もとより物心付いた時から、血の繋がる人間が少女の身の回りにいた事はなかった。
自らの名前を自覚する頃には、自分と同じ立場である他者の群れの中に混じっていた。自分より年上の者もいれば、年下の者もいる。その場所は酷く穏やかで、日々はただ緩々と過ぎていくだけだった。時々その中の誰かが見知らぬ誰かに手を引かれ、《枠》から外れていくこともあった。
何故自分はその場所にいるかなど、考えた事はなかった。少女にとって見れば、その狭い《枠》こそが彼女の世界全てだったのだから。
そしてある日――黒い服に身を固めた男がその《枠》を訪れた。
彼はゆっくりと皆を観察する。多くの他者は懇願にも似た眼差しで熱く男を注視していたが、彼女はそれを蚊帳の外のことのようにぼんやりと眺めていた。
少女は《外》の世界からきたという男に興味など抱かなかった。《枠》に住まう者のいくらかは外界に憧れていた者もいたようだが、彼女は特に現状に不満もなく、知りたいとも思っていなかったので何故そのように熱心になれるのか理解が出来なかった。
男は自身に降り注ぐ熱視線など気にも留めるでもなく、静かに歩きはじめる。その足取りは行き先でも決まっているような確かさだった。やがて、彼は思いもかけないところで足を止める。
少女は自身の前に佇む黒男を見上げた。真っ直ぐに彼は少女を見、そしてすっと手を差し伸べた。
「――来るがいい」
静かな言葉と緩い笑みをたたえる男の顔。少女は喜ぶわけでもなく泣き喚くわけでもなく、漠然とその手を取る。
何が彼の気に召したかは彼女には理解できなかった。この男が一体何者なのか、そしてどこへ連れられるかは判らないが、恐らくはこの《枠》とそう代わり映えのしないところであろうとも思った。
そして特に何も言葉を交わすこともなく、促されるままに彼に従い――ある街へやってきた。
どこへ行くとも知れぬ道を辿る車中、流れてゆく景色をぼんやりと見ながら何となく不思議だなと感じる。
人の行き交いが多く、晴れやかな顔をしているものも多い。窓越しだったが、これほど多くの人を一日の内に見たのは初めてだったし、空が雲一つない綺麗な蒼色だったことも印象深かった。
その反面、高台へと行くにつれ、それまでのざわついていた空気自体が段々と静まっているような気配があった。どこか重く、鉛にも似た何かを感じる。恐らくは通りがけに墓地があったから余計にそう思ったのだろう。
そんなことすら今までの自分の世界とはまるで違う。《枠》から眺め見ていた幻の世界ではない、実体のある様々な力に満ちた場所。
初めて感じるとりどりの気配に、理由もなく胸が跳ねたのを覚えている。
この男に連れられるまでの自分の世界は何の色もなく、ただ無色だった。
だがどうだろう。新たに知ったこの世界は実に色彩豊かだ。心弾むものもあれば、またそれに反するようなものもある。
――もっともっと色んなものを知りたい。そうすればきっと、もっともっと楽しいに違いない。
「――ねえ?」
「何だ」
運転席の男に声をかける。考えてみれば、この男と出逢って初めて彼女から声をかけたのがこの瞬間だった。
平坦な音で返してくる隣の彼に、少女は弾む心持ちを乗せて尋ねる。
「あなたのお名前を教えて。わたしは――よ」
「……言峰綺礼だ」
「コトミネ…キレイ。キレイって呼んでもいい?」
「好きにするがいい」
「うん!」
また一つ新たなことを知った。自分を新しい世界に連れ出してきてくれた人の名前だ。
は言峰をそっと横目で観察する。ぼんやりとしているようにも、まるで全てを見透かしているようにも見える瞳。動きの少ない表情。案外大柄な体格。ハンドルを操っている手も大きい。
何となく、自分の手を見てみた。当然といえば当然だが小さかった。パーツ一つにしてもやっぱり全然違う。
どんどんと情報が入ってくる。空っぽだった世界がゆっくりと満たされていく。
ワクワクする。嬉しい。楽しい。
これからもきっとそうなのだろう。新たな何かを知るごとに色は目まぐるしく移り変わり、更新されていく。
フロントガラス越しに白い建物がその姿を徐々に現し始めた。キラキラと煌くステンドグラスの光に目を細めながら、はそんな予感を抱いていた。
※ ※ ※
「――――ぅ、ん…」
すっと意識が覚醒する。二三度瞬きをした。
――夢を見ていた。いや、夢というには少しばかり鮮明すぎたような気もする。
あれはがこの教会へ連れられてきた日の思い出だ。今でもはっきりと思い出すことが出来る。何しろあの日を境に、何もなかったはずのの世界は一変したのだから。
では眠っていなかったのか、というとそうではない。きちんと眠りに入った自覚はある。それを証明するように室内は薄暗かった。カーテンの隙間から零れた月の光が淡く部屋を照らしている。
ベッドの傍らに置いている時計を確認する。短針長針共に頂点を目指し接近しており、もうすぐ日付が変わりそうだった。
ぽすん、とベッドに背中から倒れこみつつ、残り僅かとなった一日への思いを巡らせる。
…今日一日は散々だった。
昨日の出来事についてランサーを問い詰めようと思ったが、彼の姿は煙の如く消えていてどこにも見当たらない。ギルガメッシュには『その程度の事で我の手を煩わせるな』と一蹴された。では言峰に――と思ったが、こちらも何やら忙しそうで声をかけるのを躊躇ってしまう。
