論家族にも知らせがあった。2日目の夜、自宅の固定電話にかかってきたその知らせは恐らくは心配させまいとしてなのだろうが、”怪我をした。だが、3日目のレースには出るので心配しないで欲しい。”というシンプルなものだった。
その知らせを最初に受け取ったのは他ならぬだったのだが、首筋の産毛が逆立つような居心地の悪さを覚えた。今思えば、それは虫の知らせというものだったのかも知れない。彼の言葉が”出れる”ではなく、”出る”というその違いに気付いたのは後の事だった。
次の連絡はインターハイ3日目。試合の結果が出た後だった。電話口に出たのは金城本人ではなく、総北高校自転車競技部監督であるピエール氏で少々クセのある語り口はいつもと同じだが、そのトーンは常の剽軽なものではなく、どこか沈んだものだった。
「キャプテン金城がレース中に落車、負傷シマシタ。現地の病院で治療済みデスガ、くれぐれも安静にとご家族からも伝えてクダサイ」
その言葉が示すとおり、金城の様子は芳しいものではなかった。膝でも負傷したのか、明らかに庇いながら歩くさまはいつもの凛とした姿の影もない。あまりに痛々しい金城の様子に、帰ってきたら問おうと思っていたことはの中からすっ飛んでしまった。
負傷を抱えて帰宅した金城を慌てて床につかせ、傷のもたらす熱にうかされる従兄の状態が完全に落ち着くまでには数日を要した。
少しでも体調が落ち着けば練習をしだそうとする金城を宥め、時には怒り、とにかく安静にして欲しいとあの手この手を尽くした結果、多少の鎮痛剤の服用を前提にようやく練習再開のお墨付きを医者より貰った日の夜の事だった。愛しの従兄妹殿が体調を崩しているから、と両親の夏休みくらいは実家に戻って来いというラブコールを振りきり続けただったが、GOサインが出てしまった以上箱根に戻らざるを得ない。
だからこそ、訊くのであれば今夜がラストチャンスだと思っていた。インターハイ二日目、その時に一体何が起こったのかを。
夕飯後、金城の部屋を尋ねたは、おもむろに彼の正面を陣取った。練習計画でも練っていたのか、パソコンや各種資料の散らばるローテーブル前に正座する。
一歩も引かぬ姿勢を示す従兄妹にどうした、と金城が声をかけるより前に、が口火を切った。
「――お兄ちゃん、インターハイでの怪我は本当に事故なの?」
少女はぴんと背筋を伸ばしてまっすぐな眼差しでそう問う。
無論、情報としてその日に何が起きたのか知っている。だが、はその情報に納得が出来なかった。第六感、というのだろうか。《真実》は当事者にしか語ることが出来ない。
だからこそ直接金城本人にストレートに聞く手段に出た。敏い彼のことだから、があれこれと調べているのは察していただろう。その上で真っ向から斬りかかる。
その問いかけに、金城は大きくその目を見開いた。そして微かに眉間に皺が寄る。何か言葉を紡ごうとしたのか微かに口元が動くが、逡巡するように再び一文字に固く結ばれる。突き刺さるような妹分の視線が眩しいとばかりに、ほんの少しだけ視線が泳いでいた。
その全てが彼らしさを損なっており、普段嘘など吐かない兄を見慣れているので、不自然さが余計に際立って見える。
ぎゅっと、は膝の上に載せた両の手を強く結んだ。
「嘘ついちゃ、嫌だからね」
「……かなわんな」
はぁ、と大きく息を吐いて、ほんの一瞬金城は瞼を伏せる。その直後、正面からのの視線に交差する彼の眼差しは、いつもの様に済んだ色をしていた。
「確かに、第三者から見れば事故ではないだろう」
ひょっとしたらと思っていたこととはいえ、当事者である男の台詞によって少女に戦慄が走った。まるで頭を横合いから殴りつけられたかのような衝撃を覚える。
腹を割って話す覚悟を決めたであろう金城は、一拍の間をおいて言葉を続けた。
「――インターハイの2日目、オレはある男とトップ争いをしていた。地力は明らかに相手が上だった。だが、勝機はあると信じ、オレは必死に食らいついていた。
相手の一瞬の隙を突いて、追い抜いた瞬間だったと思う。不意に身体が泳いだ。風や自分の意志以外の力で横合いから引っ張られたと理解した時には、もうガードレールが目の前にあって――正直、ぶつかった瞬間のことはよく覚えていない」
