Seventh Heaven

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2/4: Coffin -1-

 この日の空は、朝から厚い雲に覆われていた。日中となっても、冷たく乾いた強い季節風にも素知らぬ顔をして居座り続けている。鈍色をした水蒸気の固まりは、今にもその裾から冷気の結晶を振り落とさんばかりだった。
 そんな陰鬱な灰色の幕を見上げる。まるで今の自分の心のようだとは思った。
 手の中には言峰より預けられた聖杯のレプリカがある。防寒対策の為の手袋越しにさえ、その金属の冷たさが全身に染み渡るようだ。
 時折吹く強い北風は錆だらけのブランコの金具を揺らし、きいきいと耳に不快な音を奏でている。の他には誰もいない、寂しげな冬の公園。商店街の喧騒が薄らと聞こえる程度で、気配などは少女以外にない。風と音と金属に凍えそうだ。

 レプリカはその重みを酷く増していた。一夜明け、時が経るごとにジワジワと重量が増えていっているような気さえする。
 朝目覚めた後、教会の書庫に篭って聖杯とやらについて調べられるだけ調べてみた。目に付いたところから片っ端から引っ張り出し、それらに目を通す。
 アルファベットで綴られているもの、それとは少し違った形のもの、どう見ても絵記号にしか見えぬもの。本の多くがその三種類に分類され、簡単な漢字くらいしか読み書きの出来ぬにとって、山と詰まれた貴重であろう書籍たちも単なる紙の山に過ぎなかった。
 何とか読める、と判断したものは、子供向けに判り易く勧善懲悪に変遷された絵本が殆どだった。しかしそれら全てに聖杯のことが載っていたわけではない。故に理解出来た事柄などそれこそほんの僅かではあったが、伝承の欠片は知ることが出来た。

 ――聖杯とは。
 神の血を受けた聖なる器。聖者が処刑された際、流れ出た血を受け止めたもの。
 杯に注がれたそれらは、地上の迷える者の願いを叶えるものだという。その力は計り知れず、凡その願望をいとも簡単に実現してしまうらしい。
 そして、それを手に入れようと多くの者が我先にと争った、と…

 調べてみて判ったのはこれぐらいだった。僅かな情報ではあるが、それとて何も知らぬ少女にとってはそれとて重要なものである。
 それにしても、なんでも願いが叶ってしまうとは世の中にはスゴイものがあるものだ。確かに皆が欲しがってしまうと言う気持ちも判る気がする。

 この金色の杯はそれを模したと教えられた。調べた限り重要なのは中身で、器は何でもいいはずだが…このレプリカですら人々の憧れを反映するかのように煌びやかで、艶やかで――それでいて酷く重苦しい。グラスとして使うには装飾過多で、心情的なものを抜きにしても重量があるし、日常品としてはとても使えそうにない。
 そういえば、長い間冷たいものに触れたり晒されたりしているせいか、芯から冷え切ってしまった様な気がする。何か温かい飲み物でも飲みたいところだ。

 ――ふと、悪戯心にも似た好奇心が少女の心で沸き立つ。
 偽物とはいえこの聖杯で飲み物を飲んだらどんな感じだろうか。

「……もっと暖かくなるとかかな」

 ぽそっと呟く。不謹慎と判っていながらも、頭の片隅が『やってみようよ』と囁きかけている。
 そういえばこの公園のそばにジュースの自販機があった。コーヒーの類は飲めないので、温かいものといえば――お汁粉かコーンスープ。程よく小腹も空いているし、小銭もある。丁度いいと言えば丁度いい。
 きれいに洗ってふきあげれば大丈夫だよね? と、こちらは声に出さずに内側だけで言葉にする。
 決意を固め、腰かけていたベンチから立ち上がると――

「……」
「……」

 見知らぬ少女がの目の前に立っていた。雪のように白く輝いている髪、白磁器のような肌、その中で瞬く紅。ビスクドールのような愛らしくも美しい少女である。年の頃はと同じくらいであろうか。
 そんな少女を前に、思わず無言で見詰め合う。何となく、対岸の彼女の態度が呆れ返っている様な気がした。

