夜の帳の中を姿無き蒼い稲妻が疾走している。摩擦や重力から解き放たれているかのような速度で屋根や地を駆ける獣は、真っ直ぐに柳洞寺へと向かっていた。
音も無く、吹き荒ぶ冬の季節風に身を溶け込ませ、男は参道の入り口へと辿り着く。スピードは落とさぬまま、一気に石段を駆け上った。
山門の前まで一息に辿り着くと、ようやくランサーはその足を止める。黒々と姿を闇夜に映しているそれを見上げ、訝しげに眉を顰めた。
――ここに居付いていた者はどこへ行ったのか。
ギルガメッシュはそのような者など端からいなかった――と言っていたが、それではランサーは納得出来なかった。
何せこちらへと偵察へ出向いた際、刃を交えたことのある相手だ。日本の侍と呼ばれる者を相手取るのは初めてで――しかも、あのように長尺の獲物は奇妙ではあったが、実に興味深かった。
かの漢は道化である自身を自嘲している割に、存外使命には忠実だった。侵入者たる槍兵を迎え撃つべく、その腕を存分に振るった。ランサー自身にかけられた令呪により、彼と全力の死合いが出来なかった事が今でも残念でならない。
第一に考えられるのは誘い込むための罠である可能性だが、侵入後にも背後からの奇襲が無かったという彼の報告を信じれば――恐らくは、ギルガメッシュが侵攻するよりも以前にかの侍は倒されてしまったのだろう。自分の手でそう出来なかったのは惜しかったが、戦場に身を置くのであればそれは常にありうることだ。
故に今宵のランサーの個人的な目的には、彼――確か佐々木小次郎と名乗っていたか――アサシンのサーヴァントを打倒した存在の尻尾を掴むということがあった。言峰の指定した柳洞寺の異変とやらも無論調査はする。
槍兵はふっと息を吐くと同時に、あれこれと考えを巡らせていた頭を切り替えた。細々と考えるのはここまでだ。山門をくぐり、境内へと侵入する。門番に足止めを食らわされていたため、この場に足を踏み入れるのはこれが初めてである。
ランサーは己の周囲に張った警戒は解かぬまま、足元に合った適当な小石をいくつか拾い上げるとそれらに探索用のルーンを書き付けた。魔力を帯びた石はふわりと宙に浮き、それぞれ散開する。
目蓋を閉じ、先行させたそれらに意識の一部をトレースさせていると、ある場所に何か名状しがたい気配を感じた。
「――池か」
脳裏に浮かんだイメージは周囲に草木が生え、水が張ってある場所だった。問題としては、その水が酷く濁っており――性質の悪い魔力に彩られている事である。
この寺に居付いていたのは魔術師クラスのサーヴァントだというから、おそらくは何らかの儀式の舞台にでもなったのだろう。近頃多発していた街の人間の魔力搾取の為、と考えるのがもっとも自然だ。
他の場所に放った石からはその場以上に怪しい気配は察知できなかった。となれば、次の目的地は決まってくる。
大地を蹴り付けるようにランサーは己の身体を運ぶ。次元を渡るが如き疾さで問題の場所まで駆けた。
元は霊地であったであろうその池は、今やその面影を欠片も残してはいなかった。
澄み渡っていたであろう池の水は、まるでコールタールを直接流し込んだかのような色合いで、表面はテラテラとした虹色に鈍く光っている。鼻につく匂いは、正常な考えを妨げさせんばかりの風合いを伴なっていた。
風が強い日であるにもかかわらず、この場所の空気は酷く澱み濁っている。意図的に留められているのか、歪さがそこかしこから漂っていた。
「……成る程。こりゃ確かに異常だ」
サーヴァントが敗れたのであれば、このような状態は長く続かない。キャスターが存命であれば必然の空気だったろうが、彼女は英雄王に撃破された――筈なのだから。
――やはりこれは未だ魔女がその命を何らかの形で繋いでいると考えるべきだろう。ランサーは周辺状況からそう結論付けた。
となれば、残るはアサシンを打破した者の調査だが――
不意に、ランサーの内に閃光めいたモノが瞬く。戦場において培い、そして幾度となく己が命を繋いだモノ――第六感が跳べ、と囁いていた。
槍兵は迷わず立ち位置から真横に身を投げる。次の瞬間には、先程まで男が立っていた場所に幾筋かの黒い刃が深々と突き刺さっているのを視界に捕らえた。
受身を取りながらランサーは地面を転がる。それを追うように次々と刃の雨は降り注いでくるが――その射手を意識内に捕らえている今、蒼い獣にはそれはもはや通用しない。
片足を大地に打ち込み身体全体にブレーキをかけると、不自然なバランスの中から迫り来る短剣を一つ残らず愛槍の柄で打ち落とした。この攻撃が自分一人を狙うものである限り、意識するでもなく身体が自然とそれらを迎撃する事が可能だ。
硬い音を立て、ランサーの前に飛矢となり損ねた剣が落下する。これらは正確に急所である首や額、心臓目掛けて飛んできた物だ。直前まで悟らせなかった気配と、この投擲の技術――腕は悪くないようである。
「出てきな。何者かは知らねェが…オレに飛び道具は通用しない」