淡々と語られる真実に、はただ無言で耳を傾ける。続きを言って欲しいとせがむ少女の眼差しに、当時のことを思い返しているのか僅かに苦味を混ぜた笑みを口の端に乗せ、金城の証言は続いた。
「気がついた時には身体は地面に投げ出されていたし、あちこち痛かったからな。それでもチームのためにゴールを目指さなくては、という一心でペダルを回した」
「――その、お兄ちゃんを引っ張った相手はどうしたの?」
「相手も落車したとはいえ、オレほど酷い怪我はなかった。3日目もレースに出てエースらしくチームを引っ張って優勝したぞ」
「おかしいよそれ!! なんで失格になってないの?」
「申告してないからな」
「え……ッ?!」
サラリと返ってきた予想外の言葉に、思わずの喉からは音が漏れる。しかし金城は尚も大したことではないとばかりに台詞を続けた。
「落車したポイントは丁度コースの監視員や観客もいないような空白地帯でな。オレと相手以外には誰もいなかった。オレが申告しなければただのよくある落車事故さ」
「なんで――ッ」
「確かに言えば失格扱いになって、大会記録からは抹消されるだろう。
だが――言おうが言うまいが、相手に負けたというオレのリザルトは変わらない。総北エースとしてオレが責任を真っ当出来なかったことも変わらない。
相手がどんな手を使おうとも、正面から正々堂々と勝つ。オレが落車したのは相手を読みきれなかった自分の未熟さもあるからな」
少し困ったように笑う金城に、はくつくつと胸の奥から沸き上がる感情を隠しきれないでいた。今にも激高しかねない従妹の頭を優しく撫ぜながら、駄々をこねる子供をあやすかのような口調で男はゆっくりと語る。
「いいか、。もう終わったことだ。落車は事故に過ぎない。
今の――これからのオレにできることはこの怪我を癒して、相手に負けぬ己やチームを作ることだ」
「……部内でこのことを知っている人はいるの?」
「田所や巻島は全容を知っているな。お前を信用して話したんだ。他言無用で頼む」
金城が出した名前は、普段の会話でもちょくちょくと出てくる人物でもあった。自身が彼らと関わったことは殆どないが、それでも金城と友好関係にあることくらいは理解している。三人が単なる同じ部に属する間柄だけでなく、確かな友情という絆を持っていることも知っている。
だからこそ、彼らは金城の意思を尊重するだろうということは簡単に予想はついた。そんな彼らと己を同様に見てくれていることが嬉しいはずなのに、素直にそれを喜べないでいた。
金城の身内として告発することは出来るだろう。だが、そうした所で事態が好転するかといえば、その答えは否である。何よりもそれは自身を信用して真実を話してくれた金城に対する造反となる。
「わかっ……た」
彼の願いは叶えたい、尊重したい。だがしかし告げられた真実はあまりに重く、の胸の内だけでは持て余してしまう。わかったと首を縦にしたものの、焼けた鉄のように自分の言葉ですらも喉に引っかかりを覚えたほどだった。
※ ※ ※
その話を聞いて数日後。やはり納得できぬまま腹の中でモヤモヤとした感情がの中でとぐろを巻く。あれから改めて総北自転車競技部の内情や今年のインターハイの結果を少女は探っていた。
今年のインターハイで総合優勝を飾ったのは、箱根学園だというのはすぐに分かった。高校の自転車競技においてトップクラスの実力を有する神奈川の雄だという。奇しくもの実家からはそう離れていない高校で、地元の友人も何人か通っている。
確かに実家にいた頃、路上でも金城と同じようなロードバイクに乗った男子高校生を時折見た記憶があった。箱根学園はスポーツ系の私立高であるため、他にサッカーなどのメジャースポーツ――野球部がないのがむしろ珍しい――も全国区であり、大々的に報じられるのはそちらが多かったので印象が薄かったというのが正直なところだ。
夏休み中ということもあり、両親に呼び出されて実家のある箱根に戻ってきたは、友人から聞き出した或る場所でじっと佇んでいる。日除けの帽子に白いロングワンピースの裾を自身の腰ほどまであるロングヘアと共に風に遊ばせながら、このコースを辿るであろう箱根学園の自転車競技部の面子を待っていた。