「え、えっと…何か用?」

 途惑いつつも疑問を投げかける。少なくとも、の方にはこんな美少女に呆れられるような事をした自覚はない。だからその眼差しの理由が判らないのだ。

「…貴女が何故そんなものを持っているのか、少しだけ気になってね」

 そういって銀の少女はの手の中にある金の杯を指し示した。
 成る程そういうことか、とは合点する。確かに遊び道具にしては派手すぎるし、宝石が取り付けられているから価値的にも自分のような歳の者が持っている事を不思議がっても可笑しくない。

「これ、預かり物よ」
「ふん… 大事そうなものだけど、こんなところに持ち出していいのかしら」
「――あ」

 そういえばそうだ。レプリカとはいえ聖杯、そして言峰も『それなりの価値がある』と言っていた。朝からひっきりなしに聖杯について考えていて、どこか感覚が麻痺してしまっていたのかもしれない。
 確かこの公園に来たのは、少し気分を入れ替えようとしたからだったはずだ。脱出セットを入れているリュックに聖杯を入れて、フラフラとここへ辿り着き、レプリカを手に考え込んで――

「ど、どーしよう?」
「わたしに訊かれても困るわ」

 思わず初対面の相手に尋ねてしまうが、返ってきたのは半眼と呆れ声だった。当然である。
 はあ、とあからさまに溜息までつかれる。

「紛い物とはいえ聖杯を持っているから関係者かと思えば…」
「――あなた、これの事知っているの?」
「ええ、よーく知っているわ」

 その言葉の途端、辺りの空気がより鋭く凍った。肌に張り付くようなそれよりも鋭い紅い目。
 ゾワリと首の産毛が逆立つのが判った。少女の瞳が妖しげな光をたたえているように見える。長く見据えているとそのまま引き込まれそうに思えた。

「――あなた、何者?」

 鈴の声だが、それはどこまでも鋭利にの耳に侵入してきた。
 何かの強制力を持った声。それを増幅させている赤い光。クラクラと回りそうな意識を折れぬように支えながら、ぐっと両手足に力を込めた。

「…人に名前を訊く時は、自分から名乗るものだと思うの」
「――――ヘェ」

 の言葉に、白の少女は感嘆めいた呟きを漏らした。さらりとした雪色の髪を後ろに散らし、確固たる自信を持って己の名前を告げる。

「いいわ、その度胸に免じて名乗ってあげる。
 わたしの名前はイリヤスフィール=フォン=アインツベルン」
「いりやすふぃー……」
「イリヤスフィール=フォン=アインツベルン」
「いりやすふぃーる=ふぉん=あいん…ベル?」
「あーもー鬱陶しいッ! イリヤ、イリヤでいいわッ!」
「うん! えっと、わたしの名前はって呼ぶ人もいるよ。よろしくね、イリヤ」

 そういって、はぺこりと丁寧に頭を下げた。
 対してイリヤはガックリと肩を落としている。疲れ切った溜息をついた。

「…はぁ。せっかくシロウに会えて気分よかったのにな」
「――シロウ?」
「独り言よ」
「シロウって… ひょっとして士郎おにいちゃん?」

 こんな感じの。とは木の枝を広い、それを用いてガリガリと地面に線を描く。ニッコリとした感じの優しげな目に少々ザンバラな短髪、そして――何故か手にお玉、そしてエプロンを装備していた。
 当然イリヤもそれを不審に思ったらしく、ぎろんと胡散臭げな眼差しを向けた。

「…なんでエプロンやお玉なんか持ってるのよ」
「お料理上手だったから」

 包丁だとなんか絵的に危ないし。
 そういうに、それもそうかとイリヤは頷いた。包丁だと、一気に危険人物度というか反社会性度が上昇するのは間違いない。
 そこまでイリヤは考えて、自分の思考にハッとする。いや、そういうことではなくもっというべきことがあるのだと思い直し、人差し指をビシィッ! との鼻の頭に突きつけた。

「どうやら貴女の士郎と私のシロウは同じ人みたいね。
 でも――あいつをおにいちゃんと言っていいのはわたしだけなんだから。その言い方、訂正なさい」
「えー。でも、年上のおとこの人なんだからおにいちゃんじゃないの? どう見てもおじさんって歳でもないよ」
「おじさんはもっと駄目!!」
「むずかしいなぁ… じゃあ、士郎…さん?」
「…………おにいちゃんでいいわ」
「あれ、何でもっと機嫌悪くなるの?」
「訊くもんじゃないわ、そんな事!」

