その日、少女が目覚めたのは太陽も頂点を行きすぎた頃だった。
ふと目を向ければ、そこは慣れた自室のベッドの上。しかし、にはここへ自分の足で戻ってきた記憶がない。最後の記憶は――そう、本に囲まれた場所だ。
現状から推測するに、恐らくは文献の調べ物をしている最中に自覚していなかった眠気に負け、その場で寝てしまったのだろう。徹夜をするのが初めてで、どの程度無睡眠で活動できるのかという現界を知らなかったのだから。
そして何者かがここまで連れてきてくれたものと思われる。それが誰かまでは判らないが、は感謝の意を捧げた。
次に自分の状態を確認してみる。昨日着ていた洋服のままで寝たためか、とてもしわくちゃでよれている。おまけにあの《棺》の床に座り込んだためだろう、既に乾燥はしていたが、嫌な色合いの何か汚れ――あまり深く考えたくない――がスカートや靴下、足に付着していた。
その他として身体のサイズはいつも通り。髪や爪も伸びていない。頭の中はまだ少しぼやけている。
ランサーと別れたのが早朝、それから調べ物をして…今度ばかりは何時眠り込んだのか覚えていなかった。下手をすると丸一日眠り込んでいた計算になりかねない。
そして――グウ、と腹の虫が鳴る。一昨日の夕飯以降、そういえば何も口にしていない。
「…ごはん、の前にシャワー浴びたいかも」
身体の汚れもさることながら、熱っぽさにも似た気だるさを振り払いたかった。寝るのは好きだが、流石に長く寝すぎたらしい。とにかく、このぼやけた思考をはっきりとさせたかった。
替えの洋服一式を持って、フラフラとバスルームへ向かう。洗面所でタオルを用意し、のそのそと服を脱ぎ散らかす。それをかき集めて、無造作に籠へと投げた。
ブルリ、と風呂場の冷気に身を縮こまらせながら赤い印のついたコックを捻る。最初は冷水のままで出てくるので、暫らくそれを流しっぱなしにしておいた。ややあって、暖かな湯気が立ち上り始める。今度は水色の目印の方を回して、湯温を調節した。
温かなお湯を身体全体にかけ流す。外部の程よい刺激からか、徐々に血の巡りがよくなり、脳の方にも新鮮な酸素が供給される。
初めはボーっとシャワーにうたれるがままだっただが、ここに来てようやく意識がはっきりとしてきた。そしてそれと共に、胃の辺りにチクチクとした痛みを覚える。
「…おなかすいたぁ」
丸一日食事抜きというのもこれまた初体験だった。これは一刻も早く何かしらを摂取せねば。そう思い素早い流れでは頭を洗い、身体を洗い、そして泡を流す。きゅっとシャワーの栓を締めると、手早くバスタオルで全身の水気を除去し、身体が冷えないうちに服を着込む。
ほっこりとした心地良さに、うむと満足げに頷くと、駆け出すように台所へと向かった。
さて、何か即座に食べれるものはあるか―― キッチンへと辿り着いた少女は早速調査を開始する。あれこれと見て回り、食材をチェックするが、
「……ない」
無情にも、ろくなものが無かった。絶望的な気持ちが言葉として口から零れる。
麺類やインスタントなどの頼りにしていた物らの姿はとうに無く、野菜も底をついている。なんとか調理可能なものといえば豆腐・挽肉・長葱・豆板醤などの麻婆セットくらい。これらは言峰専用の常備食と化している。
そういえば最近は買い物に出かけた記憶がない。聖杯戦争やら身体異常やらでそれどころではなかったからだ。しかしそれでも日々の食事は取る。補給なしではいつかは備蓄がなくなるのも無理もなかった。
店屋物や外食という選択肢もあるが、生憎とは現金を所持していない。大抵の場合は神父に『買い物に行きたい』とねだってその都度貰い、釣りは返却していた。
そして大抵の場合、ランサーが荷物持ちをかって出てくれていたので彼と二人揃っていくことの方が多かった。一人だけで買い物に言った事は数えるほどしかない。
そうこうしているうちに、胃痛はチクチクからキリキリへと進化しつつあった。声高に栄養を寄越せと内側から催促される。が、ない物はない。
の料理レパートリーはお世辞にも広いとは言えないし、応用力も殆どない。故に麻婆セットでどれほどの物が作れるか博打のようなものだし、空き腹に刺激物は避けたい。