山間の箱根といえど、8月半ばの日差しは強烈だ。ジリジリと地表を焼き焦がす太陽を浴びながら自分は何をしているのだろう、と茫洋と思うところもあったのだが、それ以上にこの目で相手の男を見てみたいという気持ちが強かった。敬愛する金城を陥れた卑劣な男が、未だのうのうと過ごしていると思っただけで、の腸は煮えくり返りそうになる。
なぜ実直な従兄が踏みにじられなくてはいけないのか。彼が弛まぬ努力を続けていたことをは誰よりもよく知っている。それを横っ面から殴りつけてきた相手の男がどうしても許せないのだ。
相手の特定は容易だった。インターハイの出場校や選手リスト、及び試合の結果や当日の出場者を金城の証言と照らし合わせると、導かれる人物はたった一人――箱根学園2年、福富寿一に絞られた。
常勝箱根学園自転車部のエースにして、次期主将と呼び声も高い。プロロードレーサーの家族がいる環境に育ったサラブレッド。それが世間における彼の評価だった。事実、数々の大会でも輝かしい記録と結果をマークしている。地力は相手のほうが上、と分析した金城の評価も頷ける。
だがそれがどうしたというのだ。にとって、かの男は敬愛する金城真護を卑劣な手段で貶めた悪漢にすぎない。とにかく、はその卑劣な男に対して何かしらかの一矢を報いたくて仕方がなかった。
告発はしてくれるなと予め釘を差されてしまった以上、証拠を揃えて大会主催者へと訴える方向性は却下だ。金城の言葉によればこの事実を知る人物はごく少数であるので、彼の希望に沿わずに訴えでてしまえばそれが誰からのものかなどと直ぐにバレてしまう。彼は己を信頼してくれたからこそ打ち明けてくれたのだ。それを裏切る訳にはいかない。失望されたくないのだ。
となれば、一体どうすればいいのだろうか。それが見えないからこそ余計に感情の行き場を求めて激情が身体の中で渦巻く。我ながら厄介だと思いつつも、はけ口のない思いはこの数日募っていくばかりだ。
こういう時、自分が男であればと思ってしまう。今の自分に出来ることはごく僅かで、金城のために出来ることなどほぼない。仮に男であれば、金城の仇討と称して喧嘩の一つや二つ吹っかけにいくところだが、残念ながらの腕っ節はごく平均的な女子高校生のそれであり、体力的には多少の自信はあるものの朝から晩までペダル回しているような連中には及ばないことも理解していた。
そう――とにかく歯がゆいのだ。何かしたい、役に立ちたいと思っていても己に与えられた選択肢の少なさに愕然としてしまう。己の不甲斐なさに強く拳を握り締めていると、視界の端に見慣れぬユニフォームをまとった集団が写り込んだ。
ハッとしてそちらへと意識を向ける。ロードバイクは条件などが整えば時速80キロを超えることも出来る、人力を動力とするものでは最速の部類に入るものだ。場所選びを間違えば、目の前をあっという間に過ぎ去っていくだけになる。
箱根学園自転車部の活動を見てみたい、と相談をした友人から教えられたこの場所は、九十九折の坂が目立つ箱根の山中でも珍しく直線だ。しかし直線と言えども平坦ではなく、ゆるやかな上り傾斜が付いているために速度的には目視しやすいものとなる。
初めて見物するのならここ! と友人に勧められたこの場所は遮るものもなく、目当ての選手を素早く確認できると太鼓判を押すだけあって、もまたすぐに目的の人物が近づいてくる集団にいることを認識できた。
事前に男の風貌については資料を揃えていたので判別は容易であった。ヘルメットからはみ出した髪は脱色されている。男がまたがるロードバイクにも”GIANT”とメーカー名が見えた。やや大柄な身体は遠目からでもよく目立つ。
男――福富寿一は集団となって走っている部員らの中で、協調行動のペースを乱すわけでもなく、さりとて先頭になってペースを作るわけでもなく、どこか緩慢とした印象を纏いながらペダルを回していた。僅かにその眼差しをふせ、漕ぐ足にも何やら力を感じない。だが疲労しているというわけではなさそうだった。
――ふざけるな!