 ――駄目だ。この子といると調子狂っちゃう。

 半ば絶望的な気分に陥りつつ、イリヤは内心で頭を抱えた。
 このと名乗る少女は全く持って得体が知れない。何しろ聖杯のレプリカは持っている、簡易的なものではあったが瞳術には抵抗される、おまけに衛宮士郎とも面識がある。
 そのくせ内包魔力の類はからっきしだ。魔術師のように回路の気配を絶っているのではなく、そもそも見当たらない。要するに、そこらの一般人とさほど変わりはない。
 ――だが。イリヤの勘は何かが違うと警告していた。ひょっとすると『人間』というカテゴリーで当てはめてはいけないのかもしれない。人の形を取れるものは様々にある。

 もしそうだとすれば少々興味深い存在だ。多少の魔術抵抗はあるようだが、それは恐らく本人の能力ではなく所持している聖杯――レプリカとはいえ、そこそこの力はあるようだ――が増幅したものだろう。だとすれば、本気で術を仕掛ければイリヤ側に主導権が移る。城に連れ帰り、玩具とするのも面白そうだ。
 白い少女は、ニマリと笑みを浮かべた。勘の鋭い者が見れば寒気を覚えるような性質を伴なったものだが、酷くイリヤに似合っている。しかしその表情を前にしても、は常のようにニコニコとしたままであった。不幸なことに、その手の笑みに慣れすぎていたことが遠因であろう。

 警戒する様子がまるでないにその魔手を伸ばそうとした時――イリヤの身体に大きな波動が走った。神経内を黒い電流のようなものが流れる。
 常人であれば思わず声を上げずにはいられないくらいの痛みを、僅かに肩を震わすだけで抑える。神経と連結している魔術回路が覚えのある気配に疼いていた。どうやら、眠っていた己の従者が目覚めてしまったらしい。

「――残念。もう時間だわ」

 ひょい、とイリヤは肩を竦めて体内にうずまく力を拡散させる。
 多少無茶をすれば術を掛けられるだろうが、それでは精度を欠く。どうせならば完全に掌握してしまう方が面白かろう。

「え、かえっちゃうの?」
「そうよ。これでも忙しい身だから」
「残念… これのこと知ってるみたいだったから、色々訊きたかったのに」

 ションボリとした様子で、は己の手の内にある杯に視線を落としている。細く瞳を引き絞り、凍る声色でイリヤは告げた。

「――関わったって、ロクなことにはならないわよ」
「でも…知らないと駄目なんだ。そうじゃなきゃ――」

 何かがなくなる気がする。

 言っては、胸に杯をかき抱く。『何か』なんて判るはずもなかったが、それでもイヤだった。
 心配したいと願い、隠れた事実を知りたいと願う。それらの感情はこの偽の聖杯を手にして以降更に強まった。月が沈み太陽が昇り、時が経つごとに膨れ上がる。そしてその分量だけ、覚悟の重さも増してゆく。
 だから――正しく判断するために情報が欲しい。命を賭せるだけの決定打が。

「…ねえ、また会えないかな?」
「約束は出来ないわね。言ったでしょ、忙しいって」
「…………」

 イリヤの返答は簡潔だった。当然と言えば当然である。何しろあって間もない相手だし、彼女にだって都合というものが存在するのだ。
 ますます意気消沈する。暗く影を背負う彼女に、続けざまに言葉が浴びせられた。

「――まっ、暇が出来たらここに来てあげるわ。後はの運次第ね」

 その台詞に少女が顔を上げると、既にイリヤはその銀の髪をなびかせ駆け出していた。どんどん遠ざかっていく小さな背中に、は大きな声を上げて答える。

「…うんっ、わたし待ってるから!!」

 ブンブンと大きく手を振る。視界からその姿が消えるまでそれを続けてた。
 そして再び公園にある生き物の気配は一つだけになった。きゅっと、もう一度杯を抱く。

 『聖杯』についてよく知っているという少女――イリヤ。
 また会えるかなど、それこそ天の神様の采配次第だろうが、それでも構わなかった。聖杯を抜きにしてもまた会いたい。同じ位の年の子だし、友達になれたらいいな。そう思う。
 その感情の分だけ、また少し、レプリカが重くなった様な気がした。

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