自分で調べようにも結局はなしのつぶてで、夕食後にはベッドに潜り込み不貞寝をしてしまったのだ。こんな中途半端な時間に目覚めたのはそれが原因だろう。
思い返してみて落ち込んできたので、頭を横に振って別の事を考えようと切り替える。そうやって頭の中に浮かび上がってきたのは、無駄足に終わった今日の行動の元凶だった。
関係――
改めて自分の立場の稀薄さを思い知る。昨夜のランサーの言葉が、頚木のように引っかかっていた。
確かに彼らとは血の繋がりがあるわけではない。がこの教会に引き取られてきたのは、ほんの数ヶ月前。彼らは少女がここに連れられて来るよりも前に既に教会にいた。それ以来の付き合いであるが故にこれと言って深いものもない。
だが自身は、この場所とそこに住まうものを好いていた。
確かに時折怖いモノを感じる事はあるが、言峰は良くしてくれるし遊び相手もいる。何事かに拘束されているわけでもなく、学校こそ行ってはいないが本の類は好んで読むし、神父も時折気紛れに教鞭を取って指導していた。だからこれと言って不満もない。
何よりも今までのの世界にはいなかった存在が間近にある事はとても興味深く、そして楽しいことだった。何かにつけて自分から関わりに行き、そしてそれは受諾されてきた。
だからこそ――今回のように、真っ向から拒否された事はにとって驚愕であった。
関係とやらがないと心配することも出来ないのだろうか。それはあまりに哀しい。はただ、近しいものの辛そうな顔を見るのが嫌なのだ。
ぽたん、と何か冷たいものが拳の上に落ちる。端と気がつけば、の頬には幾筋かの軌跡が描かれていた。グスッ、と大きく鼻を啜ってその後を乱暴に拭う。
再び朝まで眠れる気はしなかった。ベッドから起き出すと、夜気に負けぬようにコートとマフラーを装備する。これに長めの靴下を合わせれば、パジャマで外に出ても即座に風邪を引く事もなかろう。
隠してある靴を取り出し、窓を開ける。ふわり、と柔らかな風がレース製のカーテンを揺らした。夜空を見上げると綺麗な月がある。白々と夜天の幕を照らす光は優しい。
ぽい、と窓から靴を投げ、続けて身を乗り出して窓を越える。何度も経験した脱走の手口なので、だんだんと手際が良くなってきた。きちんと足からの着地に成功し、すぐさま靴を履く。
そっと窓を閉め、ゆっくりとは歩き出した。吐き出す息は白く、手先は悴んでいる。手袋も持って来るべきだったかと少しだけ後悔した。だがいつもの”脱走”とは違い、今宵は散歩程度のつもりであるのでまあ問題ないだろう。
教会は高台にあるためか空が近い気がした。月光に負けじと瞬く星々の中に何か知っている星座はないかと歩きながら視線を巡らせる。この時期とこの時間であれば、ギリギリで西の空にオリオン座がまだあったはずだ。あれなら形も星も文句なく立派で、初心者でも見つけ易いと本に書いてあった。
しかし星座を見つけ出せぬまま、いつのまにか教会の正面まで出てきてしまう。遅い時間にもかかわらず礼拝堂には明かりが灯っていた。恐らく、言峰がまだ起きているのだろう。
礼拝堂の天井は高く、上のほうにまで光が満足に届いていないようだった。陽光の下であれば荘厳に感じられただろうステンドグラスは、ぼんやりとほの暗く様々な光を零している。
その上に視線を滑らせて行けば、黒々とした三角屋根のシルエットが見えた。月を背負い、頂点の十字架がどこか不気味にその光を反射させている。
じっとその十字架を見つめながら、は再度考え込んだ。音もない夜の空気はどうしても思考世界へと意識が旅立ってしまう。
――何かが起きている事は確実だ。そして残念ながら、その事象に関与するには何らかの”資格”が必要で、にはそれがないらしい。
判ってはいるが納得できない。したくもない。誰かを想う事に必要なものなど気持ちだけで十分ではないか。
そう憤りながらも、一方でもどかしさもあった。
自分が子供だから関係のないことなのだろうか。ランサーも、ギルガメッシュも、言峰も。彼ら三人はよりも長い年月を経た”大人”だと彼女は思う。
もしランサーのいう”関係”とやらが”大人である”ということであれば――疎ましいこの体質にも意味がある気がした。偽りではあるが、身体だけはその年月を先取りできている。
――肌を斬るような夜風が、の髪を弄ぶ。冬の風はまるで刃物のように冷え冷えとしていた。
その無機質なはずの風に、何か酷く生臭いものが混じっている。鼻の奥に感じるそれは、苦いくせにどこか甘くも感じた。
この匂いには覚えがある。一番最近の記憶は、凛に教えを乞うた時に嗅いだ――そう、血だ。
しかし何故そんなものが香ってくるのだろうか。不審に思い、は元凶であろう風上に意識を向ける。
そこには誰もいなかったが、は微動だにせずその場に留まり暫らくじっと見つめていた。するとやがて一つの影が現れる。誰かに肩を貸しつつ、坂を登ってきたようだった。
「――士郎おにいちゃん?!」
「えっ… その声、ちゃんか?」
月明かりと礼拝堂から漏れる明かりがなければ判らなかっただろう。
深夜に血の匂いと共に訪れた来訪者――それは、何時ぞやに言葉を交わし、食事を与え、一緒に遊んでくれた――衛宮士郎、その人だった。