男の様子に、の頭にカッと血が上る。何だその体たらくはと叫びそうな喉を押さえつけるように、口の中の唾液を飲み込む。問い詰めたいことは様々にあり、言葉は浮かんでははじけていくが、今のを支配する感情は溜まりに溜まった怒りそのものであった。
金城が怪我で思うようにロードバイクを操れぬというのに、五体満足なあの男はあのような腑抜けた顔をして惰性でペダルを回しているのか。
叶うならばそれこそこの場から飛び出して殴りつけてやりたいが、福富が集団に埋もれている以上それは難しい。強行すれば相手だけでなく、その周囲も巻き込み大事故になってしまうだろう。それはの本意ではない。
だから――今が出来ることはひたすらに睨みつけることくらいだった。ギリッと奥歯を砕けるほどに強く噛み締め、捌け口を求める激情を瞳に込める。
己の前を通って行こうとする自転車集団のただ一人だけを一心不乱に睨みつけていると、その眼差しに気付いたか、あるいは偶然かふと男の視線がのそれと僅かにかち合った。
おそらくその交錯はコンマ何秒のほんの些細なものだったろう。だが、明らかに福富の表情が動いた。驚きのためか眼がハッと見開かれる。
「――許すものですか」
無意識にの口から呪詛めいた言葉が零れた。ごく僅かな声はおそらく相手には届いていまい。集団もあっという間にの目の前を通り過ぎて先に進んでいく。
取り残されたは、胸に詰まった重い空気を細く長く吐き出す。相手である福富は間違い無く己を認識していた。の眼差しが何を告げたいのかも、僅かではあったが表情に変化があったことから伝わっている可能性は高い。
スポーツでもなんでもそうだが、メンタルというものは時にフィジカルの要素を排するほどの影響力を持つ。が直接兄の手助けになれることは少ないだろう。だが、もう一人の当事者である福富に対してであればどうか。男の様子から見て、落車事件は何らかの心的外傷を負わせているのではないか。そうでなくては兄が認めたほどの力を持つ福富の走りが、あのような腑抜けたものになるはずがない。そこにつけこめばあるいは――仮説ではあるが、試してみる価値はありそうだ。
にたり、と歪んだ笑みをは口の端に浮かべる。ようやく自分が出来そうな事を見つけられた少女は、捻れた喜びをその表情に湛えた。
※ ※ ※
夏休みも終わり、カレンダーもその残数を更に減らす。だというのに蝉の合唱は未だ鳴り止まず、降り注ぐ日差しと共にジリジリと体力や精神力を焼き焦がしていく。過ぎ去る気配のない夏の気配にややうんざりとしながら、一人の少女が帰路に着くべく校門までの道のりを気怠げに歩んでいた。
の足取りの重さは、決して強い陽光やがなるような蝉の鳴き声のためだけではない。彼女の心中には決して晴れぬ暗雲が未だ立ち込めている。
が箱根山中に姿を表すようになって一月弱。夏休みで実家に帰還している間はそれこそ3日と空けずに件の男――福富寿一に対して付け込む隙を見出そうと、彼の通るであろうコース上で待ち構え、剣呑な眼差しで探りを入れていたものだがめざましい効果というものはついぞ現れていなかった。
通う内に彼ら箱根学園のメンバーについても自然と目に入るので、誰がどのような役目を果たしているのかもおおよそ把握できるようになっているのだが、その中でも福富が皆の精神的主柱になっていることはすぐに分かった。だからこそ、その彼を動揺させることが出来ればチームとしての安定感を欠くだろうと類するのは容易だった。トップが信用をなくせば、チームワークは乱れ瓦解する。
しかし、の望みは相手チームの混乱ではなく、あくまで福富個人への報復だ。無用な混乱を与えることは避けたい。しかし当の福富はといえば、最初のうちこそ福富も僅かに戸惑いを湛えていたようだが、8月末の頃になるとその鱗片も感じられなくなっていた。
