日中よく晴れていたせいだろうか。この日の夜は時が進むごとに底冷えが進行していた。
周囲の全てから熱が放射され、霞のように消えてゆく。吐き出す呼気は意識をするまでもなく、当然のように白く濁っていた。
全てが凍りつくほどに冷たく感じる中、ただの一点だけが燃えているように熱い。まるで心臓がその場所へ移行してしまったかのようだ。
彼が――ランサーがそっと押してくれた背中。大きく、無骨な手が触れた箇所。優しく、暖かな感触。
膝を抱えたまま、腕の中へ顔を埋めるようにして、少女はただ無言だった。閉じたままの彼女の目蓋の裏に映っているのは、抜けるような蒼い色だ。
ぎゅっと、手の中にある己の命綱を握り締める。ランサーが託してくれたルーン石のピアス。温もりなどないはずのそれが、仄かに暖かい気がした。
「――まだここにいたのか」
金色の気配を纏う男が礼拝堂から姿を表す。己に声を掛けられたのであろうとは判ってはいたが、は何もそれに対して返す事はなかった。微動だにせず、言葉も発さず、ただその場に存在する。
無反応を貫く少女に、ギルガメッシュはあからさまに舌打ちをした。彼は苛立ちを足音に付随させているかのように音を立てて歩む。俯いたままのの正面にまで移動すると、尊大そのものの口調ではなく、それに腹立ちを露出させて告げた。
「…我は空腹だ。疾く食事の準備をするがいい」
彼の倣岸な物言い対して、常のならば腹を立てるなり文句をつけるなり、何かしらの反応を返したであろう。
しかし、今宵の少女はただ茫洋とした、気のない言葉を発するのが精一杯だった。
「――キレイに言えば、何か作ってくれるよ」
「麻婆の気分ではない」
短いセンテンスを彼は告げ続ける。真意はさっぱりと判らないが、どうやらギルガメッシュには引く気はないらしい。
しかし――とてそのような気など微塵もなかった。彼女自身も寒さは感じている。しかし、それは空気がそうだからではなく、己の内部から冷え切ってしまっていたからだ。その冷気が『絶望』と呼ばれているものだという事を少女は理解することを懸命に拒んでいる。
拒否を続ける脳髄は柔軟さを失っていた。それと同時に血が凍りついてしまったためか、思考もとうに固まりきっていて、今やたった一つの回路しかまともに動いていない。の脳動を占めているのは、ただただ槍兵の事だけである。
彼は戻ってくる。きっと、きっと戻ってきてくれる。
だって約束を――《誓約》を交わした。力になってくれると言ってくれた。
大地は裂けてなどいないし、空はいつもと同じようにその幕を広げている。海とて押し寄せてもいなければ、飲まれてもいない。
だから――戻ってくる。
その時には一番に「お帰りなさい」というのだ。そして心配させちゃダメだと責めてやろう。
そうしたら、きっと彼は困ったように笑って、あの優しい手で自分を撫でてくれるに違いない。
それだけを少女はひたすらに信じ、何時姿が見えてもいいようにと礼拝堂前の階段に腰かけて待っていた。先刻――言峰よりランサー消失の旨を告げられてからずっとだ。
聖杯戦争は命の危険を伴なうもの。それを理解したつもりではいたが、実際にそういった状況に陥って初めてその残酷さを思い知る。そして、ランサーは自分よりも遥かに強いから大丈夫――などと無意識に考えていた自分自身にどうしようもなく腹が立った。彼がいつでも自分の側にいてくれると思い込んでいた。
待ち始めた始めの内は両眼が異様な熱を帯びていたが、暫らくすればそれも背に吸い取られた。体内の熱全てをその場所が背負い、周囲の空気が冷え切る今、残る熱源は凍ってしまった手の中にある彼のピアスだけである。
ランサーがに託してくれたルーン石のピアス。これを預かっていなければ――そのままランサーが所持していれば。ひょっとしたら今日も彼は無事に帰ってきてくれたかもしれない。そんな事を考えてしまう。
