ざあざあと、まるで雨が降っているかのように笹竹が揺れ、音を鳴らす。上空では更に風が強いのだろう。雲が次々と流れ、月や星を見え隠れさせていた。
柳洞寺へと続く唯一の正道である山門。それへ繋がる長い石階段の入り口に一つの影が佇んでいる。ざわつく空気はまるでこの先にいる主へと警告を発しているかのようだった。
そして――侵入者は、音一つ立てずに長い石段を登り始める。街灯一つない場所であるので、そのシルエットは闇に溶け込み輪郭のみが辛うじて確認できるほどだった。一体何を着込んでいるのであろうか、冬ということを差し引いていてもその外郭は大きく膨れており、特に肩などは何か荷物でも背負っているようである。
影はその歩みを止める事無く進撃を続ける。歩幅が大きいのだろうか、走っているわけでもないのに速度は青年男性の平均より速い。そう時間もかからず、侵入者は山門前に到達した。
妨害工作の一つでも仕込んでいるのか、と思っていたが、呆気なく寺の入り口にまで辿り着き、影は心底から落胆した。
拠点こそそれなりの場所に構えたようだが、守りの一つもないとは――所詮はこの程度か。自分であれば、この道のりに少なくとも一人は腕の立つ者を見張りにつけようものを。
ふん、と小さく鼻を鳴らし、侵入者はその足を境内へと踏み入れた。途端にピリ、と微かな刺激が肌の上に流れる。恐らくは微弱な魔力――侵入者の発見用の陣でも張っていたのだろう。
だが、それは既に遅かった。門をくぐれば既に霊地故のプレッシャーもない。侵入を察知し、迎撃に来ようともそれを力で薙ぎ払うのみだ。
葉擦れの音は境内にはそう大きく響いてなかったが、その代わりに酷く沈んだ雰囲気がその場にたゆたっていた。ねっとりとしたそれは、鼻腔に微かな甘さを残す。魂を徐々に溶解し、糧とする類の気配だ。霊的な守りのないものであれば成す術もなく搾取されるしかないだろう。
「――らしいといえばらしいか」
なあ? と侵入者は横柄にそう呼びかけた。
声を投げたその先――闇夜にその形だけを移している寺を背にし、佇む者がいた。一組の男女だ。女のほうは目深にフードを被っている。表情は口元しか判らなかったが、それでも十分に途惑っているのが判るほどだった。
「…アサシンは何をしていたのかしら。無傷で賊を通すとは門番失格ね」
それでも、気丈に彼女は言葉を紡ぐ。その彼女を守るようにして、背広を着た痩身痩躯の男が前に出た。拳を構え、独特の型で構える。
「番などいはしなかった。大方この我に恐れを抱き、逃亡したのだろうな」
「それはありえないわ。あの門番は、山門から離れられな――」
「冗談であればもっとうまいものを話せ。全くもってつまらん」
侵入者はさも退屈だとばかりに彼女の言葉を一蹴した。途端、空気がその冷たさを増す。冬だから、夜だから――という理由ではない。影から発せられる殺気が、肌に感じられるほどに鋭く突き刺さってくる。
それに反応したのだろう。男がジワリ、と間合いを詰める。刃のような気を感じていないのか、表情は能面のように凍ったままただ敵だけを見据えていた。
「――マスター、下がってください!」
絹を裂く様に女の口から叫びが漏れる。声は完全に狼狽しきっていた。
侵入者の殺気が膨れ上がると同時に、その後ろで何か得体の知れない大きな力がその顎を開こうとしていたことを女は察知していた。単純な魔力量であれば彼女の方が勝っていたのだろうが、それ以外の――そう、そもそもの魂の重さが違うとしか考えられないほどの力。
「――一体貴方は何者です?! 今回召喚されているサーヴァントに貴方のような存在はなかった!」
恐れを払拭するためか、その声は酷く甲高かった。
