こつり、こつりと靴音が石畳に響く。徹夜は初めての経験だったが、不思議と眠気は感じていなかった。神経が昂ぶっているせいだろう。
太陽が昇り始めているのか、空は青く高く頭上に広がっている。夜の間は雲が多かったが、今日はどうやら一日中晴れそうな雰囲気である。
先程まで暗がりにいたせいだろう。一層この朝が眩いものに見えた。様々な色彩が鮮やかだ。教会の白い壁、植えられた庭木の緑、そして空が一欠片落ちたような――
「――ランサー」
朝日に眩む視界の中、鮮やかな蒼躯の男がそこにはいた。
腕を胸の前で組み、背を壁にも垂れさせ、沈痛な表情でそこに佇んでいる。丁度、地下からの階段を昇っていれば一番に目に入るような場所にだ。
少女を待ち構えるように場に存在する彼は、目を閉ざしたまま一際強く眉間に皺を刻んだ。
「……胸糞の悪い場所だろ?」
の姿が完全に自身の前に現れたところを見計らったかのようにボソリ、と吐き出す。その台詞に少女は少しだけ間を空けて頷いた。
確かにお世辞にも気分の良い場所といえるものではない。地獄を切り取ってきたかのような所だ。
少女は自身の眼前にいる槍兵の姿を見た。目も醒めるような蒼の髪と、今は閉ざされているがその目蓋の奥にあるのは、通常の人間ではありえぬ紅玉の色。身近にいすぎてそれが異常だとは思いもしなかったのだが、確かに街の人間の中にはありえぬ雰囲気をよくよく観察すれば持っている。
彼もまたサーヴァント――人ならざる存在。不安を抱いているかのようにはおずおずと尋ねた。
「ランサーも、ああいうごはん…は必要?」
「あー…… 一応な。だが、俺にはあんな趣味はないし、やる気もない」
「…そっか」
男の言葉に、ほっと安堵の息をつく。
しかしランサーの言葉は無情に続いた。すっと半眼に目蓋を開き、淡々とした口調のまま事実を語る。
「――だが、令呪で命令されれば従わざるをえない。それがどんなに自分の意に反していようがだ。サーヴァントの身の上の哀しさってヤツだな」
「…」
「もっとも、アイツがそういう命令をするとは思えんがね。オレの令呪は残り一つ――それをそんな馬鹿げた事に使う事はないだろう」
「――その令呪がなくなっちゃったら、ランサーはどうなるの?」
「聖杯戦争が終わるまで契約は生きる。例え令呪がなくてもな。
だが――そうだな。さっさと見切りつけて、新しい主人でも探すか。例えば嬢ちゃんとかな」
言ってランサーは、冗談めかしたウィンクをに送った。その仕草だけで、先程まで纏っていた陰鬱な雰囲気が気さくなものへと一変する。
それに少しだけ少女は微笑んで、少しだけ期待の篭った口調でなおも己の疑問を口にした。
「マスターって、魔術師じゃなくてもなれるの?」
「ああ、一応な。多少能力は制限されるが――どうせだったら気に入った主人にオレはつきたいね」
「じゃあわたしもマスターになれる?」
「既にいる他のマスターとの契約を奪うことが条件になるがな。既に7つの枠は全部埋まってる」
「――そっかぁ。残念」
他の人のは取っちゃダメだよねえ、とは肩を落とす。しかし、ランサーはその言葉尻に着目した。ピクリ、と眉を動かす。
「……残念?」
「うん。マスターになれば聖杯戦争に参加できるんでしょう?」
「嬢ちゃんは――何か叶えたい事があるのか?」
「うん」
その問い掛けに、少女ははっきりと頷いた。すっと身体ごと動かして、先程出てきた場所――《棺》へと視線を送る。その眼差しは強く、揺ぎ無い決意で出来ていた。
「地下の皆を、ギル様――ううん、ギルガメッシュから解放する」
迷いなど一言たりとて含まれていない台詞だった。その凛とした背中に槍兵は変わりようのない真実を突きつける。
「…ギルガメッシュの野郎は強いぞ?」
「うん」
「人間は当然として、並みの英霊でも返り討ちにされるのが関の山だし、ついでにアイツは手加減なんてものを出来る程器用じゃない」
「うん」
「――それでもか?」
強く静かな声音でランサーは訊ねる。
幼く、世を知らぬ者でも――あの英雄王との格の違いは本能で察せられるだろう。ましてやこの少女は酷く勘がいい。自身の力では到底及ぶ存在ではないと判りきっているだろうに。
しかし、そんなランサーの考えなど判っているとばかりに、はコクリと確かに頷いた。
「あそこにいるのはわたしのおにいちゃんやおねえちゃん…家族だもの。
今日までわたしが無事にいられたのは皆が教えてくれたから。そのお返しをしなきゃいけない。
それに――家庭内の問題は家族がガツンと言ってやるのが一番じゃない?」
言ってはランサーへと身体を向きなおすと、にっと青年の株を奪うような笑みを浮かべた。
どこか悪戯めいたものを含んだ――そう、不敵な笑みと言って差し支えのない表情。少女らしい歳相応なものにも見えたし、逆に大人びたもののようにも感じられる。
――参った。降参だ。
そうランサーは心中で諸手を上げる。彼女に慰めなど必要なかった。