初めて姿を見せた時には明らかにそのペダルを踏む力が弱まったと思ったのだが、それは己の思い過ごしだったのだろうか。暖簾に腕押し、というわけではないのだが明らかにが望むような妨害行為としては効果が無いように思い始めているのもまた事実だった。
結局のところ己の空回りにしか過ぎないのではないだろうか。所詮は部外者の野次でしかないのだろうか――そんな鬱屈した思いがこの数日蠢いて仕方がない。
金城はようやく普段通りの練習をこなせるようになったばかりだ。しばらくペダルを回せなかった反動なのか、怪我をする前よりもずっと楽しそうにロードバイクに乗っている。どうあがいたところでインターハイの結果が変わらないのなら、その先にあるものを変えられるようにと邁進している。その姿が余りにも眩しくて、結局のところ何も出来ないろくでなしの自分に胸が痛むばかりだ。
もっと何か出来るのではないか。そんな焦燥に駆られるものの、行き場を無くした怒りは体内で渦を巻いていて、簡単に己を解放してくれそうにない。
いっそ当人にぶちまけられれば、とも思わなくもない。だがそんなことをしようものなら、せっかくの金城の信頼を裏切ってしまうことになってしまう。それが何よりもにとって恐ろしかった。
鬱々とした思考を振り払うように頭を振る。堂々巡りの心情にがんじがらめになって身動きができなくなりそうだ。現に考えに足を取られ、いつのまにかその足は歩むことをやめていた。
青すぎる空を恨めしげに見上げ、臓腑にたまった澱みを吐き出す。細く長く吐かれた呼気は何も出来ない自分への嫌悪感に満ちていた。
恨み辛みを抱いて動くことがこんなに重労働だとは思わなかった。身体に纏わりつく倦怠感に嫌気を覚えながら、気を取り直すようにもう一度足を踏み出そうとした時、
「すまない、道を訪ねたいのだが」
「――ッ」
不意にかけられた声に振り返ると、そこには予想外の人物がいた。
大柄な体つきと脱色した髪。力強い意思を感じさせる上がり気味の眉。一文字に結ばれた口元とも相まって、その表情はやや無機質な仮面のような印象を与える。
見間違うはずもなく、福富寿一その人だ。この半月、ある意味での思考の大半を占める相手が少し手を伸ばせば届く距離に佇んでいた。
突然の接触に、思わずは息を呑む。思えば直接対峙したことなどなく、常に距離をとって擦れ違うだけだった相手が、こうして間近にいることに思考が一瞬凍ってしまった。
気づかれない程度に視線を周囲に巡らせば、他にも帰宅しようとしている生徒はいる。その中でよりにもよって自分に何故声をかけてきたのだろうかと苦々しい気持ちになった。
「急に声をかけてすまない。自転車競技部の部室はどこにあるか教えてもらえないか?」
今少しでも口を開けば、途端に相手を罵る言葉しか出てきそうにない。そう思っては懸命に唇を閉じていたのだが、その様子が驚かせたとでも思ったのだろう。詫びの言葉とともに存外に柔らかな口調で福富が問いかけてくる。
とにかくこの場を取り繕わなければ――そう感じて、この憎らしい敵を前に全表情筋を動員しては目と口元に笑みを作った。
「――ええ。他校の方ですか?」
「ああ」
「どうぞ、こっちです」
さっと背を向け、相手がついてくるかどうかも確認せずに歩き出す。男は一瞬逡巡をしたようだったが、すぐにの後を追随してきた。
は少しだけ足を早めて先導しているのだが、男と女の体格差がある。コンパスの違いは明確で、が競歩気味に歩いたところで福富にしては早退したハンデにもならず、付かず離れずの距離を維持したままだ。
リズムが異なる土を食む靴音が二人を包む。男の顔を見れば途端に口から罵詈雑言が飛び出しそうで、はそれを避けるべく一心に前だけを見ていた。ややもせぬ内、その視界に目的地である自転車競技部も軒を連ねる部室棟が立ち並ぶエリアが見えてくる。