彼女もサーヴァントだが、セイバーやバーサーカーのように真正面から戦いに挑めるような性質の者ではない。魔術師のクラスは肉弾戦には向いていない。その分魔力量が飛びぬけて、魔術を得意とする脆弱な英霊だ。故に知略・謀略・策謀を廻らし、幾重にも罠を張って獲物を仕留める。それが彼女の戦い方だ。
柳洞寺というこの街きっての霊地に居城を構え、大規模な魔術陣を敷いて街の人々から魂の一部を搾取。同じく聖杯戦争の為に呼び出されたライバル達の動向を観察しつつ、機が熟せば貯えた魔力で持って作戦を敢行する。その邪魔をされぬよう、寺の門番としてサーヴァントがサーヴァントを喚ぶという歪な行動にも出た。
しかし侵入者は門番などいなかったという。歪さ故か、山門以外から動けないはずの暗殺者が消えるなどありえない。そう、倒されでもしない限りは。事前に倒されたのであれば彼女がそれを察する。
他のサーヴァントやマスターたちの情報も恙無く収集していた。不確定要素があるとすれば――召喚されて間もないセイバーとそのマスター。その程度のはずだった。
前提条件を全て無視され、ありえないことだらけである。彼女は軽い錯乱状態になっていた。そんな女に、侮蔑の視線を侵入者は送る。そして朗々とその唇から己が意味を語りだす。
「――冥土の土産に教えてやろう。我はアーチャー… 先の聖杯戦争よりこの地に残るもの」
「な――」
「茶番は終わりだ、道化よ。貴様はここで消える」
雲間が途切れ、やにわに暗い境内に光が刺す。
月光の下に佇む侵入者は、金の髪と深紅の瞳を持ち、全身を金色の鎧に身を固めた青年だった。堂々たる風格はまるで誇り高い王のようで、それこそ魂の奥底から浸透しているほどに自然とそれを発している。
アーチャー――弓騎士。三騎士の一つであるそのクラス。状況把握や偵察を得意とし、遠撃による必殺の手を持つ者。接近戦よりもロングレンジを得意とするところは、魔術師たる彼女と似通っているが…
アーチャーの赤眼が細まる。ゆっくりと指で指し示す先には、彼女のマスターがいた。
直感的に魔術師は弓兵の思惑を察する。サーヴァントはマスター無くしてこの世に現界が出来ない。故に、マスターを狙うのは定石なのだ。
「――逃げて、宗一郎様!!」
咄嗟に己が主人を護るべく、彼の身を突き飛ばし斜線上に自身の身体を躍らせる。出来た事はそれだけだった。
ぱちん、と乾いた指が擦れる音がすると同時に、魔術師の身に風を切って数多くの武器が飛来し、突き刺さる。槍、剣、斧、鏃――それら全てが侵入者の背の後ろに忽然と出現し、彼の号によって飛んできたものだ。
首、腕、腹、脚――全て貫かれ、抉られる。深い傷口からドクドクと血が流れる。
咄嗟に高速神言による防御壁を展開したが、恐るべきことに彼女に向かってきた武器全てが莫大な力を秘めた魔具――宝具であり、それゆえ一瞬にして圧倒的なまでの破壊力で護りを打ち抜き、サーヴァントたる彼女の身体をズタズタに破損させた。
しかし僅かな壁でも防御となったのか、辛うじてまだ意識はある。いや、この場合あるほうが不幸なことかもしれない。痛みはそこかしこから発せられ、魔力と同等である血は身体に留まる気配もない。
ゲホッと、内側から這い上がってきた血塊が口から溢れる。装束を更なる血で汚しつつ、がくり、と膝から崩れ落ちた。それと同時に彼女の身を貫通していた武具たちがその姿を再び虚に返す。
「……戦としては他愛もないが、まあ良しとするか。勘を取り戻すには丁度いい」
言いつつ、アーチャーは再び背後から武器を取り出した。禍々しささえ感じる赤い長柄の獲物だ。
霞のかかる意識に戦慄が走る。魔力の流れからして、アレは因果を操る槍――ゲイボルクに酷似していた。撃てば必ず標的の命を奪うと伝えられる呪われた槍――