一歩、少女の前に立つ金色の青年が間合いを狭めた。その距離は一メートルもない。視線は上空の雲に向けられている。暫らくそうしていたが、ふっと顔を下げるとその先にいるへ向けて再度言葉を紡いだ。
「…このように寒い日は鍋だ。その程度ならばお前でも作れよう」
「――ああ、同感だな。やっぱりこんな日には熱いモノを喰うのが一番だ」
ギルガメッシュの一言に続くかのように、前触れもなく聞き覚えのある声が広場の入り口から聴こえてきた。それを追随するかのように、ブーツの音がコツコツと石畳と闇夜に響く。
はそれを意識に受け入れた途端、弾かれたかのように腰かけていた階段から立ち上がった。先程までの覇気の無さなど、今は欠片もない。瞬間解凍された頬を薔薇色に染め、正しく輝かんばかりの表情をその声の主へ向ける。
「ランサー!」
「よう、。元気だったか?」
「おかえり! 無事でよかっ――」
「――下がれ、」
喜びとともに今にも槍兵の下へ駆け出そうとしていたを、ギルガメッシュが立ちふさがるように制する。
行く手を遮られた少女は抗議の声を上げようと彼を仰ぎ見たが、静かに響くその声音には何故か怒りにも似た燻りが混じっていた。
あくまで視線は前方の男に固定したまま、英雄王の手の中にはいつの間にか鍵に似た短剣が握られていた。掲げられたそれに呼応するかのようにギルガメッシュの背後で空間が捻じ曲がり、揺らぐその向こう側――何もない虚空から幾らかの武器の姿が顔を出していた。
初めて見る英雄王の闘争の気に、は飲まれたように一歩彼の後ろにじわりと後退した。吐き捨てるが如き口調で、ギルガメッシュは背後へ向け言葉を続ける。
「たわけ、お前の目は節穴か? そのように抜けたモノの見方では、命などいくつあっても足りぬぞ」
「おーおー、お優しいこって」
刻一刻と高まっていゆく緊張感の只中に立っているというのに、男は飄々としたままだった。その口元は片側だけが奇妙につりあがっている。
徐々に近付いてくる慣れていた筈の蒼の気配。その全貌が現れるより前にの背が怖気で毛羽立った。
「…違う」
ぽつり、と少女は呟く。身体が震えていた。奥歯がカタカタと打ち鳴らされる。握っていたルーン石を、無意識に強く爪を立てるかのように力を込めた。
ギルガメッシュから漂う殺気に当てられて――ではない。槍兵の笑みが怖かった。
の知る彼は、あんな笑い方はしない。
あんな風に自分を呼ばない。
あんな――歪んだ雰囲気など微塵も知る由がない!
内側から来る臓腑を締め付けるほどの警告に、少女の細い咽喉から叫びが漏れた。
「あなたは誰ッ?!」
「ヒデェなあ、ランサーに決まってるだろ。もっとも、少々事情は変わってきているがね」
ざ、と一歩槍兵は更に前へ進む。
暗がりの中、溶け込むようにしていたその姿がはっきりと判る距離――男の姿は変貌していた。
海や空のように鮮やかだった蒼はくすみ、武装を縁取る銀の色は鈍っている。何かしらの紋様めいたものが露出した肌に浮き出ていた。闇色のそれは血色の縁取りもあいまってか禍々しさがより際立っている。
しかし、それよりもを震撼させたのは――眩いほどに情熱に溢れていた紅い眼差しの変色だった。それは闇夜に輝く琥珀色へと変化している。それを男は細く歪めた。
「に逢いたくてな。泥の底から這い上がってきた寸法よ」
獰猛に犬歯を剥き出しにしてランサーと名乗った存在は哄う。
チカリ、と彼の耳で何かが光った。何もかもが変質してしまった中、それだけは以前の彼の面影を残すかのように白く光を反射している。ルーン石のピアスは――片側だけだった。
その事に気付いた瞬間、彼は紛れも無く自分と《誓約》を交わしたランサー――クー・フーリンなのだとは悟ってしまう。頭を巨大なハンマーで叩き潰されるかのような衝撃が少女を襲った。
驚愕の渦に飲まれるを尻目に、ランサーは今にも番えた武器を発射せんとする金色の英雄へ対峙する。彼は手の内に実体化させた赤黒い魔槍を一分の隙も無く構えていた。