となると、やはり言峰に嘆願して買物へ出る他あるまい。今ならまだ日も上っている。夜の内は出歩くなと釘を刺されているが、買い物程度ならば十分それまでに帰宅できるだろう。
よし、とこれからの方向性を定め、まずは神父を見つけ出すことからはじめることにする。私室や礼拝堂にいれば良いが、それ以外だと本気で途方に暮れてしまう。今ばかりはどうかどちらかにいてくれと願う。台所を勢いよく飛び出したところで――
「――うきゃ!」
顔面に何か当たったと思った次の瞬間には、反動でとすん、とこれまた見事なまでに床に尻餅をついた。
ひりつくように痛む額を抑えながら、前方をよくよく確認してみる。黒いズボンが見えた。視線を徐々に上に上げていくと、見覚えのあるライダージャケットを羽織った金髪の青年――ギルガメッシュが眉を顰めつつそこに居た。
「…前方くらいよく見ろ、雑種」
「う…」
呆れたような声音の彼だったが、全く持ってその通りなので返す言葉もない。
は尻を床につけたまま、ジワジワと台所内部の壁際へと後じさった。何となく、今彼とは顔をあわせづらい。自然と身体が彼との距離をとってしまう。
最後に会ったのは一昨日深夜。昨日は一日調べ物と睡眠に費やしていたので、結構久々の邂逅である。おまけに《棺》の真実を知った後からすれば初めてとなるので、どんな表情や言葉で相対すればいいのかサッパリ判らなかった。
ひとまず、差しさわりのない会話のきっかけを探す。そういえばここは台所、何故彼がこの場所にいるのかを尋ねることにした。
「どうして、ここに?」
「腹が減ったからだ。厨房に来るのは当然であろう」
「……ごはん?」
ぎくり、と少女の身が強張る。ギルガメッシュの『食事』というと、いまや自然とあの地下が思い浮かぶからだ。
僅かに青ざめた様子のを気にとめるでもなく、忌々しいとばかりに男は息を吐く。
「――受肉しているのでな。面倒なことだが、時折魔力だけでなく物質を摂取する必要がある」
『じゅにく』という言葉の意味がよくわからなかったが、は訊き返す気はなれなかった。一体どういう事か、と自分の内側だけで考える。
サーヴァントは霊的存在だと言っていた。という事は、ただの人間であるが見たり触れたりするためには何らかのステップが必要とされるのだろう。恐らく、それが彼の言う意味なのではないかと推測する。
眉根を寄せる。険しい顔をする少女の内心を知ってか知らずか、
「…それとも、貴様はあの《棺》にいる者どもを食めというつもりか? 確かにそうすれば多少の空腹は癒されるがな」
言って、ニヤリと笑うギルガメッシュ。その答えには大慌てで首を左右に大きく振った。
冗談じゃない。そんな事されてたまるものか。
ランサー相手以外には口にしていないが、の今の第一目的は《棺》に囚われている者達の解放である。その自分がそんな事を薦めるわけがない。
ギルガメッシュは、未だぺたんと床に座り込んでいる少女をそれ以上気に留める風でもなく、冷蔵庫へ一直線に向かう。そしてその扉を見、眉を顰めて次は保存食棚へ。これまたやはり難しい表情をしてふう、と溜息に似たものをついた。
「…ことごとく切れているとはな。仕方あるまい、外へ出るとするか」
クルリ、と踵を返し今度は出口まで靴音を響かせて歩く。台所を後一歩踏み出せば退出できる、という距離まで近付いて、金色の男はちらと視線をの方へと投げた。
ビクン、と少女の体が僅かに跳ねる。ドクドクと心臓が波打っていた。無意識に彼との距離を取ろうと思うも、既に背には壁がある。これ以上はのめり込みでもしない限り後退できない。
だらりと油のような汗をたらすだったが、ギルガメッシュはいつもとそう変わらぬ尊大さで言葉を告げた。
「――何をボヤボヤしている。王の伴をする栄誉を授けてやろうぞ」
「――へ?」
思わずの口から間の抜けた音が飛び出す。突然の誘いの言葉に、思考回路がエラー表示をはじき出した。
「あ、いや、えーっと…お金は?」
「問題ない。世の財は須らく我の物だ」
苦し紛れにも似たしどろもどろの少女の問いに、無意味なまでにキッパリと言い切る。英雄王はの返事を待たずしてズカズカと部屋を後にしてしまった。
ぽかん、とそれを見送る。端と我を取り戻し、は暫らくの間迷いと食欲の間で天秤を揺らめかせていたが――結局、更に進化した胃痛に負けて急いで彼の後を追いかけることとなったのだった。