あの槍で貫かれずとも、自分はもう長く持つまい。破損が激しすぎて、治癒を施しても復帰は難しい。だからそんな事は無駄だ。だとすれば狙うべきは唯一つ。
「そう、いちろ、う、さま…っ」
逃げて――
再びそう告げるよりも速く、赤い槍は空を裂いた。彼女の主人は人間という枠の中で考えれば相当に強い。しかし、それはあくまで《人間》を基準にした場合だ。魔術の補助もなくサーヴァントたるアーチャーと同じ土俵で戦うには、はっきり言って無謀にも程がある。
男は迫り来るそれを払おうとしたようだが、その行為は無駄であった。ザクリ、と離れている彼女の耳にも音が届きそうな程に深々と、穿たれたそれは彼の左胸を貫いていた。
それを視界にいれた途端、絶望が彼女の胸に去来する。咽喉に血痰が詰まってさえいなければ、思う様に叫び声を上げただろう。声はただ、激しい咳き込みとなるだけだった。
そして――アーチャーは来た時と同じように、唐突に帰っていった。
魔術師には止めを刺すまでもない、とでも思ったのだろう。二人の絶命を確認もせず紅い魔槍を放った後に、事は終わったとばかりにさっさと姿を消した。
彼の判断は正しい。先刻の宝具の連撃は完全に致命傷だった。遠からず、魔術師は現世から消え去るだろう。傷による魔力消費は外部供給をしても回復の見込みはない。要である彼女のマスター――宗一郎と呼ばれた男も、いまや虫の息で落命寸前であった。
彼女はズルズルと、僅かながらに這うようにして身体を前へ進める。ようやっと宗一郎の側にまで来ると、魂を削りながらその身を起こし、血塗れの主人を強く抱きしめた。
微かではあるが、彼の脈動はあった。常よりそう顔色の良い人物ではなく、いまや更にそれに輪をかけ土気色だが、まだ息はある。
「――間に、合う」
僅かな望みだったが、希望は繋がった。このときほど自分が魔術師であったことを感謝した事はなかっただろう。彼女は己の残り僅かな命その物を注ぎ込むように、大きな魔力で持って彼の蘇生に取り掛かる。
いつもであれば、苦もなく成功出来たであろうが今は五分五分だろうと感じていた。だが、その可能性に今は賭けるしかない。よしんばこれで消えてしまっても構わない。ただ愛したこの男をこの場で死なすわけにはいかないと、それだけを強く強く願って魔力を流し込み続ける。命を燃やす。
それをどれほど続けたか、やがて微かに男は身じろいだ。かは、と吐血する。傷口を中心として、鮮やかな色に染まっている胸に耳を澄ませば、先刻よりも鼓動はしっかりとしたテンポで脈打っている。ここまでくればもう心配はあるまい。
「よかった、よかっ、た…っ」
どんなに身を貫かれようと出ることのなかった涙が、ぽろぽろと零れる。透明な染みを彼の服に残しながら、ただただ魔術師は縋るように泣き続けた。
これでもう心残りはない。後は静かに己の運命を受け入れるだけ――
安堵に胸を撫で下ろしていたキャスターの背に、言い知れぬゾワリとした何かが這い上がった。
本能的に腕の中で目蓋を閉じている主人を再度突き飛ばす。何故そうしたか判らないが、とにかくこの場に彼を置いてはいけないと思った。
その直後――ずるり、と《影》が忽然と現れた。いつの間にか空には厚く雲がかかったように一切の光はなく、周囲もそれに合わせるように鈍い色に沈んでいた。
その中に現れたそれは平らな布を幾重にも重ね多様なフォルムで、ヒラヒラとその裾をなびかせている。姿形だけで判断すれば脅威など感じるべくもないはずだが、先程の金色の男以上に魔術師は大きな怖れを抱いた。
「――ヒッ」
引き攣った声が咽喉から漏れる。《影》はその触手をずるうり、と彼女へ広げた。伸びる闇が一瞬にして魔術師の足元まで這い寄る。逃げ出そうにも残り僅かだった魔力は蘇生に使い果たし、ろくに動く事も出来ない。