静かにランサーは言葉を綴る。しかしその身体から噴き上げる気は高く渦巻き、隠れ続けるのであれば否が応でも引きずり出す、と明確に警告していた。
一瞬の――瞬き一つほどの間を空けた後、木々の隙間に漂う闇にはぽっかりと白面が浮かんでいた。アランカルはその目元を細く歪め、口は顎の限界まで酷く裂けている。そんな奇怪な面をつけた襲撃者は音も無く、のそりとすらした動作を伴ないながら場にその姿を完全に現した。
「――その気配の無さ。貴様、アサシンのサーヴァントか」
「如何にも」
抑揚のない声が返ってくる。それ以上は答える気が無いのか、ただ無言で手に昏い剣を構えた。
ランサーもそれに応えるように、伴なう槍に魔力を纏わせる。彼の中で、一つの小さなパズルが完成していた。
山門にいたもう一人のアサシン――佐々木小次郎を破ったのは目の前の者であろう。それは確信に近い推測だった。
あのサーヴァントは理を違えて喚び出された存在である。故にそこには歪みが生じ、ああいった捻れた存在法則――山門より離れられない――に縛られることとなった。
しかし本来この聖杯戦争における暗殺者のクラスには、常に同じ英霊がその座に就くとされているという。本来のマスターが本来のサーヴァントを召喚し――結果、二重存在になってしまったアサシンの一方が消滅する形で、彼の者は現界を果たしたのであろう。
スゥ、とランサーは槍を構えた。視界は自然と眼前の敵のみを捉える。
初めて相対する敵には実に忌々しいが令呪が働き、全力を出す事は出来ない。しかし、その定められた枠の中でも最大の力をいつでも出せるように心構えだけは万全の体制で挑む。彼に課せられた命は、相手の能力を探り生き残ることだ。必要とあらば、宝具の使用も辞さない。
互いに無言で対峙しあう。張り詰めた戦意がピリピリと肌を焼いた。心地良い感覚に、ランサーの口元が僅かに上向く。新たなるアサシンのサーヴァントとの対決に、密やかに心が躍っている事を隠せるはずも無かった。
それに合わせるかのように、黒衣の暗殺者の気配が揺れる。仕掛けてくるか。ランサーは手にした槍に僅かに力を込めたが――
なぜか不意にがくり、と膝から力が抜ける。タタラを踏むように、上半身が僅かに宙を泳いだ。
何事だ――?!
ちらと視線を足元にやると、そこには既に脛まで地中に飲み込まれた自身の足が見えた。こうしている間にもどんどんと沈んでゆく。
足元にあったのは――《影》。そうとしかいいようのないモノだった。
いつの間に忍び寄ったものなのか、あるいはこれを見越してアサシンは投擲し、姿を現したのか――今となっては知る由もない。だが、これは『まずい存在』だと、ランサーの本能が危険信号をけたたましく発していた。
「――ちッ」
即座に自身の持ちうる全ルーンを動員して膜を張ったが――時既に遅し。奪われた部分の感覚は戻らず、また残る身体も速度は遅くなったもののずぶずぶと沈み行く事には変わりなかった。全身を飲まれるまでそう時間も必要あるまい。
足を奪われ、その特性である俊敏性を失ったサーヴァントを前に、暗殺者はそれでも淡々としていた。平坦に言葉を並べていく。
「…それに囚われれば、逃げることなどは最早不可能。
さらばだ、ランサーのサーヴァントよ。せめてその心臓だけは貰い受けるぞ」
ばさり、とアサシンは身に纏っていたマントを脱ぎ捨てる。その下に潜んでいたのは、酷く歪なバランスの身体だった。長い足、曲がった背、そしてぐるぐると厳重に布で巻かれた右腕。
異形は自身の腕の拘束に片腕を伸ばす。何事かを仕掛けようとしているのだろう。だが、それをみすみす許すランサーではない。たとえ自由にこの身が使えずとも、僅かにでもこの身が動く限り敵に挑み続ける。
「――オオオオオオオオォォォッ!!」
叫ぶ。咽喉を張り裂けさせんばかりの轟きと共に、残った魔力を全て槍に接ぎ込んだ。
「刺し穿つ――」
「――妄想心音」
だが。槍兵が真名を解き放つよりも早く――暗殺者の右腕が空間法則を全て無視して彼に襲い掛かった。
目視できぬ幻の腕がランサーの左胸を貫き、『何か』を握る。アサシンの腕は、迫り来るときと同じように瞬時にそれを手の内に納めたまま戻った。
かは、と口から熱い塊が零れる。蒼い装束の上に血華が花弁を散らした。それと同時に、魔槍の姿が掻き消える。具現化を保てぬほどに、彼の余力はことごとく尽きていた。
濁った意識の隅で己の心の臓を食み、哄笑を上げる者の声が聴こえる。徐々に沈む自身は既に鳩尾のあたりまで《影》に浸っていた。
怖気にも似た感覚は、既に全身を支配しつつあった。ベタベタと何かを塗り付けられ、失われた内部を満たそうとそれは男の身体を侵略している。
没して後英雄に祭り上げられ、その中で繰り返されてきた仮初の死。それが間近にあると悟っていた。何度経験してもそれに慣れる事は無い。ここまでかと覚悟を決める。
それでも――
――ああ、オレはまた《誓約》を破ってしまうのか。
全てが暗転する直前、男は今朝がたに少女と交わしたその事だけが唯一の心残りだった。