こういう無茶で馬鹿げた決断を出来る人間は嫌いじゃない――否、むしろ好ましい。歳や性別、そういったものに関係なく純粋に力を貸したい存在だ。
心中でそんな感想を抱いていると、眼前のの表情が一瞬曇る。反転したそれに、どうしたのだと問い掛けるより早く、少女は眉根をぐっと寄せてぼやいた。
「…でも資格がないなら聖杯を頼るのは無理だね。自力でどうにかできる方法を探さなくっちゃ」
あの様子じゃ直接お願いしてもムリそうだしなあ、と少女はブツブツと口の中で何事かを紡いでいた。
自分の目の前にランサーがいる事なども忘れているかのように真剣に考え込む。
「――オレから一つ提案があるが…訊いてみるか?」
そんなに、まるで悪戯を思いついた少年のような声音でランサーは告げた。
少女は自身の思考を中断し、何事かという視線で彼を見上げる。
見上げられるのは嫌いでは無いが、やはりこういう話は対等の目線で話すべきだろう。そう思い槍兵は膝を曲げ、彼女の背丈に合わせた。ゆっくりと、選ぶように言葉を紡ぐ。
「契約ってのはな、魔術だけで作られるモンじゃない。信用だとか信頼だとか、そういう…人としての要素で成立ってるものも実際では多い」
「うん」
「サーヴァントとしての契約はあのいけすかねェ神父にあるが…
一人の人間として、オレはと契約を結びたい」
少女の小さな両肩に、ランサーは自身の手を置く。
その提案は――ちょっとした思い付きだった。それこそ児戯めいたものである。
「――えっ?」
の返答は短く、驚愕に彩られていた。無理もないか、と僅かに苦笑が表情に浮かびかかるが、あくまでも口元は引き締めたままに保持する。
「オレ達サーヴァントも元は人間の部分をもってるからな。
…まあ、何だかんだ言って命令の類はサーヴァント契約の方が上になっちまうが――それでも、出来うる範囲でに協力しよう」
「ほ、ほんと?!」
「ああ。我が《誓約》にかけて」
この言葉を使うのは久しぶりだ――
僅かばかりの感慨にも似た感情が去来する。
当然ながらその感傷は少女には伝わらない。聞きなれぬ言葉にが不思議そうな表情で尋ねてきた。
「――げっしゅ?」
「…オレの生まれた土地の風習でな。自らに無茶な誓いを立てて、己の力を増幅させるって代物だ」
ま、それが元でオレは死んだんだが――と、こちらは言葉には出さずに説明する。それを告げればは間違いなく《誓約》を結ばないでくれと言い出すのが予想出来たからだ。
どれほどそれが因業なモノでも、無茶な約束をするのは性分のようなものだし、それに何の対価もなく力など得られない事はとっくの昔に知っている。
「さて、どうだい嬢ちゃん。オレと『契約』を結ぶ気はあるか?」
「うんっ! ――あ、でも…」
「でも?」
「さっき『無茶な《誓約》を立てて』って…言ったよね。これもそうなの?」
「あー…まあな」
妙なところで目ざとく気付くもんだ、と肩を竦める。油断した。少々気を抜いた発言をすれば、この少女には時に裏側を悟られてしまう。
僅かに気まずい空気を吹き飛ばすべく、ランサーはすっくと立ち上がる。トン、と軽く己の胸を拳で叩いた。
「だが問題ねえよ。無茶な約束の一つや二つ、叶えてみせるのが男ってモンだ」
「おおー。カッコイー!」
パチパチと素直な喝采を少女は槍兵に贈る。それに少しだけ胸を張って応えた。賞賛の声にはやはり気分がよくなる。
「じゃ、契約成立ってことでイイか?」
男の問い掛けに、はコクリと頷きで返した。
ランサーは利き腕をすっと前へ突き出し、己の武器を思い浮かべる。魔力が編みあがる気配と同時に、虚空から紅き魔槍が現れ、主人の手の中に収まった。
突然の出現に少女が息を飲むのが判った。彼女を安心させるように、僅かに口の端を緩める。ランサーの微笑みに、も少しだけ肩の力を落とした。
それを確認し、槍兵は張りのある声で宣誓の言葉を紡ぐ。
「――我が名はランサー、真名をクー・フーリン。アルスターが光の御子。
我が名と魔槍に懸け、ここに《誓約》を立てよう。
地が裂け、空が落ち、海が押し寄せ我等を飲み込まぬ限り。
汝を我が主となし、命を奉じよう。その剣となり、盾となり、共に戦わん――」
誓いの言葉に場の全てが静まっていた。一種独特の神聖さまで漂ってきている。《誓約》を結ぶ男には常の粗野さは微塵も感じられず、三騎士と謳われるに相応しい威厳と誇りに満ちていた。朝日はそれを祝福するかのように白く輝き、穢れのない冬の冷気は場を引き締める。
ランサーの《誓約》から数秒、保たれていた心地良い静謐を破ったのはやはり彼からだった。
「ってな訳で、コンゴトモヨロシクな」
瞬時に武装を解き、の前に改めて手を差し出す。一瞬疑問符を浮かべたが、上方にある彼の顔を見やり、すぐにその意図を察したようでぎゅっと握り返してくる。
「――うんっ、よろしく!」
いつもの調子の親しみのあるランサーの笑みに、彼女もまたかわらぬ表情で返したのだった。