それを知っているのか、《影》はゆっくりとその手を彼女に伸ばす。ずぶずぶと、底なし沼のように女の身体は地中に沈んでいく。ゾワゾワと死に絶えた神経も含めた全てに、吐きそうなほどの嫌悪感が走る。
「あ、ア、ぁ、あ――――」
全身に広がる黒々としたモノに、全てが飲み込まれる。意識、記憶、誇り、矜持――何もかもが溶け出し、パーソナリティが崩壊していくような錯覚を覚えた。
「宗一郎様――」
最後にもう誰かも判らない名前を細く吐き出し、魔術師――キャスターの身体は闇に消える。
残ったのは暗がりに倒れ伏す男と、彼の浅い呼吸音だけだった。
※ ※ ※
金色の侵入者が去って数分後――新たな来訪者が石段を駆け上がっていた。聖杯戦争に参加する者達である士郎とセイバー、そして一時的に手を結ぶことになった凛とそのサーヴァントである赤い従者だ。
柳洞寺内にサーヴァントが高い確立で根を張っているという凛の見立てにより、強襲をかけるべく四名は夜を駆けていた。この先にいるのは、今街を騒がせている原因不明の昏睡事件の原因であろうサーヴァントがいるはずだ。そのクラスは恐らく魔術師と思われる。
彼らは山門をくぐり、境内に入ったところで息を飲んだ。出迎えがあるであろうと踏み込んだそこは、まるで何もかもが死に絶えたかのように閑散としている。そのあまりの静寂さに一瞬圧倒された。
「…これは」
「――僅かですが魔力の残滓を感じます。この場所にはもうサーヴァントの気配は感じませんが、何者かが戦った後のようですね」
そういって武装した少女騎士――セイバーは周囲に注意深く意識をめぐらす。
黒々と広がる境内の一部に違和感を感じ、そこに駆けた。そこには倒れ伏す男がいた。側によってもピクリと動かないところを見ると、恐らく意識がないのだろう。その状態を確認する。着ている服の色が判らぬほどの大量の血が流れていたが傷口は既に何者かによって塞がれており、命の危険はないように思えた。
「シロウ、怪我人です」
「…マスターか?」
「判りません。意識はないようですが、傷は粗方塞がっています。命に別状はないようです」
セイバーの言葉に、他の三人もそちらへと足を向ける。ろくな光源もないので、それなりに近くまで寄らねば表情の確認も出来ないほどの暗がりだ。
それでも、やはり他人とそう出ないものかどうかの区別ぐらいはつく。セイバーの側に転がっている青ざめた男の顔を見て、凛と士郎はあっと同時に声を上げた。
「――葛木先生じゃない!」
「そういや一成が言ってた。先生、ここで世話になってるって…」
「その情報源は寺の中? 修行してる人たちもここにはいるはずよね」
「ああ。だけどこの調子じゃ中の方も判らない」
「OK、なら手っ取り早くいきましょう。
アーチャー、寺の中をざっとでいいから見てきて。この様子なら多分もう襲撃はないでしょうけど…気をつけてね」
「了解した、マスター」
アーチャーと呼ばれた赤い外套の男は、疾風のように駆け出す。
状況把握に長けた彼であれば、そう時間をかけずに寺内部の状況を探って帰還するだろう。
数分後、予想通りに弓兵が帰ってくる。彼は溜息交じりに報告をした。
「…中は酷く衰弱した者だらけだった。恐らくは昏睡事件と同じく、魂を搾取されていたと考えていいだろう。
内部にそういった魔術の気配はあるが、施工者がいなくなったために解除されている。もう危険は無いが、放置できるような状況でもない」
「そう、ありがと」
「――一体、どうなってるんだ?」
「判らない。でも、綺礼に後始末の要請だけはしなきゃいけないみたいね…」
士郎の半ば呆然とした呟きに、凛はぎゅっと眉間に皺を作りながら不機嫌に回答した。
いたはずのサーヴァント、気配だけ残る何か。
想定外の事態に、言い知れぬ嫌な空気が四名の間に漂っていた。