ぴたり、とは足を止めると、それに倣うように一歩後ろの気配も歩みを止めた。少女はかすかに目尻に力を入れて再び表情を取り繕うと、半分だけ体を福富へ向けて部室長屋の外れにある建物を指し示す。
「あの部室棟の外れにあるのが、自転車競技部の部室です」
「ありがとう。助かった」
「いえ。では私はこれで」
そそくさと、まるで逃げ出すようにはその場から駆け去る。これ以上言葉を交わせば、抑えきれぬ怒りが吹き出しそうだったのだ。
多くの部室が立ち並ぶこのエリアには死角も多い。さっと二階建ての部室長屋の影に入るように身を隠せば、おそらく福富からの姿を見ることは出来ないだろう。そのまま少女は駆け足で階段を駆け上がると、二階の廊下から身を乗り出して自転車競技部の部室近辺の様子を眺める。
部室内のやり取りが見えるわけではないが、騒ぎが起きれば察することは出来るという微妙な位置であるその場所を確保する。何人かの生徒が少女の様子に不審そうな視線を送るが、この際背に腹は代えられない。
福富が一体何の目的で総北高校へとやってきたのかは分からないが、その目的に金城に対する何かが含まれていないことは考えにくい。福富が何を言うかわからない以上、なにか一悶着起きる可能性だってありうる。
その予想を裏付けるかのように、が観察し始めてすぐに何やら騒々しい気配が離れの部室から沸き立つ。眼下ではちょうど福富が部室前に辿り着こうとするところだった。部室までの距離はおよそ数歩、というところで足を止めた男に対して、室内から飛び出してきた二人の生徒が何かを叫びながら突っかかる。
派手な玉虫色の髪の生徒と、恰幅の良い体格の男は、の知る人物でもあった。共に総北高校自転車競技部の部員であり、金城の良き友人である。
「あー金城! これはアレだマボロシだ!」
「金城ホラ部室にグラビアアイドル来てるっショ!! あ!! まてそいつは迷い込んだ部外者だ!!」
「せーの!」
「せーのって……うわ――ショ!」
やや離れた距離からでも判るほどの大声を出しながら、二人は騒々しく福富を何やら引きとめようとでもしているらしい。名前が出ているからには金城がすでに部室内にいるか、の死角となる場所にいるかのどちらかだろう。福富と金城を引きあわせたくない、という二人の心情に少女は強く同意する。
勢い余ってなのか体格の良い男が福富に体当たりを仕掛けると、流石の福富も体格差で負けたのかぐらりとよろめく。しかし当たりどころが悪かったらしく、たたらを踏むように二、三歩後ずさるとバランスを崩した。まるで部室内に吸い込まれるように身体が傾く。
完全に福富の姿が室内へと消えたその直後、金属同士がぶつかる派手な音が離れた場所にいるにも聞こえてくるほどけたたましく鳴った。
先ほどの音は、おそらく入口近くに立てかけていたホイールの山に突っ込んだのだろうとは予測する。先日部室に金城の忘れ物を届けに行った時、無造作に積まれていて危ないなあと思ったものだ。
その大きな音に対して、何事かと周囲の生徒たちも興味深そうに騒動の中心となっている自転車競技部の部室に視線が集まる。注目の的となっていることに気付いたのか、玉虫色の髪の男は引きつった愛想笑いを浮かべて、慌てて部室内に戻りそのドアを閉じた。
こうなってしまうと、部室内部に吹き飛ばされた男の様子をそれ以上少女が伺うことは難しい。いっそ部室に駆けつけようかと思うものの、は自転車競技部の部員ではないただの部外者だ。例え乗り込んだとしても福富がいる以上、平時のように振る舞うことは尚困難だ。
ここでも再び己の無力さを噛み締めながら、それでも意識と視線は自転車競技部の部室に向け、ひたすらにはその様子を探ることに専念する。もう一度何か騒ぎが起きるようなら、今度こそなりふり構わず踏み込んでやろう。そう強く決意した。
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